夜の階段談話
「む」
寝る直前。ハナはふと気がついて身体を起こした。
「そういえば最近ヤミちゃんと遊んでないな」
布団をそうっと抜け出す。上履きを履く。カーディガンを羽織って、部屋を出る。
薄暗い廊下は冬の空気に満ちていて、ひんやりと張りつめている。
カーディガンを胸の前で合わせながら隣の部屋に移動し、ドアの前に掲げられた名前の札を見上げる。
そこには整った文字で「ヤミコ」と書いてあった。
しばし眺めてみたが、部屋は静かだった。電気が付いている様子は無い。
ヤミはもう寝ているのかもしれない。
夜更かしが好きなハナにとって、まだ寝るには少々早い。が、消灯というには十分な時間。
居るにせよ居ないにせよ。明日の楽しみにしておこう。
朝には会えるさ。むしろ叩き起こして驚かせてやろう。
そんなことを考えて、回れ右をすると、階段を誰かが登ってくる音がした。
「ん?」
こんな時間に誰だろう、と階段の方へ足を向ける。
部屋を通り過ぎ、階段を覗き込むと。
「あれ。ハナちゃん」
「サクラ君」
お互い「こんな時間にどうしたんだろう」という顔をして二人は足を止めた。
□ ■ □
「なんだかこうしてサクラ君と話すのも久しぶりな気がするな」
階段に腰掛け、声を潜めつつもハナが笑う。サクラも「そうだね」と笑って相槌を打った。
「もう体調はいいのかい?」
「ああ、それはすっかり。心配かけたみたいでごめんね」
「いやいや、いいのさ。それにしてもサクラ君、こんな時間にどうしたんだい?」
「ああ、ちょっとね」
話し込んじゃってさ、と短く言うと、ハナは「ほう?」と不思議そうな顔をした。
「……何か事件でもあったのかい?」
サクラの思考が一瞬だけ止まる。
ハナはこう言う時にとても勘が良い。
まだ何が起きているとか、背景とか何も分かってはいないけれど、その件について話をしてきたのは確かだった。
けれども、彼女に知らせるにはまだ早い。
そんな考えをさくっとまとめて、ううん、と首を横に振った。
「何もないけど……どうして?」
「どうしても何も。簡単な推理だよサクラ君」
ハナは人差し指をぴしっと立てて、くるりと回して見せた。
「ひとつ。サクラ君は誰とでも仲がいいけど、話し込むなんて相手は限られている」
中指を立てる。
「ふたつ。その相手のひとり、というか最有力候補のさっちゃんはもう部屋に戻っている」
「そうなんだ。よく知ってるね」
「ボクが一緒だったからな」
「というか、サカキくんが最有力候補なんだ」
「うん。ボクの中ではそうだな」
にっこりとハナが笑う。サクラは「なるほど」と相槌を打って続きを待つ。
「そして三つ」
薬指を立てて小さく振る。
「きっと相手はハナブサさんかウツロさん……もしかしたらその両方。となると、きっと学校の中で何かが起きてる確率が高い」
「あはは、……まるで俺がそういう時しか彼らと話をしないみたいだ」
ハナブサさんとかウツロさんと雑談で時間が過ぎることだってあるよ、とサクラは言う。
そうだけどもさ、とハナはニヤリと笑った。
「サクラ君。ボクの質問を覚えているかい?」
ええと、とこれまでの会話を思い返す。
「……こんな時間にどうしたか、だっけ?」
「その次は?」
「何か事件でもあったか、だね」
「そう。それだ」
ハナはカーディガンを羽織り直して、くすりと笑った。
しまった、とサクラが気付いた時には遅かった。
「サクラ君。君は「何もない」と答えたね。雑談で終わるなら」
「……否定をする必要はなかった。ってことだね」
言葉を継いだサクラに、ハナは「そういうことさ」と頷いた。
「どんな内容だったかすら触れなかったし、少々の間もあった。そこを見逃すボクじゃないよ。――それで。一体何があったのか、っていうのはボクも聞いていい話かい?」
「そうだなあ」
ハナのことだから気付いているのかもしれない。
もしかしたらその辺の情報を握った上で、サクラに問いかけているのかもしれない。
前髪に隠された目が、表情が。廊下の薄暗さも手伝って読めなくて。
