切って結んで、その先に 3
「……え」
シャロンの顔色が変わった。
ライネはそれに気付いているのかいないのか。視線を上げることなく淡々と言葉を繋ぐ。
「あなたのことだから、人の能力を解析してデータにするくらい、できるでしょ?」
「……」
「できない?」
「できる、と思う……けど……」
「そう、それなら良かった」
そう言ってライネは口の端を上げる。微かな動きだったけれど笑ったように見えた。
「けど。どうしてそんなこと」
「私、もうこれ以上は無理だもの」
「何が……」
「色々、よ」
「なんで……」
「きっと、疲れたんだわ。誰かと一緒に居ることに。ひとりで居ることに。――縁を切るのにも」
ウツロの刀身にライネの横顔が反射する。
「今からでも、ダメなの? いいじゃない。少しずつでもさ。まだ……まだ、なんとかなる。でしょう?」
シャロンの言葉に、ライネは小さく首を横に振った。
「なんで」
「……さっきから、なんでばっかりね」
「だって……私には、わからないもの。ライネの気持ち、まだ聞いてないの、沢山あるんだよ?」
「ふふ……そうかも」
でも、これ以上話す物はないわ。とライネは言った。
「それにね」
落ちてきた前髪がライネの目元を隠す。指先が少しだけ冷たい床を撫でた。
「私の手はもう、止まらないの。どんな縁でも、今のハサミなら全部切ってしまう。強さを知るなんて、もうできない。だから、私はここでおしまい」
それに、力もほとんど使ってしまったし。と言う彼女の声は小さかった。
「使ってしまったって……もしかして」
「私がヤミくんやウツロさんと対等にやりあえるわけ、ないでしょ」
「そうだけど」
ライネは確かに本気だったけど、彼らが手加減をしていたのはわかっていた。
「だから、私がこの姿を保てるのも。時間の問題なの」
わかる? と彼女は言う。
わからない、とシャロンは首を横に振った。
けれども。
指先が黒い糸になってほつれているのが目に入った。
それがどんな状況かとか。
彼女が言っていることとか。
正直、分かりたくなかったけれど。
見てしまった。気付いてしまった。
自分の力を使いすぎた場合。どうなるかは人それぞれだ。
足りない分を補うために誰かの力を手に入れようとしたり。
動けなくなってしまって、元の姿に戻ってしまったり。
――そのまま姿すら保てなくて消えてしまったり。
シャロンはライネの指を隠すように手を重ねた。
「ねえ。必要なら。私の力――」
「いらないわ」
彼女はシャロンが言おうとしたことを先回りして、きっぱりと否定した。
それ以上言葉が続けられなくて、シャロンの喉が詰まる。
「私はもう、どうしようもないの。このまま力が戻ったら、また縁を切ってしまう。他の人の繋がりを。みんなの繋がりを、バラバラにしてしまう。きっと、それでも飽き足らなくなってしまったら……どうなるか、わかるでしょ?」
「……うん」
シャロンは力なく頷く。
それは、既に理科室で話に出た結末だった。
裏側で物足りなくなれば。切る物がなくなれば。
次に刃物が向く先は――生徒だ。
それは、それは。
この学校で生活するにおいて、最も許されないこと。
「だから。私はこのままここで力尽きるのがいいのよ。きっと」
シャロンはこれ以上彼女にかける言葉を見つけられなかった。
自分がやった事を認めて。負けを認めて。このまま消えることを選んで。
「……ライネは。勝手だよ」
ようやく零れた言葉に、ライネは何も言わなかった。
重ねた指先は糸になって散らばっていく。その糸の端は、シャロンの指先をすり抜けて、黒い煤のようなぼそぼそとした物になって風に攫われていく。
「シャロン」
「……」
言いたいこと、言えないこと、全部ぐっと飲み込んで、シャロンは口を開いた。
「ねえ、ハナブサ」
振り向きはしない。視線はぼそぼそと消えていくライネの指先に注がれている。
「なにかな」
