繋いで切って、平行線 前編
少女は屋上で風に吹かれていた。
まだ冷たい風が、束ねた長い髪と羽織ったパーカーの裾を揺らす。
放課後にはまだ早い時間帯。天気は悪くない。
遠くに見える街並と山を、暗い紫の瞳にぼんやりと映していた彼女はふと、無造作に手すりにおいていた腕に視線を下ろす。
「……」
右手の平を空に翳すようにして、じっと眺める。
指の端に糸くずが残っていた。
手を軽く振ると、それは風に乗ってどこかへと落ちていった。
□ ■ □
傾いていく日を眺めていると、校内へ繋がるドアが開く音がした。
ああ、誰かきちゃったんだ。
僅かな面倒臭さと共に振り返ると、そこに立っていたのはよく知る姿だった。
背中に流れる癖のない明るい金髪。
好奇心旺盛なグリーンの瞳。
冬のセーラーが引き立てる白い肌。
階段を駆け上がってきたのか、その息は白く弾んでいる。
「ライネ! こんな所に居た……」
そこに立っていたのは、シャロンだった。
縁を切っても彼女はこうして目の前に現れる。自分を追いかけて、声をかけてくる。
でも、縁を切ったのは今朝で。こんなに早く追いかけてきたのは初めてだ。
そんなこともあるだろう。どうせ、また縁を切って置き去りにすればいいんだ。
そう思ったライネは、目を細めて彼女を見遣る。
「シャロン」
名前を呼ぶと、彼女は笑って近付いてきた。
その表情は笑顔と言うよりも安堵と呼べる物だったが、数メートルの距離を開けて、シャロンはぴたりと立ち止まる。
いつもと異なる距離だった。
それ以上近付いてこない。何かを測っているかのように、何かに戸惑っているかのように、距離を保っている。
その表情も、いつものような笑顔ではない。
自分の所を何度も訪れた、「話をしよう」と決意した顔でもない。
何かを躊躇っているというのはすぐに分かった。
彼女にそんな理由があるんだろうか?
ふと、不思議に思って。問いかけた。
「どうしたのシャロン。そんな顔して」
「う、うん。あのさ。ライネ……」
ちょっと聞きにくい話なんだけどさ。とシャロンは話を切り出した。
「最近皆の様子がおかしいの。知ってる?」
「様子がおかしい?」
聞き返すと、彼女はこくりと頷いた。
「その。なかなか会えなくなったり、一緒に居られなくなったりして、すれ違ってるの」
「へえ」
「ライネはさ。それが何でか……しらない?」
持ってる答えはひとつだった。
「……多分知ってるわ」
知らない、とシラを切ってもよかった。
でも。
視線を二人の間に落とす。まだ糸が繋がっていない。このままでは立ち去れない。
だから、時間稼ぎのつもりで答えた。
シャロンは視線を僅かに落として「そっか」と頷いた。風で乱れた髪を耳にかけながら「そうだよね」と小さく呟いた声も続いた。
「それが、どうかしたの?」
「うん。それで今、ライネが何か知ってることあるなら、教えて欲しいなって思ってさ」
シャロンから視線を外す。何か知っていること、ね。と溜息を飲み込むと、シャロンの言葉が続いた。
「もしね。ライネもそれに気付いてて、どうにかしたいって動いてるなら、私とかリシュとか。協力、したいなって思ってるの」
さっきそんな話をしてきたんだ。と彼女は言う。
その声にいつものような元気はない。
彼女の話で分かったことがいくつかあった。
ひとつ。この話には、リシュが絡んでいる。
それは、縁が切れていることに気付かれていると言うこと。もしかしたら、自分が切っていることも気付いているかもしれない。
ふたつ。彼女は話の主語をリシュだけに限定しなかった。
他に誰がいるのかまでは分からないが、数名がこの事態を把握している。
みっつ。シャロンはやっぱり何かを躊躇っている。
きっとリシュは。他の誰かは。縁を切っているのが自分だと気付いている。その仮定の下で行動をしている。
けれども、シャロン自身はそれを認めたくないのだろう。
だから、遠回しに「この現象はライネのせいじゃないよね?」と問うている。
「協力、ね」
零れた声は、自分でも分かる程平坦だった。
