壊れた時計と足りないお菓子 1
ある日。ハナブサは理科室で首を傾げていた。
「……あれ?」
おやつにと用意したタルトが、一切れ減っていた。
残されていたのは一枚の紙。
それをぺらりと捲って、ハナブサはにこりと微笑んだ。
「そうか、やっとその気になってくれたんだ――それじゃあ、迎えに行かないと」
□ ■ □
「それで、目を離した間に一切れなくなっていてね」
ハナブサは緑茶をすすりながら息をついた。
「ん? ……ふぉふぇへ」
「ハナ。飲み込んでから話せ」
学ランを着込んだ少年。ヤミの静かな声に。
セーラー服の少女。ハナはこくこくと頷いて口の中のタルトを咀嚼する。紅茶をぐっと飲んで、はふう、と息をつくとにっこりと笑った。
「いやあ、ハナブサさんのお菓子はいつもおいしいね!」
「ありがとう」
「それで、タルトが一人分足りなかった、と言う訳か。不思議なこともあるもんだね」
ハナの言葉に「うん。不思議だね」と返すと、彼女はなんだか不思議そうに首を傾けた。
「……? ハナブサさんはその理由を知ってるような顔をしてるように見えるな」
ハナブサがくすくすと笑って返事にすると、ハナは「まあ」と、タルトの果物にぷすりとフォークを刺した。
「実はボクも目を離したら、な不思議には最近よく遭遇していてな」
「そうなの?」
「んむ」
頷いたハナが言うには、最近時間の進みがおかしい気がするということだった。
料理をしていると、すぐに鍋が沸騰したり。かと思えば具に味が染みるほど冷えていたり。
お風呂のお湯がすぐに溜まったり。保温してないのにずっと温かかったり。
時間割が劣化していたり、長らく使っていたノートの紙が新品同様になっていたり。
なんと言うか不便は今の所ないのだが、とハナは続ける。
「じっと見ているとそう言うことはないんだ。目を離した隙に、という感じだな」
「そういえば俺も服の乾きがやたらと早かったことあったけど……」
「それもそうかもしれないな」
「そうだね」
ハナの仮定をハナブサが肯定する。
「きっともうすぐ原因はわかるよ。多分彼女が干渉してるんだ」
「ふむ?」
彼女? とハナとヤミは首をかしげる。ハナは興味深そうな顔をしているが、ヤミのその目は険しい。
その色は警戒だ。
学校の事件やその原因となる出来事を未然に防いできたから、きっと今回もその可能性を考えているのだろう。
「ヤミ、彼女に悪意はないと思うよ。これまでも困ることはなかっただろう?」
「まあ……そうだけど」
ふう、と肩の力を抜くように小さく息を吐いた。
ハナブサはその様子に一つ頷いて「と、いう訳でね」と言葉を続けた。
「私は今からその子に会いに行こうと思うんだけれど……二人に同行をお願いしてもいいかな?」
「同行?」
別にいいけど、と二人は不思議そうな顔で頷く。
「しかし、迎えに行くのならハナブサさんひとりでもいいのではないかい?」
「そうなんだけどね。少しずつ紹介していこうと思ってるのと、あと。もしかしたらちょっと手伝って欲しいことがあるかもしれないんだ」
「なるほど。そういうことなら任せておくれ。しかし、ヤミちゃんは怖がられないか心配だな」
「……そーですね」
ふてくされたような、諦めたようなヤミのため息をいつも通りの笑顔で受け止め、ハナは視線をハナブサへと向けた。
「ところで、その”彼女”とはどういう関係なんだい?」
「ああ、そうだね。それは道すがら話そう――」
□ ■ □
それは、私が「私」と言うようになってそう経たない頃だったと思う。
以前と変わらず出歩いていた夜の校舎で、大きな時計を見つけた。
私の背なんか優に超えてしまう高さ。そっと触れると柔らかいような暖かいような感触がする木肌。細身なのに長く時間を刻んできたと分かる、立派な振り子時計。
――でも、それはもう動くことがない、壊れた時計だった。
私も人ならざる物。学校の中にあった備品のひとつだ。
