8月:星を見る人
8月。
夏休みになって学校から生徒達がいなくなる――なんてことはなく。
部活動や受験に向けての対策に一層力を入れる季節。
受験を控えた学年は朝から晩まで風通しのいい教室で机に向かい。
大会を控えた部活動に所属する生徒は各々の活動場所で練習に励む。
休みだからこそ、普段設定されている枠を超えての活動が可能な季節。
それでも生徒は夜になれば帰路につく。
今日の授業や練習を振り返り、明日の糧として。1日が終わったことに喜びながら帰っていく。
「そういえば」
どこかで生徒の声がする。
「最近学校内に出るらしいよ」
生徒の口から口に、噂話が語られる。
「立ち入り禁止にされてる屋上で、天体観測してる生徒がいるんだって」
「なんでそこなの? 屋上他にもあるのに」
「さあ、そもそも立ち入り禁止になってる理由がそこで事故があったからだっていうし」
「もしかして、その事故にあった生徒が……」
「死んだことに気付かないで天体観測を続けてるとか……」
□ ■ □
夏の夜。
誰もいなくなった校舎は、昼間の熱気をじわじわと空に放ちながら静かな夜を過ごす。
屋上はいつだって風がそよりと吹いていて、心地がいい。
「今日は星の動きが綺麗……」
夏期講習を終えた僕は、屋上に寝そべって星を眺めていた。
僕が所属する地学部は定期的に天体観測をする。
僕は星が好きだから地学部に入ったのだけれど、学校の許可はそうちょくちょく降りるものじゃなくて。泊まり込みで天体観測なんて、数少ない部員達もあんまり乗り気じゃなくて。
こんなはずじゃなかったのにな、と残念に思っていたその時。屋上の鍵が壊れているのを見つけた。
以来、僕はこうして授業が終わった後はある程度の時間まで――具体的には用務員さんに見つかるまで、こうしてひとりで星を眺めるのが日課になっていた。
夏は日が長いから、眺めていられる時間はとても短い。
遠くに見える市街地の灯りで空はうっすら明るいけど。けれども星が見えないわけじゃない。明るい星や主要な星座なら十分見えるから、僕はここで今日も星を眺めていた。
誰もこない屋上は、とても居心地がいい。
と。
「星見くん」
がちゃ、とドアが開く音がした。
白……じゃない、淡い桜色の髪に黒いフチの眼鏡。半袖のカッターシャツから伸びる腕が夜に浮かび上がりそうなほど白い彼は。
「ああ、法口」
法口。最近夕方になると屋上にやってくる天体観測仲間だった。
学年もクラスも知らないし、名前もそれだけしか知らない。
彼も僕について知ってることは同じくらいだ。
だって、僕と彼は天体観測仲間。それ以上は必要ないんだから。
今日も来たね、と顔だけ向けて笑いかけると、彼は頷いて僕の隣に腰を下ろした。
「ねえ、法口。今日のニュース見たかい?」
「ニュース?」
彼は首をかしげて問い返す。
白い髪がふわりと風を通して揺れた。
「ああ、ニュースもニュース。大ニュースだ。人類がとうとう月に降り立ったって」
月、と法口は繰り返す。
月さ、と僕は言う。
「月……って、あの月だよね」
僕の視界に法口の指が影を作る。
「そう、その月」
信じない? と聞いてみた。
信じるさ。と法口は答えた。
「それにしても月、か……すごいな」
ほう、とため息のような声に、僕は「すごいだろう」と頷く。
「人間は宇宙に出て、月に辿り着いた。きっと、その先まで進んでいくよ。いつかは火星や金星に住んだりできるのかもしれない」
「はは……なんだか途方も無い話だけど。星見くんが言うなら、できそうな気がするね」
「そうだろ?」
僕がにやりと笑ってみせると。
法口は月光のように柔らかい顔で頷いた。
□ ■ □
それからも、僕と法口は天体観測と言う名の屋上で星を眺める会を繰り返した。
「星見君。今日も綺麗に見える?」
「見えるよ」
「やあ、今日は何が見えた?」
「さそり座かな」
「あ、今日は法口が先に来てたんだ」
「うん、授業が早めに終わったから」
僕と法口の天体観測は一ヶ月ほど続いた。
法口は僕が星について話すのを、うんうんと聞いてくれる。彼も星座や星には興味があるみたいで、二人で資料集片手に語りあったりもする。僕が星を指差せば、法口がその星座の成り立ちを話してくれることもあった。
時々彼には見えない星もあるけど、そこは視力とか街の明るさとかそんなのが関わってくるから仕方ない。
たまには二人でノートを囲んで、空の星座を写してみたりもする。
星を見て、語り合って。風に吹かれて。それがとても楽しくて。
僕はいつしか、星を見るのと同じくらい彼が屋上に現れるのを心待ちにしていた。
