12月:そらさむくふゆとなる
冬が来た。
木枯らしが吹いて、空気がきんと張りつめるような日々が増えてきた。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
黒髪の姉妹が、窓の外を眺めて言葉を交わしていた。
「もうすぐ、冬?」
姉はぱちりと瞬きをして妹を見下ろした。
暦の上ではとっくに冬を迎えているから、どう答えたものかと少しだけ考える。
彼女のいう「冬」とは。雪の降る季節のことだ。
この地域では雨が多い。けれども雪は、と言われると少ない方だろう。
けれども彼女の言う「冬」とはいつだって「雪」とほぼ同義だ。
だから姉は「そうね」と優しく頷いた。
「そうね。もう11月も終わりだし……もうちょっとしたら雪の季節よ」
姉の言葉に妹の表情がぱっと輝く。
「ねえ、お姉ちゃん。12月になったら、雪が降ったらね。ミユ、雪がんばるよ!」
妹の気合いの入った言葉に、姉はにこりと微笑んで頷いた。
「そうね。それじゃあ、がんばらないと」
「うんっ」
この学校は雨が多い。
雪は昔住んでいた場所に比べたら、ずっとずっと少ない。
そんなことを思いながら外に視線を戻した姉は。
妹がぐっと小さな拳を握りしめたことには気付かなかった。
□ ■ □
「なんじゃ」
シグレは突然やってきた訪問者にそんな一言を落とした。
相手は幼い少女だ。ふたつに分けて結った黒髪が肩にちょこんと乗っかっている。
雪女の姉妹の妹の方だ。名前は……そう、ミユキと言った。
普段からちっとも接点などない彼女が、一体ワシに何の用があると言うのだ。
そんな疑問を隠しもしない、シグレの素っ気ない一言にもぐっと視線を合わせて「あのっ」と声を上げた。
「ミユに、雪を調整する方法、教えてほしい! ……です!」
「雪」
繰り返すと彼女はこくりと頷いた。
「雪を降らすのならお主の姉が居るじゃろう」
「お姉ちゃんは、……まだ早いって言う」
「ほう?」
首を傾げると、シグレの肩にかかっていた白い髪がさらりと滑り落ちた。
「ならばまだ早いのじゃろう。諦めよ」
話はそれだけか、とシグレが背を向けると、羽織っていた着物がくい、と引かれた。
ああ、これは面倒な部類だ。とシグレは心の中で溜息をつく。
こう言う人種には数名心当たりがある。その筆頭は言うまでもなくジャノメだが……短期的に見るとあっちの方が諦めが良いのかもしれぬ、とシグレはぼんやりと考えた。
ちらり、と振り返る。
そこにはシグレの着物をしっかりと握りしめ、目に涙を溜めたミユキが居た。
「……姉にもう一度聞いてこい」
「……やだ」
「何故じゃ」
「ダメ、って。早い。って。もう少し待ってね、って絶対言うから……」
そうじゃろうな。と言う言葉は飲み込んだ。
「お主はどうしてそんなに急ごうとする」
「だって」
冬がくるもん。と彼女は言った。
「冬が来たら。雪が降るから。ミユはお姉ちゃんと二人で雪を降らせたいのに。いつも失敗しちゃってるから……早く練習したいの」
なるほど、とシグレはミユキの心境を考える。
彼女は幼いながらも雪女としての自覚は強いのだろう。それがまだ未熟である証拠、とも言えるのだが。
そして姉に迷惑をかけたくないと、足手まといになりたくないと思っているのだろう。
向上心があると褒めるべきか。無茶を言うと窘めるべきか。
きっと、両方が必要なのだろう。とも思うが。シグレにはそのうまいやり方が分からなかった。
ふむ。とシグレは小さく唸った。それから小さな溜息。
「……次の雨の日に、また来い」
「えっ?」
くりっとした瞳がシグレを見上げる。さっきまで涙が溜まっていたというのに、今はそれが瞳をきらきらと反射させてみせる。表情豊かというか、なんというか。シグレはその表情を何とも言えない気持ちで見下ろした。
「そろそろ師走、寒くなってくる時期じゃからな……ワシが雨としてある程度ごまかしておけば、――まあ。氷雨程度で済むじゃろう」