「ライネは、このまま……消えることを望んでる。それは、受け入れられる話、かな?」
「……私は、彼女には罪を償う責任があると思っているけれど」
「そうだよね……私も、そう思うんだけど。ライネはもう、無理だって」
喉が詰まる。ライネの指先をぎゅっと握って離したくないと思っている。
けれども、シャロンの指先は動かない。
じっとハナブサの言葉を待つ。
「――そう」
ハナブサの声は静かだった。
「それで、シャロンはどう思ってるのかな」
「私は……これがライネの最後のワガママなら。私は、叶えてあげたい」
「つまり?」
ハナブサは淡々と問いかける。
否定をする訳でもなく。肯定をする訳でもない。どっちとも取れない声で。ただ、シャロンの決断を待っている。
シャロンは少しだけ躊躇うように息をついて。小さく首を振って。
「ライネをデータ化して、私が保管する」
一際はっきりとした声で、そう言いきった。
「そっか。できる?」
「うん」
こくりと頷く。
記憶は無理だ。
人格や記憶は多分難しい。
でも、彼女が持っている能力なら。
彼女が居たという証なら。
自分の中に記録として。データとして残しておける。
「そう。――それじゃあ、あとはシャロンにお願いしようかな」
そんなハナブサの言葉と同時に、ウツロの剣先が地面から離れる。
押さえ付けていた力から解放されたライネは、とすん、とシャロンの伸ばした腕の中に崩れ落ちた。
「さ。お願いね」
ライネの静かな声に、シャロンはこくりと頷いた。
「Mode-Save……」
呪文のような言葉が流れる。
呟くように、歌うように。小さく途切れそうになりながらも続くその声は、ライネの指先から伸びる糸を。その指を。手を。小さな黒い光の粒に、ドットに変えていく。
「――」
ライネが何か呟いた。その声にシャロンは答えない。ただ、目を閉じてライネを抱きしめ、構文を呟き続ける。
「ねえ」
ライネの声に、僅かなノイズが混じる。
腕も脚も、首も。髪も。彼女の全身はもう真っ黒な糸だった。
ライネを抱きしめるシャロンの指に、何かがふわりと触れた。
指の根元をそっとなぞって、それは離れる。
「私の縁。最後の一本は――あなたにするわ。シャロン」
「……」
最後の言葉を呟き終えると同時に。
シャロンの膝にパーカーだけを残し。
黒い煤と糸をドットに変えて消えていった。
□ ■ □
ライネが消えても、シャロンはしばらくその場を動かなかった。
ぎゅっとパーカーを抱きしめて、座り込んだままだった。
「……シャロン」
ハナブサが声をかけても、彼女は動く気配がない。
もしかして彼女も力を使いすぎて動けなくなったのではないか。
そう思って傍に寄ろうとしたら、軽く肩を引かれた。
振り返るとウツロが立っていた。
薄暗くなりつつある屋上で、彼の顔はよく見えない。けれども、その視線は真っ直ぐにシャロンの背中を見ているのだとわかった。
「ウツロ」
「少し、そっとしといてやれ」
うん。と頷いたものの、ハナブサもまた、シャロンから目が離せずにいた。
なんと声をかけていいのかもわからず、しばらくその背中を見ていると「ところで」とウツロの声がした。
「何」
「お前さん、傷はどうなんだ」
「傷」
言われてようやく自分の身体に視線を落とす。
腕と腹部はざっくりと切り裂かれている。
傷を抑える手には切り裂かれたリボンを握ったままで。留めるものを失った髪は肩から流れ落ちていた。
気を張り詰めていて忘れかけていたけれど、自分も随分と傷だらけで。
それを見た途端、ずきずきとした痛みを感じ始めた。
「あはは……うん、痛い、かな」
「だろうな。今から保健室行くぞ」
「え、でも」
「いいから。ほら。ヤミ。お前さんもだ」
「あ、うん……」
ヤミも駆け寄るようにしてウツロのそばへとやって来る。
ウツロもヤミも、彼女のことが気にならないのだろうか? シャロンを置いていっていいのだろうか?