この時計が長い時を刻んで、その結果動かなくなったのは触れて感じることができた。
けれども、その中にある鼓動がなくなっている訳ではないのもわかった。
だから、一度でも動く姿を見てみたかった。もしかしたら、私と同じように言葉を交わすことができるようになるのかもしれない。
そう思って時々訪れてはみたけれど。やっぱり壊れてしまっているのか修理をされているようすもなく。いつまで経っても、動く姿を見ることはできなかった。
その夜も、時計は月明かりの下で静かに時を止めていた。
「この時計は……もう動かないのかな」
ぽつりと言葉が溢れた。
「――はい。もう、うごきません、よ」
「!?」
消え入りそうなほど小さな声がした。なにかの音かと思った私はきょろきょろと辺りを見回して、時計の影に座っていた少女を見つけた。
さっきまで居なかったはずなのに。私は思わず彼女をじっと見下ろす。
ふわりとした淡い茶色の髪が、図鑑で見たウサギのように軽く跳ねている。赤橙の目が、夜の中で光を弾いてこちらを真っ直ぐ見ていた。
「……はじめまして。驚いてしまってすまないね」
こんな謝罪でいいのかは分からないが、彼女は気にしていないらしい。ゆっくりと立ち上がり、時計に寄り添うように並ぶ。背は私よりいくらか高い。裾の長い服のひだが少しだけ揺れた。
「いえ。わたし。ずっとここで見てたましから……気付いてないことくらい気付いて、ました」
おどおどとした喋りなのに、瞳はやたらハキハキと物語るような、そんな不思議な少女だった。
「あなた、時計を時々見てたのを知ってるです。理科室の人体模型さん、ですよね」
「うん。よく、わかったね」
「その顔見れば、わかる。です」
「そっか。君は?」
「わたしは……」
と、彼女は隣の時計にそっと手を添え、文字盤を見上げながら。
「これ、です」
とだけ言った。
話を聞くに、彼女はすっかり壊れてしまったこの時計なのだと言う。私のように人間の……人を象ったものでなくても、人の姿になれるというのは発見だった。
壊れてしまった彼女は、ここでただ捨てられる日を待っていたのだけれど、私があまりにちょくちょく訪れるものだからつい答えてしまったのだという。
「そっか。私は声をかけてもらえて嬉しかったけど、君は違うの?」
「ええ。わたし、きっと壊してしまうので。この時計と一緒に、捨てられるのを。待つのが良い、のです」
「……修理ではなくて?」
「はい。修理なんて、もう何度もしたのです。だから」
そういう彼女の声はかけ相変わらず小さくて静かだったが、その目は、胸に重さを与えるような。そんな色をしていた。
「でも、いいのです。わたしはこれがなくても十分なのです」
だって、と彼女は言う。
「壊れてしまった時計は、時間も壊してしまう、のです。そうすると時計があってもなくても、わたしの時間は壊れたまんま、それだけで十分なの、です。変わらないのですよ」
そういうものなの? と聞いたら。
そういうものなのです。と返ってきた。
「わたしは壊れてしまって、いるのす。だから。「壊れた時計は時間を壊す」という話があればそれで、いいのです」
それからも、何度か会って話をした。
私が時計の元を訪れると、彼女は決まって時計に背を預けて座っていた。しぶしぶという感じだったけれど、私と話をしてくれた。
彼女が私に話をすることは少なかったが、私の話には耳を傾けてくれた。
私は彼女に色んな話をした。ミキヒコのこと、骨格標本のこと。出会った人間のこと。英のことは……まだ、話せなかったけど、いつかみんなに紹介するよ、と言ったら。
「わたし……壊れてる、から。別にいい。です」
なぜだか断られてしまった。
「ところで」
「うん?」
ある夜。彼女は首を傾げて私に問うた。
「あなたはどうして夜しか、姿を見せないのですか?」
ずっと耳を傾けてばかりだった彼女からの、初めての質問だった。
