アンティーク・ラジヲはひとりなく 3
朝。
朝食前に理科室でコーヒーを飲んでいたウツロは、やってきたハナブサへいつものように「そこに準備してる」とお茶を勧めた。
「ありがとう、ウツロ」
「ん」
時々交わすやり取りを経て、二人で朝食前の一杯をいただく。
と。
「ああ、やっぱりこっちに居た――おはよう」
そんな声に二人がドアの方へと視線を向けると、そこにはサクラが立っていた。
「おや。おはよう、サクラ」
「お。すまない、お前さんの分はさすがに用意してなかった」
「ふふ、大丈夫、自分で淹れるよ」
タバコの火を消そうとしたウツロの行動を笑って止めて、サクラは自分で残っていた緑茶をビーカーに注ぐ。
適当な椅子に座り、湯気をふうと吹いてからサクラは話を切り出した。
「昨夜の話の続きをしようと思ってたんだけど、朝食の後より今のほうがいいかなって」
「そうだな。俺もそのつもりだった」
「うん?」
ビーカーを両手で包むように持っていたハナブサの首が傾く。
「ああ、昨夜ちょっとあってな。サクラと話したんだ」
そうしてウツロはかいつまんで状況をハナブサに話して聞かせる。
ウツロが実際に聞いたもの。感じたもの。思い出したこと。
サクラが二人で話したもの。思ったこと。考えたこと。
それらを語り終えるまでにそう時間はかからなかったが、ハナブサの表情を変えるには十分だった。
「それは……困るね」
聞き終えたハナブサがぽつりとこぼしたのはそんな言葉だった。
「生徒に怪我をさせないようにするはもちろんだけど、こっち側にも影響が出るのはもっと良くない。それが原因で生徒達に事故なんて起きたら……」
その声は深刻だ。
日頃から「学校は平和であるように」と心を砕いてこちら側のあれこれに対処しているハナブサだ。それで何か起きたら、と考えただけで辛いのだろうというのは表情と声から容易に察する事ができた。
「ああ。だから早々に対処をしてしまいたいところだ」
「そうだね……といっても、私達に何ができるかな」
「できるのはラジオを壊してしまうか、骨格標本みたいにどこかに隔離して時間が解決するのを待つことだろうな」
「うん。できれば隔離の手段をとりたい、かな」
「ま。英ならそう言うと思ってたさ」
だが、とウツロが紫煙を吐きながら言う。
「問題は誰がそれをやるか、だと俺は思う」
「誰がやるか……」
ハナブサが繰り返すと、ウツロはタバコを咥え直して「そうだ」と頷いた。
「最初は俺が引き受けようと思ったんだがな……昨夜聴いてちと無理があるなと思ったんだ」
「ウツロが?」
珍しい、とハナブサが首を軽く傾げる。
ウツロは深く煙を吸いながら「そう言う事もある」と頷いた。
「あのラジオを聞くとどうにも良くなくてな。身体が何か別の感情で動きそうになる。昨夜はすぐに電源ごと切ったが……それでもしばらくは後悔が尾を引いた。ずっと聞かされたらどうなるか分かったもんじゃない」
「……ウツロは、何か後悔しているの?」
ハナブサの声が不安げに揺れる。
ウツロはちらりとハナブサに視線を寄越し――静かに伏せた。
ハナブサはハナブサで後悔していることが、気がかりなことがあるのだと、それだけで分かる。それはきっと、この口ぶりからするに自分に絡んだことだ。
それが何かはわかっている。あの夜に俺を無理矢理生かしてしまった事だ。
気にするなとは何度か言って聞かせているが、どうにもそこは不安であり、後悔として深いらしい。
だから、ウツロは軽く否定する。
「別に大したことじゃないさ。あの時ああしときゃ良かったとか……生きてた間の話だ。ここに居ること自体は後悔してないっていつも言ってるだろ」
答えてやるとハナブサは、そう、とほっとしたように息をついた。
ウツロは伏せた視線を少しだけ上げる。そこには少しだけ表情が和らいだ様子のハナブサが居た。
目元には僅かに不安が残っているようだけれども、その表情は安堵したもののように見えた。それなら良い。大丈夫だ。ここに居ることを後悔していないのは事実だし、変に不安を抱かせるような必要もない。
「で。大した後悔もなく生きてきた俺がこうなんだ、他の奴らだとどうなるか……分かったもんじゃない」
「じゃあ、俺は?」
サクラがそっと立候補したが、それはすぐに却下する。
「元々人間だったやつはダメだろう。お前さん、後悔とかなく生きてきたか? 人への恨みつらみ、妬みに嫉みその他諸々一切無い人生だったか?」
「う」