そんな疑問はしっかりと顔に出ていたらしい。ウツロはこちらを見下ろして「もうしばらく、ひとりにしといてやれ」と小さな声がした。
「戻ってこなかったら、後で俺が迎えに来るさ」
そう言いながら入り口まできたところで、ウツロは足を止めて振り返る。
「シャロン」
おもむろに呼びかける。答えはない。
「寒くなる前に戻るんだぞ」
答えはなかったけれど、わずかに頷いたような気がした。
遅かったら迎えに来るからな、と言い残し。
3人は屋上を後にした。
□ ■ □
冷たい風が吹く屋上で。シャロンはひとり座り込んでいた。
「……」
腕の中に残っているのはパーカーだけ。
どんなに強く抱きしめても、中身のないそれは軽くて冷たい。
もう彼女は。ライネは居ないんだ。どんなに否定したくても、そのパーカーが「もしかしたら」を打ち消す。
「……バカ」
ぽつりと呟いた声も、風に溶けて消えた。
「やっぱり、辛かったんじゃない……」
声が零れる。指先が冷たい。
顔を埋めたパーカーには、彼女の匂いがわずかに残っていた。
「もっと……早く気付けたら良かったのかな」
後悔は尽きない。
言葉にすると「あの時こうしていたら」が次々と浮かんでくる。
もうどうしようもないことばかりだし、彼女のことだからそれをどんなに聞いたって「なんでもないわ」と言うに違いなかった。
はあ、と白い息を吐く。
胸が痛い。初めてのことで、どうしたらいいかもわからない。
自分の持っていたデータが消えた時の痛みとも違う。もっと奥底からぎゅっと掴まれるような痛みだ。
その痛みが頭の中をいっぱいにする。口を結んでいないと、何かが溢れそうだ。
唇を噛んで、背中を丸める。
と、指に何かが触れたような気がした。
「――」
顔を上げて見ても、何も居ない。冷たい空気が張り詰めているだけだ。
そろそろ夕方。日没までもう少しらしく、辺りは随分と薄暗くなっていた。
そんな中で、シャロンは自分の手を見下ろす。
何もない。
それはそうだ。何かあったとしても、自分に見える訳がない。
「見える、訳が――」
言葉がふと、途切れた。
代わりに続いたのは、わずかな構文。
さっき呼び出したから、言葉は短くて済んだ。
「――Call ……Install_Rish-Mode」
唱え終わると同時に、シャロンの指に色とりどりの糸が見えた。
その中に一本だけ。短くて黒い糸があった。
「……」
それは他の糸と違って、両端とも自分の指につながっていた。
――ああ。これは、ライネの糸だ。
なんとなく、そう思った。
消える直前の、真っ黒い糸になった彼女を思い出した。
「私の縁。最後の一本は――あなたにするわ。シャロン」
最後に残された言葉を思い出した。
自分の糸を、シャロンの指に残したのだ。
それに気づいたシャロンの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
頬を次々と伝い落ちるそれは、パーカーにいくつものシミを作る。
「う……うぇ。らいね。……らいね……っ」
黒い糸をぎゅっと握りしめ、パーカーに顔を埋める。
一度漏れた嗚咽は止まらない。
「う……っ、らいね、の。ばか。バカ……」
ばか。という声はどんどん胸の痛みに飲み込まれていく。
「ばか……う――うぅ。うわああああん」
涙も声も止まらない。
頬を濡らす雫は拭われずにぱたぱたと襟に落ち、息は白く消えて行く。
パーカーを握りしめる指に黒い糸を揺らして。
シャロンはひとり。糸が見えなくなるまで、声を上げて泣き続けた。