「それは、私が夜にならないと動けないのと……昼間は生徒達が居るからだよ」
「どうしてですか?」
その問いかけはまっすぐで、それ故に答えを喉に詰まらせた。
「あなたは、人間に何を思っているのです?」
相変わらずぼそぼそとした声で、彼女は首を傾げた。
人間に。生徒たちに何を思っているか。それは、ずっと前から抱いて来た想いだった。
「私は……人間をあまり怖がらせたくはないんだ。最近は昼間も意識があるから、話をしているのはよく聞くんだけどね。その。怖がられると……胸が痛むんだ」
生徒の噂話から私達は生まれた。生徒たちは、私達にとって欠かせない存在だ。けれども同時に、自分は恐怖の対象だ。否定の対象だ。仲良くしたいとは思うけれど、相容れないというのは理解している。
英のような人間も居たけれど。彼は稀有な存在だというのも分かってる。
「胸が」
私の言葉を繰り返して、「わたしには、よく分かりません」と彼女は言った。
そういうこともあるかもね。と私は答えた。
「君の場合は……この学校、女子は居ないから驚かれるんじゃないのかい?」
「はい。一回見つかって大変だったので、もう昼間はでないようにしています」
「そうなんだ。その間は、どこに居るの?」
「ここに」
彼女はこん。と時計をノックした。
「この振り子の部分は、開くのです。なので振り子の下で夢を見るのです。コチコチカチコチ、音がする夢」
いい夢ですよ。と彼女は言った。
私が何か答えようとするより先に「でも」と彼女の言葉が続いた。
「お昼に眠れなかったら、鏡を使うのです」
「鏡を」
繰り返すと、彼女は頷いた。
「この学校を、写してひっくり返してしまった場所で眠るのです」
「……?」
彼女の言う事は、難解だった。
学校を、ひっくり返すとはどういうことなのだろう? イメージが掴めないまま、私は問う。
「そうすると、どうなるの?」
「静かで広くて、好きに生活できます」
「好きに生活……?」
「はい」
だってわたしはそうしています。と、彼女は小さい声で。でも、いとも簡単なことのようにそう言った。
私達にそのようなことができるのか? という疑問が湧くけれど、答えは出ない。だって私はずっと学校の中で過ごして来た。夜の学校しか知らないけれど、学校の中はそれなりに知っているつもりだ。
なのに、私は自分自身の疑問の答えを持っていなかった。
答えに困る私に、彼女はこてんと首を傾げてこう言った。
「ああ。あなたは、向こう側に行けないのですか?」
向こう側? と、問いかける。
向こう側。と、彼女は頷く。
「……」
「……」
「……えっと」
「知らないなら、教えてあげるのです、よ」
こっちにきてください、と、彼女は私の手を取った。
手袋越しでは温度もわからないけれど。しっかりと私の手を握った彼女は、たかたかと時計を離れて階段へと向かかう。
階段を上り、踊り場を曲がる。廊下を渡って別の階段へたどり着くと、そこには大きな姿見があった。
手を繋いで立つ小さな二人が、その鏡面に薄ぼんやりと浮かんで見える。
「この鏡は……」
「大鏡、なのです」
「大鏡……」
繰り返すと彼女は「です」と頷いた。ウサギのような髪がぴょこりと揺れる。
「大鏡は空間を写してひっくり返すものです。わたしはそこで時間を壊してしまいました。あ。人間にはナイショですよ? わたし達の秘密基地なのですから」
教えるのも貴方が人間じゃないからなのですよ、と彼女はぽつりと付け足す。それから繋いでいた手を離し、その鏡面にぴたりと触れた。
「ねえ、大鏡。わたし、あっち側に行きたいのです」
頬を寄せて、慈しむように目を閉じて。
「ここを通して欲しいのです」
夜に溶けるような声で、彼女は囁いた。
「――」
鏡がなんと答えたのかは分からない。
けれども、鏡面が小さく揺らいだのが分かった。
「ありがと。――それじゃ、行こう?」
その赤橙の目が、私を映してにこりと笑った。