「やあ。今日はいい天気だったね。何か見える?」
床に寝転がって空を見ている僕に驚きもしないで、その日も法口はいつものように声を掛けてきた。
「うん。今日はね。北十字星が綺麗に見えるよ」
「北十字……? どれ?」
法口が空を見上げながら首をかしげるから、僕は床をぱたぱたと叩く。
「君も寝っ転がりなよ」
彼はうんと頷いて、僕と頭が隣になるように寝転がる。
「結構背中熱いね」
「まだ昼の熱が抜けきれないからね、それで――」
と、星を指差して星座の位置を教える。
「大三角形はわかる? うん、それのひとつがデネブ。そこから十字になってるのが北十字星。白鳥座、って言った方がわかりやすい?」
「ああ。そっちの方が馴染みあるかも」
「そっか。僕は北十字星の方が名前としては好きなんだけどね」
「そうなんだ」
うん、と頷いた僕は寝返りをうって、近くに置いていた資料集を引き寄せる。
ぱらぱらとページをめくり、天体図が描かれたページを示す。
「ほら、ここ」
「ん?」
法口も寝返りを打って僕と同じページを覗き込む。
指差したのはこの空には決して現れない星。南十字星。
「南十字星と対になってる名前だから。ここからじゃ見えないから気付かれないけど、確かにあるんだって思えるから……ロマン、ってやつかなあ」
「あはは、そう言われると確かに素敵だね……そういえばさ」
法口はふと、何かを思い出したように「こういうのは興味無いの?」と資料集のページに指を伸ばした。
ページをぱらぱらとめくって開いたのは、地質学のページ。
そこに並んでいるのは地層の時代を判断するのに使う化石達の写真だった。
アンモナイトとか三葉虫とか教科書にも載ってるようなものから、あんまり見かけることがないような物までいろんな化石が載っている。
「んー。化石かあ」
「そう。地学室にあるやつとか」
「あったっけ……?」
思い出そうと頭を傾ける。地学室の様子を思い出す。
……あれ、地学室って、どんなんだっけ? 普通の教室とは違うはずなんだけど。
机は? 教卓は? 黒板、備品、……あとは?
そもそも。地学室ってどこにあった?
「……」
どんな教室だったかちっとも思い出せなくて、なんだか笑えてしまった。
少し笑うと、何に悩んでいたかもふわっと消えてしまって。
残っていたのは法口の質問だけだった。
「僕、地質学の分野ってちょっと苦手なんだ」
「……へえ。星の組成とかも詳しかったから得意そうだと思ったんだけど」
法口の答えは、なんだか残念そうに聞こえた。
「星はね。どうやってできてるかとかには興味あるよ。でもさ。僕らの足元、土がどう重なってるとか、その順番とか……難しいじゃない?」
「ああ、たまにひっくり返ってたりしてね」
「そう、すぐ近くにあるのにわからなくて、読めないんだよねー」
そう。どうにも地に足がつかない感じがして。
ふわふわと浮いてるようで。
それなら地面より星の方が僕に近くて。わかりやすくて。
僕は。
僕は。
僕は。確かに。
「――確かにさ。鉱石は星みたいだなって思う時あるし、こういうのも地球、言ってしまえば星の一つだから僕の興味の対象だとは思うんだけどねえ。僕は地層をじっと見て読むよりも、星の軌道を計算してる方が好きで――」
「お前達、またこんな時間までここにいたのか」
「あ」
二人の声と意識が入り口に向いた。
そこに立っていたのは灰色の髪をした痩身の男性。用務員さんだ。
「もう下校時間はとっくに過ぎてるんだぞ、ほら、出口は開けといたからさっさと帰った帰った」
「天体観測ならこれからなんだけどなあ」
「そんな時間まで居座られても許可もらってないだろ。あるなら許可証出せ」
用務員さんは呆れたように僕らが立ち上がるのを待っている。
「じゃあ、僕今日は帰るね。用務員さんもまた明日!」
「……いや、できれば俺が来る前に帰って欲しいんだがな」
「ふふ、でも毎日こうして先生に見つかる前に見逃してくれるじゃん。いつもありがとうね!」
入り口の横に置いてあったカバンを通り過ぎざまに拾い上げ、手を振りながら屋上を後にした。
□ ■ □
彼がドアの向こうに消えた後。
サクラはホシミが立ち去ったドアを眺め、そこに立っていたウツロと視線を交わす。
「今日も気付かなかったか」
「うん。なんでだろうね……。地学室の話とか、地面の話になると何かに気付きそう、ではあるんだけど……」
二人は彼が消えた先に視線を向け、小さなため息をつく。
ホシミが消えたドアの向こう。
階段が続くはずのそこから、誰かが駆け下りる音はなく。
ただ、夏の暑さが残る空気だけがそこにあった。