池の底で澱むように 前編
庭の見える和室。
火鉢の隣で、獏は一冊の本を取り出した。
庭の池には何も居ない。藻が沈んでいるのか、薄緑の水を静かにたたえている。風もないらしく、水面も揺れることなく雲間からわずかに覗く空を映していた。
隣に置いていた箱から、飴玉をひとつ取り出す。
池の色に似た深い緑色のそれを口へ放り込んでころりと転がすと、甘い中に抹茶のような仄かな苦みが混ざった味がした。
今日のはまずまずだ。
本の共には良いだろう、と獏は頷いて本のページを捲る。
読んでいる本はサクラの記憶だ。
いつもは隣の部屋によく分からない形で漂っているそれを、時々こうして読むのが獏の趣味のようなものだった。
ただただ記録されていくものだから手に取る形は好きにできるのだが、自分はこの形式が気に入っている。
あいつは勝手に見るなと言う。見る度に頭痛がする、目眩がする、なんか嫌だと文句を言う。そう言われても、他に暇を潰す術を持っていない。
それなら身体を貸してみるか? と聞いたこともあるが、絶対にやめろと嫌がられた。
それなら、これくらいはいい加減諦めてもらいたい。
全てがそこに記されているわけではないし、読んだところで暗記しているわけでもないんだから、とぱらぱらと捲る。
そこにはサクラの記憶が日記のような形式で綴られている。
大体は誰と何をしたかとか、学校内で聞こえてきた噂とかが書いてあるばかり。彼らしく真面目な筆致で綴られる内容に、大きな変化があるわけではない。
けれども。ここ数ヶ月は別だった。
ぱらぱらと捲ってみるだけでも、サカキの名前の出現頻度が大きく減っているのが読み取れた。
「ここまで減るまで放置とか、あいつ何考えてんだか……」
彼はそのことに気付いてはいた。それは話していて分かった。
ただ、それに対して何も対策をしていなかっただけだ。
「……」
無意識に舌打ちをする。
サクラは自分の人間関係に無頓着すぎると、獏は常々思っている。
誰とでもそれなりにいい関係を築くものの、一定以上の距離には踏み込まない。
獏がサクラを知った頃からそうだから、元よりそんな性格なのだろう。
だが。
ちらりと本から視線を外し、部屋の隅に置いてある本棚へと視線を向ける。
本棚の最下段。その奥にある小さな箱を、獏は知っている。
その中にあるものが何かも。
それがどんなものかも。
「だってのになあ……」
サクラが隠し持っている感情なんて、面白くはあれど正直興味の対象外だし、自分がサクラの何かを心配してやる義理なんてこれっぽっちもないのだが。
それでも彼の行動には溜息が出た。
獏の目に映るサクラは、停滞しているように見えた。
いや、ここに住む者はそのきらいがある者が多い。
変化といえば、外部――主に表からの影響がほとんどなのが、その理由だろう。
例えば。新しい噂話が生まれたとか。
例えば。誰かが新しくやってきたとか。
例えば。学校のどこかに変化が起きたとか。
そういうことが外部で起こらない限り、こちら側に変化はない。
だから、この中にいる限り停滞するのは仕方ないのかもしれない。けれども、このままではいつしか彼らの悩みは尽きて、夢も変わりない味になってしまうだろう。
まあ、生徒は毎年入れ替わるし、人間の悩み事は尽きない。
似た悩みであっても人それぞれだし、噂話は語り継がれ、変化し、時には新しいものが生まれるのだが。
どうしようもなく変わらないモノもある。
中でも一番目につくのがサクラだった。
ここに長く住めば住むほど、変化が起きにくいのは確かだ。
だが、サクラは特にその変化を見ないようにしていることを獏は知っていた。
確かに自分自身に変化が起きているのに、見ないふりをしている。気付かないように、見ないように。しまい込んで忘れている。
それが、気に入らない。
とはいえ、ここで自分が溜息をついたところで彼の行動が好転するわけではない。
本に視線を戻して、ページを読み進めることにする。
