ぼくの嫌いな話
雨の日。
バス停にひとりで座っていると、ひどく心が冷たくなる時がある。
雨の降るバス停で会話を交わし、楽しそうに帰っていく生徒たち。
ぼくはぽつんと座って、それを眺めているだけなんだけど。
ああ、やっぱり誰か一緒に来てもらえば良かった。なんて。
少しだけ寂しくなる。
そういう時に。
最近、もうひとりのぼくが隣に立ってることがある。
傘も持たず、雨に打たれてずぶ濡れで。たった独りで立ち尽くしている。
最初はちょっとびっくりしたけど、すぐに幻想なんだってわかった。
でも、それはどうしようもない実感を持ってぼくに話しかけてくる。
「寒い」
「……そうだね」
ぼくはその影に絶対視線を向けない。
だってそこには誰もいない。聞こえる声も答える声も独り言だ。会話なんて成立しない、ただ溢れていくだけの声だ。
本当は答えない方がいいのかもしれない。けど、少しくらいは答えてあげないと、なんだか可哀想な気がしてしまう。
だってぼくだもの。
たったひとりで、雨に打たれてた頃の。
幸せな今なんか知らない、そんな日々が来ることも知らない。
それなら、少しの会話くらいは付き合ってあげていいと思う。
……キャッチボールにもならないし、寒いし、好きじゃないんだけど。
傘を持ってるぼくは、持っていないぼくに少しくらいはその幸せを分けてあげたって、いいんじゃないかって。
それが、少しは彼の希望になったりするかもしれない、なんて。
ちょっと上から目線で意味もないことを思ったりして。
「雨、冷たい、な……」
「もうすぐ冬だからね」
見上げる空は、雲が重く立ち込めていて。はあ、と吐く息はうっすら白く染まりかけて消えていく。
もうすぐ冬だ。もうひとりのぼくが、一番嫌いな季節だ。
「ああ……みんな楽しそう」
「そうだね」
バスが一台、生徒たちを乗せて発車していく。
ベンチに残された紙コップには、何が入っていたのだろう?
「雨だ」
疑問に答えるかのように零れてくる声。
「そっか」
「溢れそう」
「……そうだね」
どう見ても空っぽなんだけど、ぼくは適当に相槌をうつ。
影のぼくは立ち尽くしたまま。ぽたりぽたりと水滴の影を落としていく。
「この雨、いつ止むのかな」
「夜には止むって、天気予報は言ってたよ」
「……止むといいな……」
「そうだね」
独り言の応酬。意味のないやりとり。
受け答えをするたびに、ひやりとした空気が首筋を流れていく。
彼の立っている所は温度が低いらしい。その冷気はぼくの肩を。指先を。少しずつ冷やしていく。
傘を畳む。手がかじかんでてちょっと動かしにくかった。
あ。これ以上長く一緒にいたらダメかもしれない。
指先だけならまだいいけど、このままじゃぼくの心が、言葉が。冷たくなってしまう。
思い出してしまう。
ひとりで。寒くて。寂しくて。冷たくて。
傘もなくて。屋根もなくて。ただ雨に打たれるしかなかった、たったひとりのぼく。
誰かに会えても。話ができても。
さようならをしなきゃいけない。何も残らない日々。
はあ、と吐く息が白く染まる。
冬はまだ先なのに。指がとても冷たい。
ああ、寒い。
寒くて、冷たくて、悲しくて、なんだかーー。
「ジャノメ」
声がした。
「――」
白い息を吐き出して、振り返る。
そこに立っていたのは、白い髪に赤い瞳が綺麗な人。
凛とした姿が涼やかな、雨の神様。
「シグレ、さん?」
着物を上着のように羽織って、バス停に繋がる渡り廊下をこっちに歩いてくる。
「え。あれ……どうしたの?」
思わず椅子から立ち上がる。
いつもは部屋か理科室に居て、外になんて。バス停になんて来ない人だ。
駆け寄ると、シグレさんは小さな包みを掲げてぼくに差し出してきた。
「?」
手を差し出すと、その上に置かれる。紙に包んでひねってあるそれは思ったより少しだけ重い。
「これ何?」
見上げると白いまつげに縁取られた赤い視線が手のひらに落ちていた。
「先程サカキにな」
シグレさんはぽつりと言う。
「金平糖を分けてもらったからお裾分けだと渡された」
「へえ……?」
それがどうしてぼくに? と言う疑問は顔に出ていたらしい。
シグレさんはもうひとつ同じ包みを取り出してみせた。
「ジャノメにはワシが渡すのが一番だと言われたんじゃよ」
「あはは、そっか」
流石サカキくんだね、と笑うと、シグレさんはため息をつく。
「お前が渡しにいけと言ったんじゃがな……どうも忙しいらしくての」
「へえ。サカキくんが忙しいって珍しいね」
「なんでも頼まれごとを片付けている最中らしい」
「そっか」
それじゃあ仕方ないね、と手の上の金平糖を見る。
ここで開いてもいいんだけど、今食べるつもりはない。それなら後でもいいかなあ、って思い直して学ランのポケットに入れる。
