あなたはだあれ? 前編
あなたを変えるおまじないをしよう。
鏡の四隅に紫色の絵の具を付ける。
鏡に向かって「あなたは誰?」と尋ねる。
名前を答える。
質問が終わったら、絵の具を白いハンカチで拭き取る。
それを一日二回。一週間繰り返す。
気をつけるのは四つだけ。
・誰にも知られちゃいけない。
・鏡は毎日変えなきゃいけない。
・ハンカチは同じ物を使い続ける。
・自分の名前を忘れちゃいけない。
そうしないと。
□ ■ □
きこきこきこきこ。
自転車のペダルを回すと、油の切れかけた音がする。
私はこの音が嫌いだ。
耳障りで、壊れそうで、回してないと止まってしまいそうで。
ううん、そもそも自転車が嫌いなのかもしれない。
それをこうして漕いでる私自身も。
友達は居ない。両親は海外赴任。
家に帰ったらひとりで食事。宿題と予習をして。時間があったら読書して。布団で朝が来るのを待つ。
それを繰り返し。繰り返し。繰り返して、繰り返す。
単調で代わり映えがない。
まるで、自転車通学の風景のような毎日だ。
ああ。私ってば何をしてるんだろう。
どこに向かっているんだろう。
そんなことを思っても、小さい頃からずっとこうだった。
周りの大人に「いい子だね」なんて言われて。
いい子っていうのが何かも分からず、怒られないなら今のままで良いんだって思って。褒められるのが嬉しくて。
ただただ、その「いい子」という自転車のペダルを漕ぎ続けている。
きこきこきこきこ。漕ぎ続けている。
「昔は……これも楽しかったと思うんだけど」
いつしか、この回転を止める方法が分からなくなっていた。
このままどこに行くのか、止まってしまったらどうなるのか。分からなくて、怖い。
だからまっすぐ進み続ける。
道から外れるのは怖いから、寄り道はしない。
髪も染めないし、スカート丈も短くできない。
自分ができる範囲で進路を決めて。自分ができる仕事について。
――きっと未来もそんな感じで続くんだって気がする。
正直つまらないなと思う。
この自転車を止める勇気なんてないけど、止めて欲しくなる時がある。
天変地異とか。交通事故とか。そんな、思いもしない状況とかタイミングで。突然に。
身勝手だけど、回り始めたものはそういう事がないと止まらない。
そう思ってた。
ある日。クラスの女子が話をしているのを聞いた。
「あなたを変えるおまじない、って知ってる?」
「あ、しってるー。でもあれヤバイんじゃないの?」
「精神崩壊するって言うじゃない」
「それは都市伝説の方だよー。こっちはおまじないだから大丈夫だって」
イメージ変わって彼氏できた子とか居るらしいよ。まじで。なんて。私には縁もゆかりもなさそうな話。
噂話が浮いては消える、ちょっと変わった学校の中に転がってる噂話のひとつ。
興味が無い、そんな素振りで通り過ぎたけど。
あまりにお手軽なおまじないだと、彼女達が話すから。
それで何が変わるのか分からないけど。
一週間だけなら。自転車を漕ぎながらだってできる気がした。
□ ■ □
水曜日の朝。いつも通り学校へ行く。まだ人は少ない。
教室へ行く前にトイレに立ち寄った。
手を洗って、小さな巾着袋から絵の具を取り出す。
そして、四隅に絵の具を乗せて向かい合う。
薄暗いトイレの鏡に映る私は、本当に冴えない顔をしていた。
伸ばしただけの黒い髪。普通に着てるだけの制服。化粧っ気なんてひとつもない顔。
トイレで鏡を見る事なんてなかったから、学校で自分と向かい合うのは珍しく思えた。
「あなたは、誰?」
私の声で、鏡の中の私が問う。
「私は――吹月市子」
鏡の中の冴えない顔が答える。
少し不思議な感じがした。
きゅ、っとハンカチで絵の具を拭い取る。汚れないように畳んで、袋にしまう。
二回目は、部活動の声が遠くに聞こえる放課後。
教室を最後に出た私はトイレに寄って。質問をして、答える。
こうして一日目は、何事もなく終わった。
二日目に変化はなく。
三日目も特に何も起きなかった。
四日目の土曜日は、お風呂場と洗面所で。
信じてるわけじゃなかったけど、変化がないことにがっかりした自分が居た。
頭がすこしぼおっとする。
五日目。部屋にあった小さな鏡で。ちらついたように見えたけど、きっと光のせいだ。
六日目の朝。少しだけ鏡がくすんで見えた。ハンカチは随分と汚れてしまった。
六日目の夕方。
「あれ?」
鏡の中の顔が、なんだか違うように感じた。
私、こんな顔だったっけ? でも、髪型とか目とか制服とか名札とか。パーツを見れば確かに私だし、鏡だから違うものが映るなんてこと、あるはずない。
そう言い聞かせて、名札を確かめて。問いかける。
「あなたは、誰?」
「わたし、は……」
少しだけ詰まったけど、大丈夫。答えられた。
七日目の朝。鏡がとても薄暗かった。
逆光とか、影が映ったような。輪郭がぼやっとしていて、よく見えない。
「電気は……ついてる」
首を傾げて目を凝らすと、なんとか自分の口元が見えた。
質問を繰り返す。大丈夫。まだ答えられた。
何かが変わったような感じは、特にありませんでした。
そして夕方。最後の一回。人気のない洗面所。
鏡の四隅に紫色の絵の具を付けて、向かい合った鏡の中に居たのは――ただの影だった。
朝の比じゃない。髪型も、顔色も、服装も分からない。
紫色でぺたぺたぺたぺたと塗り潰されたような。誰ですか? 黒鉛筆でがさがさと雑に塗ったような。輪郭も、色も、形も分からない、かろうじて人の形をしている何か。
喉に言葉が詰まる。気味が悪い。このまま逃げたくなる。
でも、足は動かなくて。口が勝手に動いた。
「あなたは、だれ?」
「――」
答えられなかった。言葉が、名前が。出てこない。
喉でつっかえたように。ハッカのキャンディに溶かされたように。
冷たい息しかできなくて。
首筋に、嫌な汗が流れた。
気をつけるのは四つだけ。その注意を思い出しなさい。
そうしないと。
そうしないと。
そうしないと――。
「「紫鏡が食べちゃうよ?」」
隣の鏡に、そっくりの顔をした男女の生徒が現れた。
「!?」
思わず両隣を確かめる。誰も居ない。なのに、鏡には確かに二人が映っている。
「だ、だれ……?」
「それはこっちの質問」
「あなたが答える質問」
「さあ。あなたはだーれ?」
「ねえ。おなまえなーに?」
二人は口々に問いかける。
わた、し。は……あれ。私? 僕? ……出てこない。
でも、答えないと。なにか、こたえないと。
思い出せるものを慌てて探す。
何か。なにか。ねえ、なにか……!
制服にぱたぱたと触れると、爪がこつんと小さな音を立てた。
名札だ。直感でそう思った。
そうだ。そうに違いない。それなら名前が。名前という物が、書いてあったはずだ。
信じて胸元に視線を落とす。
そこにあったもじは。
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読めなかった。