シャロンにはどう届いたのか分からないが、それが是の返事でないことは伝わったらしい。
「ライネは。一人で行動したいの?」
「……そうね」
「それは。どうして?」
返事をしないで居ると、シャロンの指に力が入ったのが見えた。糸はまだ繋がらない。
「それは。それはさ……」
視線を上げると、シャロンはこっちを真っ直ぐに見ていた。
泣きそうな目をしている。と思った。
彼女が泣いている所なんて見たこともないけど。このままでは彼女の感情は何かで膨れてしまうんだろう。というのが見て分かった。
何か言おうとしているのだろう。口が小さく動いては閉じる。
彼女は、確認するのを躊躇っている。
なんでも知りたがる彼女なのに、その先へ進もうとしない。
自分が言葉にしてしまうのを。それを肯定されてしまうのを、恐れている。
そんなに時間をかけなくたって、事実は事実なのに。
「――シャロンは」
ぴたり。と彼女の動きが止まった。
「私がその縁を切ってるのか、って聞きたいんでしょ?」
自分の言葉は妙に落ち着いていた。
焦りも恐怖も何もない。
高揚するわけでも、不安に思うわけでもない。
ただ、事実を彼女に突きつけよう。こっちに真っ直ぐ感情が向けば、糸が繋がるかもしれない。
一方でシャロンは何かに驚いたような顔をしていた。
瞳は僅かに揺れている。眉は困ったように下がっている。何か怖いものを見る直前のような顔で、彼女は小さく頷いた。
「そう。そういう、話をしてたの。でも、もしかしたらライネはひとりで原因を突き止めようとしてるだけかもしれない、って……思って……」
「残念だけど。その期待はハズレね」
溜息のように言葉が零れた。
どうして零してしまったのか、自分でもよく分からなかったけど。それでシャロンの表情を変えるには十分だった。
彼女の持っていた最後の期待を砕いたのだ、と言うのは目を逸らしていても分かった。
「ハズレ……そっか。やっぱりライネ、縁。切ってたんだ……」
「そういう事になるわね」
そっか、とシャロンは小さく呟いて俯く。
小さな声だったけど、彼女の表情を推し量るには十分だった。
「……なんで?」
「なに?」
風に掻き消されて届かなかった言葉を聞き返すと、シャロンはぐっと上げた。
「なんで、って聞いたの!」
冷たい青空の下に一際大きな声が響いた。
「だってライネ、人の縁を見るとき一生懸命だったじゃない! 色んな縁があるって、私に話してくれたのも。縁がどんな風に見えるかとか、それがどんなものでできてるのかとか。話してくれた時も。ライネは楽しそうだったよね」
「……そうだったかしら」
「そうだったよ! 話が変わったとき、辛そうだったのも覚えてる。本当はあの時、辛かったんでしょ? 縁切るの、嫌だったんじゃないの!?」
「そんなこと」
なかったわ。と言う言葉は思ったより小さくなった。
視線を落とす。
糸が繋がっていた。
ああ。これで切ることができる。
ライネの表情が僅かに緩んだのを、シャロンは見逃さなかった。
「ライネ……今。何見てるの?」
答える気など、なかった。
「さあ。何かしらね」
目を伏せる。指先が冷えている。
ポケットにそっと手を突っ込むと、シャロンがこちらに寄ってこようと動いたのが見えた。
「近寄らないでもらえる?」
そんな言葉を投げつけても、彼女は引かなかった。
「……やだ」
黙っていると、彼女はもう一度「嫌だ」と繰り返した。
「私、ライネの側に居たいの。何かあるなら、話してよ。事情があるなら、理由があるなら。みんな、ちゃんと聞いてくれるよ?」
その声は。言葉は。何故か妙にイラッとした。
何も分からないくせに。知らないくせに。
そんな事を。思った。
「いらない……あっち、行って」
「なんで」
シャロンはつかつかと距離を詰め、肩をぐっと掴む。指が震えている。声も。瞳も。揺れている。
ああ。彼女は泣きそうなのかもしれない。
けれども。真っ直ぐにライネを見ている。
「なんでこんなことしてるのか聞くまで、私は離れない」