ジャノメの小さな嘘と幸せ
夕方。
シグレが寝起きの頭で中庭の雨を眺めていると。渡り廊下に立っているジャノメの姿が目に入った。
雨が降ったらいつも傘をさして外を出歩き、バス停で生徒達を見送るのを常としているジャノメはまだ校内に居たらしい。渡り廊下で足を止めて、空をじいっと眺めている。
彼奴は何をしているのだろう?
彼は常々不思議な行動をとる少年だ。
自分と一緒に居ることを喜び。声を掛けると晴れるような笑顔になって「シグレさん、何?」と問うてくる。
いつも付いて回ってくるようだが、意外とそうでもない。理科室でヤミやサクラとお茶を飲んだり、他の誰かと遊んだり。意外と他の誰かと一緒に居ることが多い。
なのに、自分を見つけるとすぐさま手を振り、笑いかけ、声をかけてくる。
大体はそれだけだ。
寄ってくるのは主に雨が降った時。わざわざ彼は部屋まで呼びにくる。
「シグレさん、雨だよ」
そう言って部屋をノックしてくる。「行かない」と断ったり、答えずにいると大体はそのままひとりでバス停へと向かう。
なのに、手を振ることを。笑顔を向けることを忘れない。
彼に対して良い態度を取っているとは思わない。
なのに。ジャノメという少年はどうしてこうも自分に構うのか。
一度だけ、それを問うたこともある。
答えは一言。
「シグレさんのことが、好きだからかなあ」
それだけだった。
全く、不可解だ。
それで、渡り廊下で雨を眺めていた不可解ことジャノメだが。気付いたら彼は中庭に立っていた。
傘もささず。しとしとと降る雨に濡れて。やはり空を見上げている。
「……何をしとるのだ」
シグレの口から思わずそんな言葉が零れた時。空を見上げていたジャノメの視線がこちらを向いた。
ぱち、と視線が合う。
シグレが何か言うより先にジャノメはにこぉっと笑って小さく手を振ってきた。口がぱくぱくと動いている。
声は聞こえないが、なんと言っているかは手に取るように分かった。
「シグレさん。雨だよ」
雨が降っているとジャノメがいつも言う台詞だった。
シグレは溜息をひとつ、窓を開けて少しだけ身を乗り出す。
「ジャノメ。お主は傘もささずに何をしておるのだ」
「えっとねえ」
ジャノメはにこにこと笑いながら数歩だけ。声が届く程度の距離までやってくる。そして、肩に落ちた水滴を払うことすらせずに言う。
「雨が、降ってたから」
ちょっと昔のことを思い出したんだ。と彼は言った。
「ぼく、昔は傘もなくただただ雨に打たれてたでしょ?」
「……そうじゃったか」
いつだったか。ジャノメは自分の傘をシグレに見せて嬉しそうに語っていたことがあった。
朱色が目に眩しい、白の線が鮮やかな蛇の目傘。この傘はシグレがジャノメにくれた物なのだと。これがあるから今の自分があって。この名前があって。自分はずぶ濡れのまま寒さに震えて立ち尽くしてなくてもいいのだと話してくれた。
正直な所、覚えていなかった。
似たような傘を持っていたことはあった。それを誰かにあげたか、と言われるとあげたのだと思う。
かつて持っていた記憶があるのに、今手元にないものは大体そうだ。
人間は雨を降らせる蛇に様々な物を貢いできた。多くは蛇にとって不要のもので、それを必要としそうな者を見つけては適当に渡していた。きっとジャノメの持つその傘も、そんな品のひとつだと思われた。
だから、傘をやった事など記憶にはない。
でも、ジャノメは確かにそうなのだという。
いつも「ありがとうシグレさん」と笑うのだ。
そして、今目の前で濡れているジャノメは。何故かいつもと同じように幸せそうな顔で笑って言った。
「あの頃の寒さは未だに忘れられないんだけど、今がとっても幸せだからさ。忘れそうになるんだ。だから、時々。時々ね。調子がいいときだけ、こうして雨に打たれてみるんだ」
それでもやっぱり今の方があったかいんだけどね、と彼は言う。
「それで風邪でもひいたらどうするんだ」
「えへへ。シグレさん心配してくれるの?」
「ワシが降らせてるかもしれぬぞ。それで体調を崩したなぞと言われたらワシの責任もあるじゃろうが」
「ああ、なるほどなあ……でも大丈夫だよ。ぼく、雨に濡れて風邪ひいたことないから」
安心してよ、と彼は笑う。
そんな言葉で安心していいのか、とシグレは嘆息する。
濡れたら風邪をひく、そんなの人間の間では常識というものではないのか。
「大丈夫だよ、シグレさん」
ジャノメは言う。髪の毛はすっかり濡れて、水が滴ってはパーカーに染み込んでいくのが見える。
「これで風邪をひいたとしてもね。昔とは違うんだって、今はこんなにもあったかい所に居るんだって思うだけだから」
ああ、でも。と彼はふと呟く。
「それでシグレさんに怒られちゃうのは嫌だなあ」
「ならば濡れるのも程々にしろ。さっさと屋根の下に行け、自室でも理科室でも、好きな所で暖をとってこい」
「そうだね。うん。そうする。……でも、もうちょとだけ」
「駄目じゃ。これ以上濡れたいというのなら」
ぱちん、と小さく指を鳴らす。と、降っていた雨は静かに止んだ。
「こうするまでだ。さすればお前も部屋に戻らざるを得まい」
