3月:あんみつの約束
それは、ふとした瞬間に思ったことでした。
「ハナさんは、こういうお菓子がお好きなんですか?」
「こういう?」
僕達の前に並んでいるのは、ガラスの器に入ったクリーム白玉でした。
甘さ控え目のあんこと生クリームが並んだ白玉に丁寧に乗っかっています。
「和菓子、といいますか……あんみつとか、あんぱんとか。こう。和風のデザートのような」
ハナさんは僕の質問に少しだけ首を傾げながらも答えてくれました。
「ボクは基本的に甘いものなら何でも好きだが……んー……そうだな、どちらかといえば。そうかもしれないな」
なんでだい? と聞き返しながら、ぱくりと白玉を口に運びます。
返ってきた質問に、今度は僕が「ええと」と考える番でした。
「なんというか……そういうのを食べてるときの方が、ちょっと幸せそうに見えたんです」
何があった、と言うわけではありません。
ただ、白玉とか、カステラとか。そんなお菓子を食べている時のハナさんの空気は、なんだかふわっとしていていつもと違う。そんな気がしただけなのです。
「ははあ、なるほど。さっちゃんは洞察力に優れているね」
初めて言われたよ、とハナさんは笑いました。
僕も初めて言われました、と僕も笑います。
「ハナさんはどっちかというとクッキーとかケーキとか、そんな印象があったのですが」
見てるとそうじゃない気がするんです、と言うと、ハナさんは興味深そうに「ほうほう」という頷きで僕の言葉の続きを促しました。その口元は「どういう所がだい?」と問いかけてきます。目は隠れて見えませんが、きっときらきらしているのではないかと思うような顔でした。
「うーん、反応はほとんど一緒なんですよ。でもこう、食べてる時の空気というか、そんなのが……って、よく分からないですね」
あんまり深く考えてのことじゃなかったので僕も少し分からなくなってきてしまいます。ごめんなさいと謝ると、ハナさんは「いやいや」と手を振ってくれました。
「ボクは基本的に甘いものなら何でも大歓迎だからな。……でも、そうだな。どうしてそう言うのが好きか、って言われると……ちょっと昔の話になるのだが」
そうしてハナさんは、白玉をつつきながら話してくれました。
「ボクは所謂“大正時代”と呼ばれた時代に生きた人間だ、って話はしたことあったっけ」
いいえ、と僕は首を横に振りました。
後から新しく増えた人は分かるのですが、僕が来るより前から居た人が、一体いつからこの学校で過ごしているのかは聞いたことありませんでした。
過去のことを話しても良いのか。聞いても良いのか。分からなくて、話題に挙げたこともありませんでした。
ハナさんは「そうだったか」と少しだけ考えて。
「まあ。そう言う時代に生きてたんだ」
とにこりと笑いました。
「新しいものがたくさん入ってくる、そしてこれまでの文化と混ざっていく。もちろんそうじゃない所もあったし、今の方がずっといい事もある。でもまあ――大正浪漫っていう言葉はいいものだよね」
それだけで胸がときめくようだ、とハナさんは言います。
大正浪漫。僕が生きていたよりもずっと前の話です。漫画やテレビや小説でしか知らない、わくわくする時代です。ハナさんはそんな時代に生きていた。それだけで僕はなんだかドキドキしてきました。
「でもね、ボクはどちらかというと心躍る文化よりちょっと離れた所に居た」
その声は、さっきの「大正浪漫」を語った跳ねるような声ではなく、どこか静かなものでした。
「当時の僕はね、結構色んなものを我慢して過ごしていたんだ」
甘いもの、新しい本、劇場、街に出て遊ぶこと等々。日常の些細なことから休日の楽しみになり得る物まで。
色んなものをこらえていたのだと、言いました。
「できなかったのですか?」
「ああ。できなかったね。自由がなかったんだ。……いや、実の所自由にできるよう心を砕いてくれた人は居たんだけどね。親の力ってのは不思議なものでさ、ボクの何かをずっと縛ってたのさ。だからそう言う類いの誘いは全部それよりも優先度が低くて……いやあ、当時は勿体ないことをしたよ」
「ああ、それは」
僕にもわかる気がしました。
