6月:デジタル藁人形と小さな影 後編
「?」
手を止めて振り返る。そこには誰もいない。
いや、視界に入っていなかっただけだ。足元に小さな影が立っていた。
足には小さな白い布が巻いてある。
「あなた……あの時の」
売店ホールで出会ったあの影だ、とすぐに分かった。
影はシャロンのスカートの裾を引きながら、かたかたと揺れてみせる。
それは、シャロンが今取ろうとした行動を否定するように――小さく首を横に振ったように見えた。
「これから、離れろって?」
影は前後にかくりと動いた。
「こんなに、痛そうなのに……?」
影はそれでもだ、と言いたげにスカートの裾を引く。
その姿があまりに一生懸命に見えたから。
シャロンは手を下ろし、一歩下がった。
「これで、いいの?」
こくり、と影はさっきと同じように動いて手を離した。
しばらくシャロンとその影は、部屋の中央に磔にされている人形を眺めていた。
こん、ここん。と釘を打ち出す音はいつまでたっても耳に慣れなくて。赤黒いドットはブロック状のはずなのに妙にリアルに見えて。藁人形は静かに何かを堪えているように見えた。
時々目をそらしても釘を打つ音は途絶えない。そう思っていたのだけれど――ふと。その音が止んだ。
「……?」
なんだろう、と顔を上げると、部屋の光源が変わった。
床に、何か模様が描かれていたのだと、そこで初めて気がついた。
光はさっきまでの不安感を払拭してくれるという期待を抱かせるように、優しく光る。
その光は釘をふわりと舞い上げ、小さな黒い光に――ドットのように角張ったものではなく、ふわりと軽いものに変えて、ちらつきながら消えていく。
それと同時に、ひょこり、と小さな影が出てきたのが見えた。
どこからやってきたのだろう。部屋の片隅から湧いて出たようなその小さな人形は、光の輪に近付き――触れると同時に釘と同じ光を残して消えた。
影が消えると、またどこからともなく影が出てくる。ひとつ、ふたつ。次々と湧いて出てくる、ドットやブロックで作ったようなその影は、シャロンの傍らに居る影と同じように見える。
それらは足を引きずり、腕を押さえ。時には這いつくばりながら、光を求めるように近づいては、消えていく。
まるで風が吹いているかのように、釘と人形と赤黒いドットは次々と舞い上がっては消える。
それと同時に少しずつ、中央にある人形の肌があらわになる。
藁人形に刺さった黒い釘が、どんどん抜け落ち、消えていく。
音はない。
ただ、光が釘を巻き上げる。
それはシャロンの中にあった不安感も一緒に拭い去っていくようで。
まるで浄化のようだった。
それをぼうっと眺めていると、くいくい、とスカートの裾を引かれた。
「君は、私にこれを見せたかったの?」
こくり、と影は頷き。いつの間にか手にしていた白い布をぐっと差し出した。
受け取れ、と言うことなのだろう。シャロンはその布を受け取り、畳む。
「もう、足は大丈夫?」
影は同じように頷き、もう大丈夫だと見せるようにぴょんと跳ねて見せた。
痛めていた足を庇うような飛び方だったのは、見て分かったけれど。シャロンはそれを指摘しちゃいけないような気がして、ただ頷いた。
「そっか。それならよかった。もう怪我しちゃダメだよ」
「――」
影はそれに頷く、と思ったのだけれど、そうはせずに部屋の中央を向いた。
「?」
シャロンが首をかしげるその目の前で、影はとことこと光を放つ輪の方へと歩き出す。
「どうしたの?」
いや、本当はシャロンも気づいていた。
この部屋にある「黒いもの」は全てあの光に浄化されてしまうのだ。
釘も。人形も。たぶん血と思しきあのドットも。全て。
全て。
つまりは。
その小さな影も例外ではなく。
影はその光を放つ模様の中に、足取り軽く駆け寄り。
ぴょい、と飛び込んだ。
「あ――待っ」
声を上げるより先に。
その影はふわっとした黒い光をちらつかせて消えて――。
目が覚めた。
「――」
遮光カーテンからは光が漏れている。
今何時だろう、と時計を手に取ると、まだ昼過ぎだった。
いつもならもうちょっと寝ているのだけれど、今日はなんだか目が冴えていた。
□ ■ □
