その糸切るのはどの指か
廊下に糸が一本あった。
それはどこかに繋がっているらしく、地面につく事もなくゆらゆらと空中で緩やかに揺れている。
そして、そこにはその糸を冷たい目で見下ろしている影があった。
「……縁なんて」
その糸に鋭い銀色をつい、と引っかける。
ぷつ。
誰にも聞こえないほど小さな音がして。
糸はくたりと廊下に落ちた。
□ ■ □
ライネは人の縁の糸を見るのが好きだった。
刺繍糸のように綺麗なもの。
強くて、しっかりとしたもの。
見た目に反して脆いもの。
そんなたくさんの糸を見てきた。
自分は糸の切れやすさを見る噂話だ。
だから色んな糸を見て過ごしてきた。
指で触れて、確かめて、その結果を伝えてきた。
なのに、生徒達は言い始めた。
そんな縁、切れるんじゃない?
こんな縁、切りたい。
あんな縁、切れちゃえばいいのに。
そうなのかな。って思いながら糸に触れて。
時々指がその糸をぷつんと切ってしまうのが、なんだか怖かった。
糸に触れた自分の爪が鋭い銀色になっているのを見て、慌てて逃げ出した事もあった。
いつからだろうか。
噂が変質してしまった頃からかもしれない。
ある朝、自分の指に結ばれてる糸が酷い絡まり方をしていた。
それを見ていると、涙がこぼれた。
何故か分からない。気持ち悪いのか怖いのか悲しいのか、自分の感情もぐちゃりと絡まっているようだった。
その日からしばらく、糸を見ないようにして過ごした。
けれど、ふとした拍子に自分の両手をじっと見る。他愛も無い癖だ。そして涙を零す。
糸がたくさん絡まったこの指が、ライネはいつの間にか嫌いになっていた。
指の糸を見ると、声が聞こえる気がする。
縁を切ってください。
切ってください。
切りたいんです。
何年も掛けて、ライネはその声に答え続けた。
鋏を持つ自分だから、きっとその変化は必然なのだと、言い聞かせた。
そんな言葉をたくさんたくさん受け入れて、言われた通りに縁の糸を切り続けたライネは、少しずつ縁の意味がわからなくなっていた。
誰かに話をすれば良かったのかもしれない。
シャロンに。ハナブサに。他の誰かに。
縁を切るのは嫌だと。それはとても辛いのだと、言えば良かったのかもしれない。
けれども、それに気付ける頃にはもう後戻りができなくなっていた。
切ることが当たり前になっていて。
それが辛いのだと言うことに自分さえも気付けなくて。
縁という物がどれだけ大事だったのかを見失った。
縁という物が嫌いで嫌いでしかたがなくて。
誰かと繋がっていることに嫌悪感すら感じ始めて。
なにより。
縁を切るべき自分が、誰かと縁を結んだままだなんて。
「……なんで繋がってるんだろう?」
そんな疑問が、なんだかおかしくて。
「そうだよね。切っちゃおう……」
ポケットから小さなハサミを取り出して。
適当に選んだ糸を一本。
ぱちん。と。
切り落とした。
切れた糸は指からだらりとぶら下がる。それを解いて、床に捨てた。
どうせ誰にも見えない糸だ。
どうせ誰にも必要とされてない糸だ。
そのまま風にさらわれて、どこかに消えてしまうのだ。
ライネはちくりとした胸の痛みを見なかったことにして。
その糸くずに背を向けた。
それから、彼女は自分につながる糸を切っていった。
中には固くて切れない糸もあったけど、いろんな人の縁切りを聞き入れて切っているうちに、ハサミもずいぶん大きく強くなった。
人の顔を見るのも辛くなってきたから、極力出会わないようにして。縁を繋がないようにしているうちに。
いつしか両手に残った糸は数えるほどしかなくなっていた。
学校内の噂話は加速する。
バレンタインだから、ホワイトデーだから。なんて季節はもうお構い無しになってきた。
一番語られる季節は変わらないけど、一年を通してそのおまじないは続けられるようになった。
ライネは。糸を切り続けた。
指にある糸が煩わしくて。
気付いたら増えている糸が気に入らなくて。
鬱陶しくて。
妬ましくて。
嫌で厭でイヤでいやで仕方なくて。
