Flowers
路傍に咲いた花達はただ、全てを見ていた。
何もこんなところでなくともよかったのにと思っていた。
いや、どこであろうとこんな事実はなくても良かったと思い直した。
それほどまでに目の前に横たわる少女は悲惨だった。
あちこちの切り傷と胸元に伸びた深すぎる傷が痛々しかった。
少女はいつも路傍の花達に、他のものが羨むような愛らしい眼差しを向けるような子だった。細い指先に宿った優しさが今はとても昔のものに思える。
少女に親はなかった。近くの孤児院の子供の一人だということは花達も知っていた。
雨の音と重みが花達には煩わしかった。
ふと思う。自分達が彼女と同じ人として生を受けていたらこの結果にならなかったのだろうか。或いは自分達もまた世界の多くのものと同じように周囲に配慮をしない存在として生きていたとしたら、この痛みを感じなかったのだろうか。
少女は傍目から見て、生い立ちと環境に問題と不幸があった。
何でも望まれない子供だとかで、まだ言葉も満足に話せない時分から、彼女の身柄は孤児院にあり、その孤児院内では最低限の保護は受けていたものの、彼女の様子や言動から鑑みるに決して満足な愛情を受けていた様子はない。
花達は何もできなかった。
この場所に根を張ると決め、生き抜いてきた以上、それは何人たりとも変えることのできぬ花達の矜持であり、生き様であり、生き方だった。
それでも、彼女のことは心配だった。
言葉を交わすことも、温度を伝えることも、自ら触れることも出来ぬ身ではあったが、それでも心配してはいけないという法もなく、またその気持ちを邪魔する者もなかった。
少女の弱弱しい呼吸音が雨に混じる。
花達は何も語らず、降りしきる雨に抗することも出来ず、少女をその雨粒や様々な障害から守ることも出来ずにただそこに根を張り、見つめている。
ふと少女の指先が少し動いたのを花達は見過ごさなかった。
その動きを見て、花達は悟っていた。少女の命は今土と空に還ろうとしているのだと。
それは多くの死と命を見続けてきた花達の経験から来る確かな事実だった。
滅びの時は如何なるものであろうとも同じだ。
それは人であろうと、花であろうと、世界であろうと同じ事。
そう花達は思っていたし、知っていた。
赤い水溜りの中で、少女は呻き、指先を必死で動かそうとする。
致命傷を受け、助けも無く、最後のほんの少しだけの時間を少女は今体験しているのだと花達は思った。
花達に名前はない。
種族ごとに、人につけられた名前はある。
しかし、それは単一を指し示すものではなく、ただこの場にいる花達に名前を与えてくれたものなど誰もいなかった。
目の前の少女ですらそれは同じだった。
生涯おそらく一番長い時間一緒にいた彼女ですら、花達に名は与えなかった。
ただ自分達と時間を共有しただけだ。
それでも、彼女と対等のコミュニケーションは取れず、彼女がごくまれに一方的に話す言葉を受け取ることも出来ず、ただ横たわる虚無にも似た漠然とした時間を過ごしていた。
それは非生産的と呼ばれる類の時間だった。
何も生み出さない時間を過ごし、どこにも行かない感情を胸に抱いて、彼女は死の淵に今立たされている。いや、既にその深い奈落に落ちている。
だから、と花達は思う。
これは既に終わった物語を自分達が追憶しているだけなのだ。
目の前で起こる残酷極まりない事実を避けることも変えることも触れることも出来ない自分達が味わっているだけなのだ。
これを終わった物語を言わずして何と言うのかと花達は自嘲気味に思った。
花達が自嘲的に思っている間にも少女の命の灯火は消えようとしていた。
命の雫が流れ、ただ零れ落ちていく。
少女の記憶が粉々になり、そして散っていく。
これが死だと花達は納得する。
そうすることでしか、彼女の死に報いる術を知らなかった。
ただ見つめるだけの力も権利もない事実だった。
犬のように動ける四肢があれば、鳥のように羽ばたける翼があれば、機械のように情報を伝える能力があれば、そうすれば彼女の何かを変えてやることが出来たかもしれなかった。
だが、それは所詮ないものねだりで、あったとしてそれができた可能性も少なくて、もしくは今のこの身でも他にできたことは何かあったのかも知れない。
何もかもが遅かった。
何もかもが後悔と過去の積み重ねだった。
ゆえに、今少女は死に向かって行く。
花達はただ、少女を見つめ続ける。
それだけが、少女への手向けだと思っていたから。
それだけが、少女と自分達の幸福だと信じていたから。
それだけが、少女と自分達の絆で、友愛で、現実だったから。
冷たい雨が花達には祝福で、少女には試練だった。
どこかに救いはないのかと花達は思った。
何もない。
救いと死は世界にとって同等で、ただそこに漫然と在る事象だった。
少女の苦しそうなか細い吐息が長く細く吐き出された。
存外に死神はのんびりとしているらしい。
花達と少女だけの世界になってから既に長い時間が経過していた。
それは両者にとって永遠にも等しい時間だった。
少女の指先が止まった。
ああ、ようやくだと花達は思った。
引き延ばされた拷問のような時間が今終わりを告げようとしていた。
少女の唇がほんの少しだけ動いた。
彼女の想いがほんの少しだけでもこちらに伝わればいいのに、彼女へ自分達の想いが砂粒一つ分だけでも伝わればいいのにと花達は思った。
ないものねだりの応酬だった。そんなことは知っていてもそう思わざるを得なかった。
それほどまでに彼女と過ごした時間は花達にとって大切で、かけがえのない物だった。
蘇る思い出の中で、少女は花達にとても優しかった。
孤児院での不満を口を尖らせて語るとき、学校のテストや徒競走で好成績を残して誇らしげに胸を張っていたとき、両親のいない寂しさを涙と共に吐露するとき、花達の世話を焼いて水をくれたり撫でてくれたりしたとき。
そして、少し前に傷を負って走り込んできたにも関わらず、自分達を潰さないように少し手前でゆっくりと倒れ込んだとき。
愛を満足に知らなかった少女が与えてくれた愛情を花達は確かに受け取っていた。
雨は降り続いていた。
少女はもう動かなかった。
少女の全ては既に天使や死神やそういう手の届かない存在に召されていた。
何も残っていない抜け殻だけがそこにあった。
花達は涙を零せなかった。
そういう機能がなかったし、そういう決まりになっていた。
今願うのなら、涙が欲しかった。
もしくは自分達も少女と一緒に連れて行ってほしかった。
悲しみを流せないのなら、せめて彼女と共有したかった。
路傍の花達はただ見ていた。
少女の死と降り続く大粒の雨を。