サクラの言葉はあっさりと詰まった。桜色の瞳が、自信なさげに閉じる。
「そうだね。俺、結構心当たりが……うん」
サクラは生まれつき身体が弱くて、布団の上で過ごすことが多かったと聞く。しかも多感な時期に命を落とした彼――幹彦が他の人へ何かしら思う所がなかった、なんてことがあるか。年を重ねればそこに折り合いをつけることもできたかもしれないが、それができないうちに死んでしまった場合は。それで生前のことを思い出したりしたならば。
答えは表情を見れば明らかだった。
ウツロは小さく溜息をついた。
「俺とサクラはご覧の通りだ。英も適任とは言えない。他のヤツも極力巻き込めない。その場で絶望して失敗しました、なんてのはゴメンだからな…………どうしたものか……」
どうすればいいのか分からなくなってしまった三人に沈黙が落ちる。
が、それはそう長くは続かなかった。
「――では、私とかどうでしょう」
「!?」
三人が振り向いたそこには、夏服の長袖セーラーに身を包んだ女子生徒、スイバが立っていた。
「おはようございます。昨夜の密会は今日のためでしたね? ためになるお話はできましたか? 発声練習には向かない朝ですが、秘密の相談にはもってこいですよ。こちら、耳寄りの話でお土産です」
□ ■ □
「こーんにちわ、っと。誰も居ませんね。音もしませんね?」
ひょこ、とスイバは物理準備室にやってきた。
スイバは自らこの役割を買って出た。
勉強のため、能力向上のため。その他諸々の理由でラジオを良く聞く彼女も、あの夜の放送は聞いていた。
だが、ウツロが言うようなことは特に何もなかったのだ。
あの日の放送は最後まで聞いた。今この学校にいる人達をひとつのクラスに例えるようにして、順番に、ノイズ混じりで淡々と読み上げる。
なのに、自分には何もなかった。少しノイズが不快だっただけだ。
しかし、これが良くないものなのはすぐに分かった。最近の噂話のことも耳に挟んでいた。
自分は毎日楽しく生きているからだとか、噂話という存在とかその期間の短さとか。そんなのが理由なのではないかと推測した。とはいえあの放送は不可解で不愉快に過ぎる。不可解な言葉を紡いで波に乗せるのは自分だけで十分。
だからスイバは理科室を訪れ――彼らの話に乗った。
「さてさて、噂の噂ラジオはこれですか。影を落とす音は私だけでいいのに。そんな物には防音、消音、滅音が大事だよね」
そう言いながらてくてくと準備室の奥に置いてあったラジオをに近寄り、こつん、と指で弾く。
――ざっ
ラジオからノイズが零れる。
が、スイバがその音をつまんでぎゅっと引っ張るような仕草をすると、ぷつん、と音を立てて静かになった。
「はいはい、不安定なノイズはこうして引っ張ってちぎるのが一番」
そう言いながらつまんだ何かを口へ運ぶ。
はくり、と見えないそれを咀嚼し。飲み込んで。ひどく後悔した顔をした。
「うえ……これは非常においしくない。調理を失敗した青臭い野菜のバターソテーみたい。こんなの聞いたらそりゃあおかしくなっちゃうってもの。でも、わかるよ。貴方はその人が大好きだったんだね」
まだ微妙に苦い顔をしながらも、スイバはラジオをそっと撫でる。持ち上げて、軽く抱きしめる。
「でも、人間の真似事をしたって、ここを去った人間が戻ってくる確率は、低いかと」
そうやって懇々と言い聞かせながら、ラジオを部屋の奥にあった小さな小さな戸棚へとしまう。戸棚の中に腕を突っ込み、ラジオの横でぱちん、と一つ指を鳴らした。
その余韻が消えるより前に、棚の戸をぴしゃりと閉める。
「よし、これでここからは音もこぼれない。ひとりで鳴いても良いけれどあんまり泣かないでね。自分の涙で溺れちゃうから」
戸棚の中にあったものを別のところに片付けて、ラジオを入れたところに鍵をかけた。
「ちょっと寂しいかもしれないけど、それはあなたが今後どうするかにかかってる。大丈夫。私が様子を見にくるから。同じ音を波に乗せるもの同士、時々なら仲良くしよう」
そうしてラジオは、誰も知らない戸棚にそっとしまわれた。
時々音を鳴らしてみても、それは戸棚の中で反響するばかり。
それはなんだか寂しかったけど、時々やってきては声をかけて、その涙を一緒に飲み込んでくれる人が居たから、ラジオは少しずつ少しずつ、音を上手に出せるようになってきた。
それがもう一度狂ってしまう日が来るなんてつゆにも思わず。
ラジオは時々、気まぐれに。誰かを呼ぶ音を流している。