そんな気持ちのまま、ライネは糸を切り続けた。
誰とも喋らない、出会わない。関わりのない生活がなんだか楽に感じて。
そうして彼女はふと思った。
人の縁なんて、いつかは切れてしまうものだ。
たとえ自分が切らなくても、その糸は風化し、磨耗し、千切れてしまう。
そんな糸もたくさん見てきた。
それを結び、結いあげ、編み上げるリシュの姿を見て「無駄な事なのに」と思いもした。
どうせ切れてしまうのに。いつかなくなってしまうのに。
それはとても寂しいことだから。誰とも縁を結ばなければ楽なのに。
結んでしまったら辛いから。
結んでしまっても切ってしまうから。
誰とも縁を結ばなければ。
縁を切れば。
縁が切れれば。
縁なんてなければ。
ああ。もう。みんなの糸も、なくなってしまえばいいのに――。
そして廊下に漂っていた糸を一本、切ってみた。
一本。また一本。
誰の糸かは分からない。
どんな糸かも知らない。
考えないようにして。
ライネは鋏を糸に引っ掛けた。
指はとてもすっきりして。
誰かと誰かを繋ぐ糸も少なくなってきて。
なんだか、何かが足りないような。
虚しいような。
胸元がぽっかりと空いてしまったような。
そんな気持ちも見なかったことにして。
気付かないようにして。
ライネは糸を切っていった。
□ ■ □
ある朝。
「ライネ!」
ドアを開けると声がした。
聞き覚えのある声に顔を上げて。それがシャロンだと気付いて真っ先に取った行動は、部屋へと引き返すことだった。
だって、彼女は、私を心配していると言っている。
そんなのいらないって言っても、聞かない。
そんな人だって分かってるから、逃げた。
もちろん。シャロンはそんなの簡単に許してくれる訳がなかった。
あっという間に足を挟み込まれ、ドアを掴まれた。
「……なんの、用かな」
私は彼女に用はない。
話す事も、交わす言葉も。
何もないはずなのに。
視線を落とすと、ドアノブを握る私の手と、ドアを押さえる彼女の手に糸が繋がれていた。
――ああ、まただ。切らないと。
ドアを押さえる手を緩めると、シャロンは嬉しそうな顔をしていた。
左手で揺れている糸を掬い上げる。
繋がったばかりの糸は、きっと容易く切れる。
実のところ、彼女との縁は何度か切ってきた。
縁を切るために姿を現す必要がある場合もあるから、縁を切る前後の記憶も一緒に無くなってしまう。
だから、シャロンはきっとこれまでに私と会ったことは忘れているし、今回のことも忘れてしまう。
なのに。彼女はこうして何度も私の元を訪れる。
どうしてだろう。
ふと、思った。
「ねえ。シャロン」
「あのね、ライネ」
言葉が重なった。
彼女は一体何を言うつもりなのかと思ったが、私に話を促したのでそのまま進めることにした。
手にした糸を握ったまま、そっと手を下ろす。
「シャロンは、どうして私を追いかけるの?」
彼女は不思議そうに首を傾げて。
「? それは、友達だから」
何てことないように、そう言った。
友達。
その単語に心が動かなくなってしまった私は、本当に変わってしまったらしい。
少しだけ胸が痛んだような気がしたけど、気のせいだと片付ける。
「ライネは、私を一番に見つけてくれたし、色んな事を教えてくれた。一番の友達だって思ってるから――」
「私の相談にも、乗ろうと思ってる?」
先を読むと、彼女は「そう」と頷いた。
「やっぱりライネは、話の変化が辛いんじゃないかと思って――」
分かったように言う。
シャロンは。この人は。私の何を知っていると言うのだろう。
何を分かっているというのだろう。
そう思って見上げた視線は、シャロンの表情を一変させた。
言葉を詰まらせて、途切れた言葉を拾いもせずにこちらを見下ろす緑の目は、一体何を思っているんだろう。
分かったとしても、私にはもうどうしようもない。
友達だと、彼女は言った。
「その言葉、ずっと覚えてられると良いわね」
その後彼女が何と言ったのか覚えていない。
ただ、右手の鋏を動かして。
左手に握った糸を。
しゃきん。
切った音は、とても軽かった。