「う、うんっ」
こくこくと頷く彼女に「ただし」と言葉を刺すと、ぴたりと動きを止めてじっと見上げてきた。
「姉にちゃんとその旨を伝えておくこと。これが条件じゃ」
「お姉ちゃんに……」
表情が途端に不安げになる。視線をシグレから逸らして、急にもじもじとしだした。
「それができぬのなら、この話は無しに――」
「わ、わかった……!」
素っ気なく告げると、彼女は慌てて頷く。
本当に姉に伝えているかどうかは次の雨が降った時に確認すれば良いだけの話。
シグレは次の雨の日に、とだけ約束をして少女と別れた。
□ ■ □
「で。姉に話はしてきたのか?」
雨の日。改めてシグレの部屋を訪ねてきたミユキに、シグレは開口一番そう言った。
「うんっ。話してきた!」
頷くミユキにシグレは「本当か?」という視線を落とす。
返す視線は「本当だもん」と一生懸命に訴えている。
姉は数日前部屋に訪ねてきたから、本当なのはわかっているのだが、シグレは続けて問いかける。
「姉に直接聞いてみても構わんか?」
「大丈夫……っ!」
素直に頷く様子に、そうか、と頷いた。
「して、姉の返事は?」
その問いに、彼女は少しだけ視線と肩を落とした。
「……いいよ、って。でも、シグレさんに迷惑かけちゃいけないから少しにしなさい、って」
「少し。か」
それは彼女の能力も考慮してのことだろう。シグレはうむと頷いた。
「では、少しだけ練習に付き合ってやろう。あとはそうじゃな。――ジャノメ」
ドアに向けて、シグレは声をかけた。ミユキは不思議そうな顔で視線を向ける。
そこにあるのは閉まったままのドアだ。
「そこに居るのじゃろう?」
シグレがもう一声かけると、から、と小さく音を立ててドアが開き、隙間から覗くように赤い瞳が姿を見せた。
「なんで気付いたの?」
不思議そうに首を傾げたジャノメは傘を抱きかかえたままドアを開ける。
「雨が降っておるからな。そろそろ来る頃合いだと思っていたが」
「……!」
「まさか本当に居るとはな」
溜息混じりに呟いたその一言が聞こえていないのか、ジャノメの表情がぱあっと明るくなった。
「シグレさん、ぼくが呼びにくるって思っててくれたの?」
「……来ないことの方が少なかろうが。雨が降ったら毎回のように来るというのに……」
まあいい、とシグレは逸れかけた話を元に戻す。
「丁度良い所に居たからな。しばし付き合え」
「うん? できることならやるけど」
ジャノメは傘を抱え直して首を傾げる。ミユキもシグレの隣で不思議そうな顔をしていた。
「うむ。あると思ったから頼んでおる――外に行くぞ」
シグレは着物を羽織り直し、ジャノメの隣を通り抜けて外へと向かった。
やることは簡単だ。
シグレはミユキに自分の力を合わせ、雨を降らせる。
ミユキはシグレが降らせる雨を冷やす。それだけの訓練。
ジャノメは雨に敏感だ。雨が降るかどうか。その雨がどんなものかを判断するには最適な人材だった。
道すがらそんな話をすると、ジャノメは嬉しそうに頷いていたが。
一体何がそんなに嬉しそうなのか、シグレには分からなかった。
11月が終わり、12月に入った。
ミユキの訓練は雨が降る度に行われていたが、順調……とは言えたものじゃなかった。
幼い彼女の力はどうにも不安定で。強すぎたり弱すぎたり――まあ、振り幅が激しい。
雨のままだったり、氷になりかけたり。ある時などシグレが僅かに降らせていた雨を雲に凍りつかせたこともあった。
ジャノメが雨じゃないと判断したら力を使うのをやめさせ。
雨を冷やすことができなければ、もう少し力を使えと促す。
調整に調整を重ねる日は、雨が降る度に続けられた。
日を追う毎に空気は冷たくなる。
ミユキには扱いやすい冷気が増え、シグレにとってはあまり歓迎できない季節がやってくる。
冬が。雪の季節が、くる。
