彼女が残したもの
理科室に戻って来た彼らを出迎えたリシュは、瞬きをひとつして。その状況に絶句した。
隣にいたヒキホシが背中をそっと支えてくれなかったら椅子に座り込むだけでは済まなかったかもしれない。
「ああ……なんてこと」
戻ってきた3人は傷だらけだった。
すでに保健室へ行ってきたのだろう。傷の治療は施されており、あちこちに絆創膏やガーゼが見える。
「ヤミちゃん、これはまた随分と傷だらけだね」
「まあ、うん」
声をかけるハナに答えるヤミも。
「ウツロさんもだけど……ハナブサさんまで。大丈夫?」
「ちゃんと治療してもらったから大丈夫だよ」
サクラの声に答えるウツロとハナブサも。
その指にある糸が、地面に落ちて引きずられていた。
ハナブサはまだ繋がっている糸の方が多く見えるが、ヤミとウツロは繋がってる糸の方が圧倒的に少なかった。
何があったのかは容易に想像がつく。ライネと戦ったのだろう。
そこできっと、糸が切れるだけの事態が起きたのだ。
残された糸の端を見るだけで、頭がくらくらした。
でも、そうは言っていられない。
少しでも何があったのか聞いておきたい。
と、部屋を見渡して戻ってきたのが3人だけだったことに気がついた。
背中を支えてくれていたヒキホシにお礼を言って、リシュはそっと席を立つ。
「あの……ハナブサ様」
「うん?」
頬にガーゼを当てたハナブサに声をかける。
「その。シャロン様と……ライネ様の姿が、見えないのですが」
二人はどうしたのか、と尋ねると、ハナブサは珍しく表情を曇らせた。
それだけで、大体の状況は理解できた。
「シャロンは……まだ屋上に居ると思う。日が落ちてしまったら、ウツロが迎えにいくって――」
「それ、私に行かせてくださいませ」
言葉が思わず口をついて出た。
「でも、リシュも顔色が良くない」
「いいえ、私は大丈夫ですわ」
大丈夫、と言い切る。笑ってみせる。
その言葉にハナブサは少し考えたようだったが。
「うん。それじゃあ……お願いしていいかな」
静かに笑って、そう言ってくれた。
□ ■ □
日が暮れても、シャロンは戻ってこなかった。
まだまだ風も冷たい季節。このままでは身体をすっかり冷やしてしまう。
上着を羽織り、予備の分も手にしたリシュは、屋上への階段を上る。
屋上前の踊り場まで来ても、静かだった。
誰もいないんじゃないかと思ってしまうくらい、人のいる気配がない。
でも、屋上へと続く扉の窓からは、すっかり暗くなった空と、薄暗く沈んだ屋上と、それに溶け込めていない癖のない金髪が見えた。
やっぱり、そこにいたのはシャロンひとりだ。
ライネの姿はない。
ハナブサも、ライネのことは口にしなかった。
それはきっと。そういうことだ。
少しだけその後ろ姿を見つめ。
呼吸を一つして。
リシュは冷たい扉に手をかけた。
風はそんなに強くない。ただ、冷たい空気だけがそこにある。
「シャロン様……」
白い吐息で声をかける。返事はない。
「シャロン様。このままでは風邪を召してしまわれますわ」
近寄って上着をそっと被せると、こくり、と小さく頭が動いた。
けれども動く気配はない。見覚えのあるパーカーをぎゅっと抱きしめて、シャロンは俯いていた。
「ここは冷えます。中に、戻りましょう……?」
肩に手をかけると、すっかり冷えた彼女の髪が指に触れた。
「……リシュ」
小さな声がした。
これまでシャロンから聞いたことのない。聞くなんて思いもしなかった位、弱々しく掠れた声だ。
「はい」
リシュは隣に膝をついて、彼女の声に耳を傾ける。
髪の隙間から見えた横顔には、涙の跡があった。
「……ライネさ」
「はい」
「糸に、なっちゃった……」
「そう、ですか……」
彼女が抱いているパーカーが、ライネの末路を語っている。
「ヤミとウツロさんに負けて、力も使い切って……そのまま」
「……はい」
リシュは頷きながら静かに耳を傾ける。
冷たい風が吹く。二人の髪を、梳くように過ぎていく。