サクラは心の中で降参だと手を上げた。
「心当たりがあるならでいいんだけど」
前置きをすると、ハナはうんうんと頷きながら身を乗り出してきた。
「最近、いつも一緒にいる人……ハナちゃんの場合はヤミくんかな。何か変わったことはある?」
「ふむ。ボクとヤミちゃんか」
近寄った身体を離して、ハナはふむ、と口に手を当てて考え込む。
「特段変わったことはない、と。思う」
ハナにしては歯切れの悪い返事だった。
「なんだか自信なさげだね」
聞き返すとハナは「うむ」と腕を組んで首を傾けた。
「正直なところ、最近ヤミちゃんとあんまり喋ってないから詳しいことがわからないんだ」
「そっか」
やっぱりハナは気付いていた。
けれどもそれが何を意味するのかは分かっていないらしい。首を傾げて「それがどうしたのかい?」と尋ねてきた、
「うん。話をしてきたのはその件なんだ。それで……そのことに対して、何か意識したことはある?」
ううん、とハナはあっさり首を横に振った。
「実は、さっきふと思っただけなんだ。それでヤミちゃんの部屋の前まで行ってみたのだが、部屋は静かだったから寝てるか戻ってないか。どちらにせよ出直すことにしたところさ」
「ヤミくんか。俺も今日は話してないな」
「そうだろう? だから明日の朝はボクが早起きしてヤミちゃんを叩き起こすつもりさ」
そう言いながら、ハナはぐっと親指を立てた。
明日の朝、叩き起こされたヤミの不機嫌そうな様子が目に浮かぶようで、思わず「そうだね」と笑ってしまった。
「……っと。脱線してしまったね。本題に戻そう」
「うむ」
「最近ね。よく一緒に居た人がそうじゃなくなっている、ってことに気付いてさ」
「一緒にいる人が」
こてん、とハナの首が傾く。が、すぐに気が付いたのか手の平を合わせて「ああ」と声を上げた。
「なるほど。ボクの場合はそれがヤミちゃんというわけか」
「そう。でも、それは無意識のうちに行われてることが多くて」
「そうだな。ボクも気付いた時には「最近遊んでないな」だったから」
「うん。今回のこれは、君達だけじゃなくて他の人にも起きていると思ってる。――心当たり、ある?」
「心当たり……」
そうだな。とつぶやいたハナはすぐさまサクラをまっすぐ見つめて。
「サクラ君とさっちゃん」
すっぱりと言い切った。
「あはは……そうだね」
サクラは頷きながら苦笑いを零す。
「うん。ボクとヤミちゃんほどではないけれど、二人はよく一緒に居るからね」
「そうだね」
「なのに最近会えなくて……やっぱり寂しかったりするかい?」
「え」
寂しい? とサクラは首を傾げた。
考えたことなかった。
だって、同じ学校の中に居る。部屋も近い。最近は確かに会わない日が続いているけれど、会おうと思えばいつだって会えるはずだ。
そこに寂しさとか、そのような感情が介在する理由はなかった。
「考えたことなかったけど……なんで?」
その問いに、ハナは盛大な溜め息をついた。
「サクラ君もヤミちゃんの仲間だったか……」
「えっ。何が!?」
「そう言う所がさ」
疑問符を浮かべるサクラに、ハナは「まあいいや」と話を切り上げる。
「さっちゃんは寂しそうにしてたというのに」
サカキ君が? とサクラは思わず聞き返す。
さっちゃんがさ。とハナは頷く。
「まあ。とはいってもだ。さっちゃんは頑張り屋さんだからな。どっちかっていうと、サクラ君に会えないのもまた修行、みたいな感じだったが」
「修行」
「修行」
何がどう修行なのだろう? という疑問が顔に出ていたのか、ハナはくすくすと笑って視線を逸らした。
「まあ。大したことではないよ。さっちゃんはその辺前向きだからさ。他の勉強をその間に頑張るんだ、と気合を入れ直していた、って話さ」
「そっか……サカキ君は偉いね」
「おっと。それはボクじゃなくてさっちゃんに直接言ってやるといい」
その言葉に対するサクラの返事は、少しだけ間があった。
口元に手を当てて小さく呟く。
「……言えるかな」