そこに記されていたのは、最近起きた現象にまつわることだった。
一連の出来事が「縁」によるものだったこと。
その元凶になっていた少女が消えることで、事態は落ち着いたこと。
その後のこともぽつりぽつりと綴られていた。
「ふうん……」
獏は一番新しい日付まで目を通し、本を閉じた。
「縁、なあ……」
ごろりと寝転がって考えてみる。
自分の指を見るなんて無駄なことはしない。
どうせ見えないものを見たって、そこには何もないのだから。
池の方から何かが跳ねる音がした。
口の中の飴は、とっくになくなっている。
ぼんやりと天井を見上げていると、まぶたが重くなってきた。
風はない。そのままうとうとと寝てしまうには、まだ肌寒いが、火鉢の熱がその眠気をゆらゆらと呼ぶ。
そのまま寝入ってしまおうかと思った所で。
「――あれ」
襖の開く音と共に、声がした。
□ ■ □
夢の中。
和室に入ると、獏が寝転がっていた。
桜色の髪を畳に散らして、第一ボタンだけを外した学ランの胸元には本が一冊置いてある。
思わず上げた声で彼は目を開け、めんどくさそうな視線を向けた。
「そんなところで寝て、風邪引いても知らないよ」
部屋に入ってきたサクラは、そう言いながら手をさする。指先が冷えているのだろう。火鉢にあたるつもりらしく、そっちへと向かう。
「は。夢の中なのにそんなことあるもんか」
言外に「それはおまえが風邪を引いたときだ」と含めて鼻で笑う。
「そう。それなら別にいいんだけど……って、オマエまた俺の記憶読んでるの」
通り過ぎようとした時に目に入ったのだろう。不機嫌そうな顔をして胸元の本を取り上げる。
「いいじゃねえか。おかげで最近の事は良く分かったぜ?」
そう、と答える声はぶっきらぼうだ。
溜め息をつきながら火鉢の向かいに座るサクラに「不機嫌そうだな」と軽口を叩いたら「当たり前」と返ってきた。
炭を火箸でいくつか並べ直すサクラに、獏はなんとなく問いかける。
「で、おまえはもう結び直してもらったのか?」
「ん?」
炭を並べ終えた火箸を刺しながら、彼は一瞬不思議そうな顔をする。が、すぐにその質問の真意を拾い上げて「ああ、うん」と頷いた。
「リシュちゃんに結び直してもらったけど……それがどうかした?」
「いや、それなら心配はいらねえなと思って」
獏の言葉にサクラの首が傾いた。
「……オマエが俺に心配してることとかあったんだ?」
それなりにはな、と答えるとサクラが目を細めて怪訝そうに獏を見る。
「おまえは人間関係に無頓着だからな」
「そう?」
そうなんだよ、と答えるとサクラはよくわからないと言う顔で本に視線を落とした。
「別に、それは俺の勝手だろ。オマエに心配される程のことじゃないよ」
「まあ、そうだけどな」
獏はちらりと部屋の隅にある本棚に視線を向ける。
サクラはその奥にしまわれた箱に気づいていない。
しまい込んだのはサクラ自身だというのに、忘れ去っている。
ああ、しょうもないやつめ。とため息が出そうになった。
サクラはそんな獏の視線には気付かなかったらしい。さっき取り上げた本をぱらぱらとめくっている。
「おまえさ」
「何?」
サクラは視線を上げずに声だけで返事をする。
「いつまでそのままでいるつもりだ?」
「……何が?」
視線を上げて、彼は不思議そうな顔をした。
「いや、ここに来るおまえはいつだって、俺と出会った時のままだ。いつまでその姿を引きずるつもりだ?」
獏は、眼鏡こそかけていないものの、短く整えた髪に学ランという姿をしている。それは現在のサクラとうり二つだ。
だが、サクラ自身はそうじゃない。
長い髪をひとつにまとめ、着物を着ている。眼鏡だけは今と同じだが、それ以外は獏が出会った時そのままの姿だ。
実際には着物を学ランに変え。眼鏡をかけるようになり。髪型も変えていると言うのに。
夢の中で彼が着物以外を纏う姿を見たことがない。
それは、彼自身が当時からほとんど動いていない、なによりの証拠だった。