日陰に立つ人 前編
ウツロは時々不思議なことを言う。
曰く。「俺は日陰に在りたい」
初めて言われた時は何の事か分からなかった。
しかも影ではなくて陰なのだと言う。何が違うの、とも聞いた。
影は日を遮ってできるもので、陰は日が当たらない場所なのだという。
それでもなんか分からないよ、とよくよく話を聞いてみれば、それは実にウツロらしい話だった。
明るい所では暗すぎて一色になって見えるものも、暗い所からならば、その輪郭を見ることができる。
だから、自分は陰に。日の当たらない所に立っていたい。と。
暗いのに見えるの、と尋ねたら、ずっと居ると目が慣れるんだと返ってきた。
私達の住む側――所謂「裏側」はこの学校の、暗くて見えない所だ。
できるだけ皆にはのびのびと楽しく、平和に過ごしてもらいたい。
そう私が言うから。
彼らが明るい所に居て見えないものがある場合も、自分が見ておくのだと。
だから日陰に居たいと。ウツロは言う。
□ ■ □
ウツロは用務員だ。
いつからそうだったかは私も覚えていないけれど。気が付いたらそうだった。
人知れず花壇の世話をし、校内の設備を見て回り、必要があれば備品を貸し出したり、職員室や事務室にそれとなく告げて去っていくのだと言う。
生徒や教師の中には顔見知りも居るらしい。けれども、言葉を交わすわけでもなく、名乗ることなんて当然しないから、名前を知ってる人もほとんど居ない。と言っていた。
元々は人を守って生きてきた彼だ。
ウツロは何も言わないけれど、生徒を見守っているのだろう。
面倒ごとはごめんだとか、若いモノに任せるとかよく言っているけれど、なんだかんだでみんなの手助けをするし学校も守ってくれている。
そんな人を「縁の下の力持ち」というのだと、サクラは言っていた。
ウツロが居たい場所の話――日陰論に通じるものがあるような気がして。
「ウツロらしい言葉だね」
そう言ったらサクラは「そうだね」と笑ってくれた。
□ ■ □
ある日。新しいレシピを仕入れてみようかと図書室に向かった私は、校庭へ向かうウツロを見かけた。
私達が住む空間と生徒達が過ごす空間を繋ぐ場所はいくつかあるけれど、基本的には昇降口を使う。ということは表に行く用事ではないのだろう。
何をするのだろう。
なんとなく気になって足を止めた。
思えば、こうしてウツロがなにかの作業をしている姿を見るのは久しぶりだ。
冬が忍び寄る季節だけど、夕方にはまだ早い。外はまだ明るく、表では授業が行われているらしい。どこからともなく教師の声が聞こえてくる。
私達の中には勉学を好む者も多い、というか大人が少ない。生徒達と変わらない年頃の姿をしている人が多いからか、授業や部活、生徒との交流のために表に出ていくことが多い。
今日は何を学んでくるのだろうか。どんな会話をしているのだろうか。
それらを話し聞かせてもらうのが私のちょっとした楽しみだ。
ウツロは黙々と作業をしている。
プランターに土を入れ、花の種を撒いているようだ。
節の目立つ大きな手から、小さな種がぱらぱらと落ちていく。
きっとあれは春になると綺麗な花を咲かせるのだろう。
どんな色の花が育つのか楽しみだな、と思った時。
ふと。日が陰った。
それはただ、太陽が雲に隠れただけだったはずだ。
日が落ちるのは早くなってきたけれど、日没にはまだ早い。周囲はただわずかに薄暗くなっただけだ。
それなのに。
ウツロが影絵のように真っ黒に染まって見えた。
彼はプランターの前にしゃがんだまま。種を蒔く手を翳したまま。
黒い黒い、タールでできた人形のように固まって。
そのままどろりと溶け落ちてしまいそうに見えた。
「――」
その黒いものを、私は知っている。
教室の隅とか、階段の下とか。そういう影になる所にわだかまっている物だ。
ふわふわしているようで、輪郭は曖昧で。触れると重くてどろりとしている。そんな何か。
時々小さな何かを生み出して。噂話で形になって。
いずれは私達と同じような存在になる可能性を秘めたもの。
それは、私がウツロ……当時はカシマと名乗っていた彼に与えたもので。
彼が死してなお、この学校に留まっている原因だ。
ウツロの身体が、それに還ろうとしているのか。それがウツロの形をしているのか。分からなかったけれども。
ただ、ひどく恐ろしくて。とても嫌で。
もう置いていかれたくなくて。
「ウツロ……っ!」
思わず駆け出した。
渡り廊下からそのまま外に飛び出して。一直線に向かう。
視線はウツロから離れない。外せない。
外した瞬間に指の先から何かが滴り落ちて。
手首が。腕が。どろりと形を失って、土や影に溶けてしまうような気がして。
飛びつくように手を伸ばして、彼の腕をぎゅっと掴んだ。
「……英?」
不思議そうな声で我に返る。真っ黒だった腕はいつもの木綿のシャツだった。
視線をあげると、濃い紫が不思議そうに私を見ていた。
いつものウツロだ。
「どうした突然」
「ウツロ……大丈夫?」
「うん?」
ウツロは私の質問の意味が分かっていないらしい。
あれは私だけが見た幻影なのだろうか。
「……うん。何もないなら、いい。ごめんね」
なんでもないんだ。と手を離す。視線を指先に向けると、種が散らばっていた。
邪魔をしてすまない、と謝ると。気にするな、と返ってきた。
「しかし……なんでもない、って言うがな」
そんな訳ないだろう、と手に残った種を蒔いて、ぱんぱんと払う。
「お前さんがそう慌ててやってくるなんて、これまで数えるほどしかなかっただろう――よし、少し待ってろ」
片付けてくる。と彼は立ち上がり、プランターをよいしょと持ち上げた。
□ ■ □
理科室。そのさらに奥の準備室。
私をいつもの椅子に座らせて、ウツロはお茶を淹れてくれた。
いつもは私が淹れるんだけど、今日は「いいから座ってろ」と言われてしまった。
「で。さっきは何があった?」
温かい湯気をあげるお茶を前にして、ウツロはそんな言葉で話を切り出し、静かに私の返事を待っている。
「うん。……実は、ウツロがね。ちょっといつもと違って見えたんだ」
「はあ」
いつもと違う、なあ。と私の言葉を繰り返す。
「どう見えた?」
「なんか。真っ黒だった」
「なんだそれは」
ウツロは不思議そうな顔だ。ということはやっぱり自覚はなかったらしい。
私の見間違いだったのかもしれない。という気が強くなる。
「いや、見たままなんだけど。……昔さ。ウツロの傷を治したの覚えてる?」
ウツロは少し考えて、ああ、あれか。と肯定を返した。
「あの時に使ったものでウツロができてるように見えたんだ」
「……? それは、そうなんじゃないか?」
「えっ」
ウツロは「だってそうだろう」とさも当然のように言って湯呑みに口をつけ、お茶をすする。
「俺はあの時……お前さんが何を使ったかはよく分からんが、その何かを使って生かされた。俺の内にはそれが詰まっているだろうからな。それが表面に出たんだろ」
「そうなのかなあ……」
ウツロの返事は、お茶を美味しく淹れる温度を教えるくらい、よく知ったことのようだった。
ううん、と唸っているとドアがノックされる音がした。
磨りガラスの向こうに見えるのは白い――いや、淡い桜色の影。
サクラだ。