僕と比べていいものかもわかりませんが。見えないものに縛られて、自分がそうと気付かないまま我慢をすると言うのは、僕自身にも覚えがある話でした。
多分わかります、と頷くと、ハナさんは「そうか」と小さくつぶやきました。
「さっちゃんもそういう家だったか」
白玉をぱくりと口に運びながらの一言は、穏やかそうでしたが、その横顔は。口元は、いつもと違った笑顔でした。
「はい。色々悲しいこともありましたけど、やっぱりお母さんっていうのは、大事で」
「そうだな。何故かは分からないが、心配をかけたり悲しい顔はさせたくは……っと、これでは話がしんみりしてしまうな。美味しいものは楽しく食べなくては」
クリームをスプーンですくいながら「まあ、おかげさまでさ」と話の流れを切り替えます。
横顔も声も、さっきとは違う。いつものハナさんのようでした。
「今はご覧の通り好き勝手やらせてもらっている……と言うとヤミちゃんに怒られてしまうが。まあ、反動ってやつだと思って諦めてもらおう」
「ヤミさんも大変、ですね」
笑ってしまってはヤミさんに申し訳ない気もしましたが、ハナさんがあまりにいつも通りに言うものだから。ついついくすくすと笑ってしまいました。
「そうだな。面倒見が良いからついつい頼ってしまうけど、彼はあれでも苦労人なんだ」
思い出すなあ、とハナさんは言います。
「その、さっき話した「心を砕いてくれた人」はね。色んなことをしてくれたんだ」
「色んなこと、ですか」
「そう。例えば新しい本の話をしてくれた。甘いものを食べに行こうと誘ってくれた。ボクが普段では触れることがないような話をたくさんしてくれて、約束をしてくれた。それなのにボクは全部断ったんだ」
もう、いくつ約束をしたかも覚えてないんだけどさ、と呟くハナさんの声は、少しだけ寂しそうでした。
本当は、約束したものを一緒にやりたかったのかもしれません。
一緒に遊んで、出かけて。甘いものを食べたかったのかもしれません。
全部断った、とハナさんは言いましたが。それでもたくさんの約束をしてくれたその人は。きっと。
「その人は、ハナさんのこと、大事にしてくれてたんですね」
そう、大事にしてくれていたのだと思います。
ハナさんのことが、大好きだったに違いありません。
「ふむ。そうだな。当時は気付かなかったが。……うん、そうだな」
ハナさんもきっとそれは気付いているのでしょう。感謝しなくてはならないなあ、と嬉しそうに頷いていました。
「さっちゃんが言う「ボクの好きなお菓子」はあの頃に憧れたお菓子なんだ。きっと、そんな約束を少しずつだけど果たしてくれてる気がするのかも。だから、ボクは心惹かれるんだろうね」
「そうなんですね。――じゃあ、ハナさん」
「うん?」
「今度、みんなでおやつ作りませんか?」
ほう、とハナさんの口から言葉がこぼれました。
それからスプーンが刺さった自分の器に視線を落として。少しだけ考えたように口を小さく動かして。
「みんなで、か」
そう呟いて、にこりと笑いました。
「つまりそれはあれだな。サクラ君に教えを請おうというやつだな?」
そうですね、と僕は頷きます。
今日のクリーム白玉も、サクラさんが下ごしらえをしていました。
普段のお茶菓子はハナブサさんが作ることが多いのですが、和菓子となるとサクラさんの方が得意な物が多いのだと、以前教えてくれたことがありました。
今日の白玉もとてもおいしいですし、きっと良い先生をしてくれると思います。
「サクラさんはそういうお菓子が得意だと聞いたことがあるので、きっとお上手かと」
なるほどなるほど、とハナさんは楽しそうに相槌を打ちます。
「ならばボクはいつも通りヤミちゃんを巻き込むとしようかね」
巻き込む。とハナさんは言いました。
「誘うのではなくて、ですか?」
思わず傾いた僕の首に、ハナさんは「ああ」といつものように頷きます。
はっきりと頷きはしましたが、僕の方を見てはおらず。その手は次の白玉を掬うことに注力しています。白玉を掬うのが楽しいのか、ヤミさんを巻き込むという計画が楽しいのか。ハナさんは機嫌よさげに笑っていました。
「ふふ……素直に誘って素直に受けてくれるヤミちゃんではないよ」
「そう、ですか?」