今日も雨の中、三人は校庭の片隅に立った。
ミユキは不安げな顔で空を見上げ。
ジャノメは傘をさしてシグレの隣に立ち。
シグレはその傘の下でミユキの様子を眺めていた。
「ミユ……ちゃんと降らせられるのかなあ……」
「ミユキちゃん頑張ってるから大丈夫だよ。ね。シグレさん」
「……さあ。それはお主の努力次第じゃな」
雨はしとしとと静かに降っている。
細く、冷たく、重い雫。
ミユキはそれをじっと見つめ、真剣な顔で手の平を差し出して雨を受け止める。
「雪……きらきらして、冷たい。結晶の……」
雨を降らせる雲を見上げたミユキの瞳が、きらりと銀色に煌めいた。
「あ、――雪だ」
ジャノメが声を上げた。
同時に、ミユキの手の平にひとつ。結晶がぽとりと落ちてきた。
ひやりとした冷気の中、雨とは違う速度で降るそれは、白い氷の粒――雪だった。
「雪!」
ミユキがぱっとシグレの方を振り向く。
「――うむ。雪じゃな」
そう言って頭を撫でてやると、彼女はくすぐったそうな、不思議そうな。そんな顔でシグレを見上げた。
「う、うんっ……力、強すぎる?」
「いいや、この時期じゃからな。初雪ならこれで丁度良い」
シグレは不安げな顔のミユキにふわりと微笑んだ。
「ワシは今何もしておらぬ。これは、お主ひとりの力で降らせた雪じゃ。吹雪く訳でもない。雨に戻る訳でもない。実に丁度良い雪じゃ」
「……ミユひとりの?」
ミユキの顔が、少しずつ嬉しそうなものになっていく。
「ああ、――と、気を抜くでない。お主の力は出力の差が激しい。この程度の雪をまずは維持できるようにせねばならん」
シグレがそっと釘を刺すと、彼女は「うぅ」と小さく呻いた後「がんばる」と頷いた。
□ ■ □
学校内で降った初雪は、十分程で雨に戻った。
気付いた生徒は少なく。それも「気のせいかな」と思うに留まった。
けれども、彼女にとってそれは大きな一歩だった。
雨を眺めながら、売店で三人。暖かい飲み物を啜る。
ミユキは雪をしっかり降らせる事ができたからか、にこにことココアを口にしている。
「今日はお姉ちゃんにいいお話ができる。シグレさん、ありがとうございます」
「ん。……さて、これでワシもお役御免じゃな」
「えっ」
ミユキの跳ね上がった声に、シグレがちらりと視線を向ける。
「ワシが付き合えるのはお主が上手くコツを掴む事ができるようになるまでじゃ。今日がその日じゃろう?」
「でも、ちゃんとできたの今日だけ……」
「さっきの感覚は忘れたか?」
シグレの問いに、彼女はふるふると首を横に振る。
「ううん。覚えてる」
「なら、それを今度は姉と一緒に使うといい」
ワシはそろそろ部屋で寝たい。と呟いてぼんやりと天井に視線を映す。
ホールを照らす灯りに目を細めて、一息つくとジャノメの声がした。
「もうすっかり冬だねえ」
「うん。これから雪も、増えるよね」
ミユキが頷く声もする。
「……はあ。冬かあ」
「ジャノメさんは、冬、嫌いなの?」
「ううん。嫌いじゃないよ」
でもさ、と声が続いた。
「シグレさんはいつもなら部屋からちっとも出てこない季節だから……」
ジャノメのため息に視線を戻す。赤い目を伏せた彼は紙カップを両手で包んで、ずずっとその中身を啜った。
「悪いか」
「ううん。悪くないよ。ちょっと寂しいだけ」
「……」
そういうものなのか。
よく分からぬ、とミユキにも視線を向けてみたが、彼女もよく分かってないらしい。
どういうこと? とその目が問うていた。
知らぬ。と視線で返すと、ジャノメがにこりと笑った。
「でもね。そんなシグレさんだから、ぼくは好きなんだ」
「……」
シグレはこれ以上問うのをやめて、残ったお茶を飲み下した。
冬が来た。
冷たい空気に呼吸を曇らせて。
冷えた指を擦り合わせて。
重い雲から降る雨は時々雪になって。
いつもより布団が恋しくなる。
気付けばすっかり、そんな季節だった。