どうだ、と視線を向けるとジャノメはやっぱりニコニコとしていた。
「ふふ……シグレさんはやっぱり優しいよね」
「は?」
思わぬ言葉に、シグレの眉が跳ねた。
「お前は本当に不思議なことを言うな」
「え、そう?」
ジャノメの首が軽く傾く。
「ぼく、知ってるよ。シグレさんはとっても優しい人だって」
「……何を言っているのかさっぱり分からぬ」
「ぼくが知ってたらそれでいいから、いいんだ」
それじゃあ理科室行こうかなあ、とジャノメは呟き、手を振って去って行った。
□ ■ □
ジャノメは濡れた髪をそのままに、まっすぐ保健室へと向かった。
ドアを開けると白衣の少年と灰色の狐がそこに居た。二人とも薬草の箱を前にあれこれと言葉を交わしている。
「こんにちはー。ヤツヅリさん、タオルある?」
「あ。ジャノメくん……また久しぶりに濡れてきたね」
ヤツヅリはジャノメの様子に小さくため息をついて、壁際にあるラックを指差した。
「いつものところにあるから好きに使うといいよ」
「ありがとう」
「ついでに服も乾かさないと。濡れたのはどれだい?」
タオルで頭をわしわしと拭いていたジャノメは、その言葉に「えっと」と自分の姿を見直して答える。
「学ランとパーカーかな。ズボンは平気」
「また学ランを濡らしたのか。型崩れしやすくなるからせめて脱ぐようにといつも言ってるだろう。そこまで服にうるさく言うつもりはないけど……ほら」
服も拭いて、と濡れた肩や袖を指すと、ジャノメは「はあい」と素直な返事をした。
「ヤツヅリさん、制服のお手入れ詳しくなったよね」
「どうしようもないのはリラくんに任せるけど、ある程度はできておかないと困るって思ったからね」
誰かさん達のおかげで、とヤツヅリはジャノメが差し出した学ランを受け取りながら溜息をつく。
「それから」
と、ヤツヅリの手がジャノメの額にぺたりと当てられる。
「……今日はまだそんなに高くはないな」
「あ。やっぱり熱出てる?」
「そりゃあ、君が雨に濡れるなんてことをするなら、熱くらいあるだろうさ」
「やっぱりかー。あとでお薬ちょうだい。あ、みんなには内緒でね」
「はいはい」
ヤツヅリは心得たと言わんばかりに返事をして、薬の棚へと向かった。
ジャノメにはひとつだけ、みんなには内緒にしていることがある。
知っているのは保健室常駐の二人だけだ。
ジャノメは、雨に濡れるのが嫌いだ。
だから傘は肌身離さず持っている。
理由は実に簡単で。
昔の寒さを思い出してしまうから。
ずぶ濡れで、寒くて、寂しくて、誰にも声が届かなくて。
死んでるのに死んでしまいそうだったあの頃を思い出して。
誰彼構わずに冷たい言葉を吐いてしまいそうだから。
でも。そんな彼にも例外がある。
熱が出た時。その時だけは、ジャノメは雨に濡れる。
熱に浮かされる自分を。浮かれている自分を冷ますように、ジャノメは雨に濡れては保健室へとやってくる。
でも、絶対に内緒なのだと彼は言う。
「熱冷ましはタヅナくんがいいものを持っていたから、それですぐに下がるだろう」
「ホント? ありがと、タヅナさん」
「気にするな。薬は役に立ってこそだ」
それより、とタヅナは頭を拭くジャノメに向かって言う。
「お主はどうしてそう、熱が出るのをひた隠しにするのだ」
「うん?」
こてん、とジャノメの首が傾いた。濡れてまとまった髪がぱさりと揺れる。
「寝込むこともせず薬で鎮めて。しかも内緒にしろと固く言いつけて……ここと自室以外では普通に振る舞って無茶をする」
「無茶じゃないよ。大丈夫」
「薬を飲まなければならん程の症状で大丈夫な訳あるものか」
タヅナの少し強い声にジャノメは「そうかもしれないけど」と軽い声で応える。
「大丈夫。ぼくが熱を出すのは内緒だよ。特にシグレさんには絶対」
知られちゃいけないんだから、と頭を拭く手を止めて語尾を強めた。
「だって。ボクが熱を出したなんて知ったらシグレさん絶対怒っちゃう。ぼくは雨に濡れるから熱が出るんじゃなくて、熱が出るから雨に濡れるんだけど……それでもシグレさんは自分のせいだって思っちゃうかもしれないから。ぼくが熱を出すことは絶対に内緒」
「熱を出しても雨に濡れなきゃ良いんじゃないかい?」
ヤツヅリの言葉に「うーん」と首を傾けながら頭をわしわしとタオルで拭く。
「……できるなら良いんだけど、どうしても濡れたくなっちゃうんだよねえ」
「そうか。それなら止めるのはちょっと難しいか」
「……雨が嫌いなのではないのか」
タヅナの言葉にジャノメはううん、と首を横に振る。
「雨を見るのは好きだよ。傘も使えて嬉しいし、シグレさんがちょっと嬉しそうにしてるし」
だから好き、とジャノメは言う。
「でも、濡れるのはちょっとね。だから内緒。絶対に、言っちゃダメだからね」
「それは分かっているが……何故そんなに隠すのだ」
不思議そうに問うその声に、ジャノメはさも当たり前のように答えた。
その声は彼にとって唯一で、絶対で。それ以外の答えなんてないんだと語るように保健室に響いた。
「だって、シグレさんは優しいから」