それはさっき、ウツロやハナブサと話してきたばかりのことだった。
今、この現象に気付いている人はそう多くないはず。
つまり、この現象を引き起こしてる人物がいるのならば、その目論みは上手くいっているということだ。
尻尾を出すまで待つか。
早いうちにこちらから動いて叩くか。
その結論を出すのはまだ早いとウツロとハナブサは言っていた。
「それよりも、お前さんが気付いたってことを相手に悟らせないことが大切だ」
「うん。できれば被害が増える前にどうにかしたいけど……、今は手を出せないね」
だから、この事態に気付いたサクラはサカキに対して何もできない。
けれどもハナにはどうやら違う方向に伝わったらしい。
「言えるさ」
「……」
「それともあれかい? 最近会えないから言えない、って? それは積極的に会おうとしないからじゃないかとボクは思うのだが」
ああ、ハナは勘違いをしているんだ。とサクラは気付く。
「ああ、いや。――今は」
「うん?」
ハナの首が傾く。
「今は、下手に動かない方がいいと思ってるんだ」
「ほう」
それはどうしてだい? とハナが問う。
「今のこの状態。それは何か事件が起きてるからじゃないか、っていう話に戻るんだけど」
「うん」
「実のところさ。俺はまだ、この事件に関して何もわからないんだ。どうしてこんな状況なのか。誰がなんのために起こしているのか。少なくとも現象自体はわかってるんだけど……それしか分かってない。ならば、俺達がそれに気がついて回避するような行動をしたら――それがバレてしまったら」
ハナはそれで察したらしい「ああ、なるほど」と頷いた。
「状況が悪化する可能性がある、と言う訳か」
「うん。動くべきなのは確かだと思う。けど、それは最小限にとどめておかないといけない」
だからさ、とサクラは言う。
「俺はしばらく、サカキくんと積極的には会えない、かな」
その言葉は、なぜか息苦しく感じた。
何故かは分からない。ほんの僅かに喉を詰まらせた気がした。それだけだ。
「なるほど。それもそうか」
サクラが首をひねる間もなく、ハナが納得したように頷いて何か考え込んでいた。
「ということは、ボクもヤミちゃんと遊ぶのはしばらくお預けか……」
「はは、まあ、多少ならいいんじゃないかな。明日は起こしてあげなよ」
「そうだな。サクラ君もサカキ君と少しでも話をしておくといいさ」
サクラはそうだね。と頷く。
「ボクもそこは極力気をつけるようにしよう――さて」
ハナはおもむろに立ち上がった。
サクラがそれにつられて視線を上げると、サクラを見下ろしたハナがにこりと笑った。
「ボクはそろそろ寝ることにするよ。サクラ君も夜更かしは良くないぞ?」
「うん、そうだね」
サクラも頷いて立ち上がる。ハナは階段をぴょんと飛び降り、踊り場でくるりと振り返った。
「今日はいい話を聞けて良かったよ。ボクも微力ながら協力させてもらおう」
「そうだね。何か分かったらよろしく頼むよ」
「任せてくれたまえ。ヤミちゃんにもそれとなく伝えておこう」
「うん。よろしく」
「それから。サカキくんにもちゃんと伝えられるべき時が来たら伝えてあげるんだよ」
サクラは一瞬だけきょとんとして、それからくすりと笑った。
「――うん、わかったよ。ちゃんと伝える」
□ ■ □
「なるほどなあ……」
部屋に戻ったハナは、カーディガンをハンガーに掛けながらぽつりとつぶやいた。
最近ヤミと会ってない、というのは気のせいではなかったらしい。
しかも何かの力が働いている可能性がある。とサクラは言っていた。
自分が何か役に立つのかは分からないけれど。何が起きているのか分からないけれど。
巻き込まれたと言うことだけは何となく分かる。
ただ黙ってやられていると言うのは、なんだか性に合わなかった。
「ま、ボクができる事は限られているけれど……そうだな。久しぶりにやってみても良いかもしれない」
布団に潜り込んだハナは、明日のおやつを楽しみにしているような口調でそう呟いて。
そっと目を閉じた。