おう、忘れるとこだったわ
苑代の春は忙しい。
大体の人が春は忙しいものだが、苑代は年明けから春の用意、つまり募集の準備と人員管理をしなければならないので、休憩すらろくに取れなくなってしまうのだ。
予備校の教務員に就いてからは、この季節はそういうものと化している。
大学受験のシーズンを迎え、その中頃から学生達の出入りが激しくなる。
合格してここを去るもの、浪人を決めてここに来るもの。
全国的に知名度の高い大手の予備校ではあるが、この校舎のスタッフは十人に満たず、勤務三年目の苑代が事務の要となっている。
「小湊さん、14時から来校入ったから応接室開けといて」
先程まで電話応対に出ていた半井が、ネクタイを締め直しながら言った。
「もう開けてますよ。今のお電話の方でしょう?清掃も済ませてます」
「相変わらず仕事が早いねぇ」
「半井さんこそ早いですよ。さっきの、最初はただの受験相談っぽかったのに、ウチへの入校にどんどん誘導してったでしょ? で、これから手続きにいらっしゃるんでしょ? さすがだなと思って聞いてたんです」
苑代が事務を担っているのに対し、半井は営業のエースだ。
彼が電話を取っている時、苑代は作業をしながら耳をそばだてることが多い。
つい先程のように、電話一本で受験生の保護者に入校を決心させる手腕の持ち主なので、こちらも迅速に行動する必要があるからである。
「運が良かっただけだよー。さて、おれコンビニでコーヒー買ってくるけど、小湊さん何か要る?」
「私もコーヒー。ラテ、ホット、Mサイズ」
「うぃー。じゃあ行ってきます」
「あ。半井さーん、コレ持ってかないとー」
苑代は半井のデスクに置いたままの携帯用灰皿を手に取り、その背中に声をかけた。
実は買い物はついでのことで、一服したくて外出するというのが彼の本音なのだ。
「おう、忘れるとこだったわ、サンキュ。ところで、今日はいつもの青汁買わなくていいの?」
「おう、忘れるとこでした。お願いします」
阿吽の呼吸。ここはそれなりに人間関係の良い職場だが、苑代と半井は、特にうまが合う。
同い年だからということもあるが、異性なのに「性的なにおいがしない」というのが一番大きい理由だと苑代は思っている。
青臭くもなく、熟すこともないこの関係を、苑代はとても気に入っていた。