「でもさ。ライネは……最期までライネだった」
「……」
「辛かったんだよ、やっぱり。……でも、自分で抱え込んで、何も言わないで、ひとりで、全部決めちゃって……ホント」
勝手だよね、とシャロンは言いながらも小さく笑った。
そこで言葉はしばらく途切れる。
シャロンはまだ、目の前の現状を受け入れ切れていないのだろう。
リシュだって、現状を受け止め切れていない。目の前で見ていた彼女なら尚更だ。
「――」
リシュはシャロンになんと言葉をかけたら良いのか分からないでいた。
ただ、寄り添うしかできない。
寒くないように。寂しくないように。少しでも、辛さを和らげられるように。
「……ごめんね、リシュ」
寒いよね。とシャロンの声がした。
「いえ。私は大丈夫ですわ」
「……指先、こんなに冷えてるのに」
「あ――」
シャロンが小さく笑って、リシュの指にそっと触れる。
「……うん。大丈夫」
自分に言い聞かせるように、シャロンは呟く。
「大丈夫だよ。もう、涙は流したし。これ以上止まってたら、きっと怒られちゃう」
「そう、ですわね」
少し前のライネを思い出す。
シャロンやリシュが失敗して落ち込んだりした時は、気が済むまで話を聞いてくれた。
それから「はいはい、しっかり振り返ったんなら、ちゃんと前を向きなさい」とジュースをくれることが多かった。
いつまでも悩んでいることが好きじゃない人だったから。
きっと、今この状況を見たら呆れた顔で背中を叩くのだろう。
「ごめんね。そろそろ戻ろっか」
「はい」
頷くと触れた指が静かに離れた。
シャロンは立ち上がってパーカーを大事そうに抱え直す。
じっと見上げていると、明るいグリーンの瞳がリシュを見下ろした。
「リシュ」
はい、と手が差し出される。
「――あ、ありがとうございます」
手を引かれて立ち上がると、シャロンの指はするりと離れてパーカーの下に戻っていく。
そうして二人は屋上を後にする。
屋上を出る直前、リシュは一度だけ振り返ってみた。
そこにはもう、真っ暗で。
誰もいなくて。
ただ、切られた糸だけが風に遊ばれていた。
□ ■ □
暖かい理科室へと戻る途中。
「ねえ、リシュ」
シャロンは抱えていたパーカーを片手で持ち直し、その指をリシュへと向けた。
「シャロン様?」
その意図が読めなくて、その指先とシャロンの横顔の間で視線を彷徨わせる。
「私はもう見えないんだけどさ。リシュなら、見えるかな」
「?」
ああ、縁の糸のことだ。と気付いて、彼女の指にある糸を見てみる。
差し出された指には、色とりどりの糸があった。
その中の一本だけ。
黒い糸が、指と指を繋ぐようにあった。
縁の糸が、ひとりの指で完結している。
それは、とても珍しい現象で。リシュはぱちりと瞬きをしてその糸をまじまじと見つめた。
「あの、シャロン様……この糸は」
答えを聞かなくても分かっている。
分かっているけれど。聞いておかなくてはいけない気がした。
それが、ライネの最期の行動に思えたから。
「うん、ライネの糸だよ」
まだ赤く腫れている目で、シャロンは小さく笑った。
「最後の一本は、私にする、って言ってくれたの」
「なるほど……そうですか」
リシュはその最期を見ていないけれど。
そこにライネの想いを見た気がした。
ああ、彼女はまだ縁を大事にしたいと思っていたんだ。
その心が、残っていたんだ。
それが分かったから。
リシュはひとつ、決意をする。
縁は放っておいても、時間が経てば修復される事がある。
きっとこの学校に住む者たちなら、再構築だって可能だろう。
けれども、それが同じものとは限らない。
これまで積み上げた縁はなくなり、新たな縁として結ばれる。それは、一から積み上げ直す、新しい関係。
もしかしたら、縁を結んだ二人の在り方が変わってしまうかもしれない。影響が出ないとは、言い切れない。
だから。
元通りにしてしまおう。
少し時間はかかるだろうし、力も使うだろうけれど。
それを元通りにできるのは自分しかいないのだから。