ヤミさんは誘えばきちんと応えてくれる人だと思っていました。実際、何かのお手伝いを頼んだりする時や、一緒に何かをしたい時に何度かお話をしていますが「ん、いいよ」と頷いてくれる事がほとんどです。
なのに、素直に受けてくれないとは。
想像できなくて。ちょっと不思議で。思わず僕の首が傾きました。
ハナさんはそんな僕を見て、くすくすと笑います。
「さっちゃんとかなら話を聞いてくれるかもしれないが、まあ、ボクだしな。まず何を企んでるのかって言われるよ」
ならば、と白玉を味わうように食べながら、ハナさんは言います。
「こちらだって正攻法なんて使わない。黙って巻き込む」
「……」
もしかして、それが原因なのでは、という言葉はそっと飲み込みました。
ハナさんは嬉しそうにスプーンの白玉を眺めて、ぱくりと口に放り込んでいます。
「まあ。それがボクのヤミちゃんに対する流儀というものさ」
「なるほど……ハナさんとヤミさんって、仲良しですね」
「そう見えているなら何よりだ。なにせヤミちゃんは――」
最後にハナさんが何と言ったのかはよく聞こえませんでしたが。
その言葉は、ハナさんにとってとても大切なもののように、聞こえました。
□ ■ □
「今日さっちゃんに聞かれたよ」
「うん?」
食後。ヤミの隣にやってきたハナがお茶をすすりながらぽつりと言った。
「ボクは和菓子を食べているときの方が幸せそうなんだと」
「へえ」
ヤミのそっけない返事にハナは「なんだい」と少々不満げに口を尖らせた。
「ボクの新事実なのにつれない反応だな」
「そう言われても……知ってたし」
別に目新しい話ではなかった。
ハナを見てるとわかりやすいというか、彼女は昔からそうだったのを知っている。
それだけだったのだが。
ハナは「なんと」と少しだけ意外そうに声を上げた。
その声に視線を向けることはしない。ただ、言葉を繋ぐ。
「お前はパウンドケーキよりカステラ。パフェよりクリーム白玉。そんな感じ」
「ほう」
ハナの返事はなんだか興味深そうだった。なにか感心するような所があったとも思えないが、まあ、そこがこいつの分かりやすい所だ。
「お前はそう言う所分かりやすいから」
「……ボクですら気付いてなかったのに」
「マジか」
思わず声出た。
ハナはからからと笑いながら「そういうのは他の人でないと気付かないことなのさ」と言って湯のみを両手で包んでいる。今日は別に寒いわけではないが、指が冷えるのだろうか。昔は自分の方が冷たい指をしていたような気がしたけど、どうだったかはもう思い出せなかった。
「ね、ヤミちゃん」
ぼうっと考え事をしていると、ハナが名前を呼んだ。
「うん?」
「今度さ、あんみつを一緒に作ろうか」
「あんみつを?」
繰り返した言葉に、ハナはうむと頷く。
「今日さっちゃんと話をしてて思い出したのさ。昔に約束しただろう。あんみつを一緒に食べようって」
「…………そんなの」
忘れたな、言う声は、自分でも分かるくらい小さかった。
忘れたわけはなかった。俺の。いや、「彼」の姉が大好きだったものだ。何度か誘って、全て断られたのも覚えている。その度に、姉は家に縛られているのだと、無力だと痛感したものだった。
正直、胸に痛い――思い出だ。
そんな昔々に固まってしまった約束を、今更実現しようとするなんて。
相変わらずこいつは自分に読めないことを軽々とやってのけようとする。
「で、どうなんだい?」
「……覚えてたら、付き合ってやる」
なんだか彼女のペースにすっかり乗せられてしまっている気がする。この手の話で俺が「嫌だ」と言わないことをきっと知っているんだ。
だから、返事は曖昧にした。素直に頷いても良かったんだろうけど、誘いがあまりに突然すぎて。そうするにはもう少し時間が欲しかった。
「まあまあ、ヤミちゃんが忘れていても無理矢理にでも呼ぶから安心してくれたまえよ」
「いや待て。どこを安心しろって?」
「仲間はずれにはしないってことさ。みんなで一緒にあんみつを作ってさ、そして一緒に食べようじゃないか」
「まあ……あんみつとか白玉は嫌いじゃないから、作るのは手伝ってやる」
その言葉に、返事はなかった。
ただ、全てを飲み込むような、お茶をすする音だけが耳に届いた。