「それで、シグレさん」
「ん?」
なんじゃ、という視線にぼくは尋ねる。
「どうしてわざわざ持ってきてくれたの?」
「どうして?」
繰り返すシグレさんの目が細められる。
何故そのようなことを聞く、って感じかな。
「だってさ。金平糖ってそんなすぐに悪くなるお菓子じゃないでしょ?」
そうさな、とシグレさんは頷く。
「それなら夕食の時とかさ。他にも渡せるのにわざわざこうして持ってきてくれるなんて」
「そんな気分になる日もあろうさ」
「そっか」
頷くとシグレさんは少しだけ目を伏せ、くるりと踵を返す。
「寒い」
戻って寝る、とつぶやいて彼女は渡り廊下に戻っていく。
「あ、ぼくも戻る」
「もういいのか?」
「うん。べつに何時まで居なきゃって決めてるわけじゃないし」
それにせっかくシグレさんが来てくれたんだ。一緒に居られるならその時間を出来るだけ共有したい。……というのは隠してあとに着いていく。
シグレさんは「そうか」とだけ言って、校舎へと歩いていく。
バス停から離れると、冷たい空気が薄くなる。
指先がほわりとほぐれる感じがする。
ひとりぼっちのぼくは、まだあそこに居るだろうか。
少しだけ勢いの弱くなった雨を視界の隅で確認して、ぼくは先を行くシグレさんの一歩後ろで速度を合わせる。
「ところでジャノメよ」
「うん?」
シグレさんが歩きながら聞いてきた。
ぼくに質問なんて珍しい。今日は珍しいことだらけだ。いい日なのかもしれない。
「あそこにいた影はなんじゃ」
声が詰まった。喉がひやりとした。
「え」
ええっと、なんのことかなあ。って。いつものように言えなかった。
それより先にシグレさんが「あれは、お前か?」と静かに言った。
シグレさんに隠し事はできない。心の中の重いものを、彼女の赤い綺麗な目が見ている気がして、顔も見れない。
「……うん、ぼくだよ」
頷いた。
「あれは、ぼく。シグレさんに会う前の、傘のないぼく」
普通に答えようと思ったけど、なんだかうまくいかなかった。
でも、シグレさんはそこに何も言わない。
「隣にいて、冷たかったでしょ」
シグレさんの答えは「さてな」の一言だった。
「ワシは影を見ただけじゃからの。それに、今日は一段と冷える。あの影の冷たさかどうかすらわからぬ」
「そっか」
それが本当なのか、気にするなという遠回しな言葉わからないけど。
シグレさんのこの優しさが嬉しくて。
傘をぎゅっと握ってシグレさんの隣に並んだ。
「えへへ、ありがとう。シグレさん」
「……?」
なんのことだ、とその赤い目は言っていたけれど。
それもきっと、シグレさんの優しさだ。
「だが。ジャノメよ」
「うん?」
理科室に近い階段でシグレさんが思い出したように言った。
「最近、噂話の多くが形を変えつつあると聞いた」
「ああ、そうだね」
ここ最近、もともとある話が形を変えて広まっているらしい。
ハナさんは、靴の色が気になると言い出した。
エディさんは、身長がいつも以上に定まらないとおでこを押さえていた。
ヤミさんは戻ってくるといつもより厳しい顔をしてるし。
サキさんは心配そうに指先を気にしていた。
さりげない仕草で。視線で。
みんな自分に起きている変化を気にしている。
変わってしまう話が、自分にどう影響を与えるのか、心配している。
それがどうしたのだろう、と視線をあげると、シグレさんはぼくを見下ろしていた。
「あの影も、お前に関する何かかもしれぬぞ」
交わされる話には気をつけておけ、とだけ言って、シグレさんは理科室に入っていった。
「……」
理科室の入口で足を止める。
ぼくの話。
シグレさんには言わなかったけど、そんな話を聞いたことはあった。
雨の日。
学校のどこかで気温が一際低いところがあったら。
何もないのに結露している窓があったら。
それは、雨に濡れた生徒がいる証拠。
黒い影に見える彼は、近くにいる生徒に近づいてきて、暖を求める。
だからそういうとこには近寄らない方がいい。
まだ、それだけの話だし、みんな真に受けたりもしない。
でも、そうやって面白おかしく話されるものは、話されてしまったものは。そうして定着してしまったものが。
ぼく達に影響を与えない訳がない。
振り返ってみる。
誰もいない。いるはずがない。
あの影は幻想だ。ぼくじゃない。
でも。もしかして。が頭から離れない。
ぼくが嫌いなぼくは。
ぼくになろうとしているのだろうか。
もし「バス停の赤い蛇の目傘」が「黒い影」になってしまったら。
その話が、ぼくを飲み込んでしまったら。
寒気がした。
背後にあの黒くて冷たい影があるような気がして、傘の柄をぎゅっと握ってみたけれど。
傘は、ある。
でも、握りしめたぼくの指先はとても冷たかった。