「お? シャロンちゃんいつもよが早起きね」
勢いよく開いたドアに、カウンターの中でレイシーの髪を梳いていたサラシナが声を上げた。
「ルイ。ちょっと調べ物したくて」
「ん、なんについて調べたかと?」
「ええと……」
と、シャロンはかいつまんで夢の中身を話す。
夢というのは目が覚めると同時に薄れていってしまうもの。少々早口のそれは要領を得ない所もあったけれど。
サラシナはレイシーの髪を整えながらうんうんと話を聞き。
「それ、大祓じゃなかかなあ」
とつぶやいた。
「オオハラエ?」
繰り返すと「そう」とサラシナは頷きながら卓上のカレンダーを手に取った。
「今日で6月が終わるけんね。――んと。神道には夏と冬に穢れば祓う行事があって……って、シャロンちゃんなら検索したほうが早かと思うよ」
と彼女はカレンダーを戻し、シャロンの胸ポケットに入っているスマホを指差す。
それもそうだ。彼女の言う通りに教えてもらった単語を検索し、情報を読み込む。
夢の中には輪があった。
それを通り抜けていく黒い釘は、ふわりとした光になって消えていった。
確かにその光景は、シャロンの中にある気持ち悪さも一緒に拭い去っていくようで。浄化とはこのような物なのかもしれないと思った。
目覚める直前――最後に残ったのは、ポリゴンで作られたような藁人形だけだった。
その空間は最初に足を踏み入れた時とは正反対の、静謐とも呼べる空気だった。
ああ、確かに。
6月最後の日に行われる、穢れを祓う行事。
そう言われると、あの光景はそうだったのかもしれない。
掲示板に書き込まれることで溜まった穢れを。それを一身に受けていた「藁人形」というデジタルな存在を。
本来なら生徒達に向かうはずだったその怪我を身代わりのように受ける、小さな影を。
全てなかったことにする儀式。
「シャロンちゃんにとっては夢だったとかもしれんけど、それはもしかしたらその、足を怪我した影が心配せんでいいよって見せてくれたとかもしれんね」
「……そっか。そうかもね」
ならば、あの足を怪我していた黒い影も浄化されたのだろう。
もう怪我は痛くないだろう。
祓われたということは、きっともう会うことはないだろうけど。
それもそれで、一つの結末なのだ。と、シャロンはブラウザを閉じようとして――ひとつのURLを入力した。
「それじゃあ、私も半年に1回はちゃんと仕事しないとね」
□ ■ □
今日のお昼はポークソテーだった。
売店の黒い手に小銭を渡して紙パックのジュースと共に受け取ると、ちょうどヤミが通りかかった。
「あ、シャロン」
「ん、何?」
「この間の掲示板なんだけどさ」
「ああ、うん。全部、消えてたって言いたいんでしょ?」
「そう」
シャロンはあの後、掲示板にあった書き込みを全てリセットした。
もちろんログには残してあるけれど、見た目上、掲示板はまっさらで、一件の書き込みもない状態のはずだ。
ヤミにはそれが不思議だったのだろう。
掲示板ごと削除するのではなく、書き込みだけを削除する理由。それを、彼は自販機と向き合いながら問うてきた。
「ん。半年に1回は浄化しないといけないって思ったから」
ちゃんと注意書きも書き足したし、問題ないでしょ、と適当な椅子に腰掛ける。
買ったばかりのお弁当を広げると、トマトソースの良い匂いがした。
「浄化、ねえ」
そんなヤミの呟きに、がこん、と缶ジュースの落ちる音が重なった。
「ねえ。お昼一緒に食べよう。話したいことがあるの」
「うん? 別にいいけど、珍しいな」
「まあまあ、そんな日もあるのよ」
ヤミは「そう」と頷いて売店へ向かい、お弁当を調達する。
向かいの席に座ってそれを広げながら、ヤミは「それで」と口を開いた。
「話って? その浄化ってのに関係あるの?」
うん、とシャロンは頷く。
あの掲示板のことを話したヤミには、伝えておかなくちゃいけない気がした。
あの足を怪我した小さな影のこと。
部屋の中央で釘を受け止め続けた藁人形のこと。
それを浄化した――夢のこと。
どこから話したものかと少しだけ考えて、最初から話す事にした。
「うん。この間のさ、デジタル藁人形なんだけど――」