外伝 エリカ・ゲイツの暮らし
私はエリカ・ゲイツ。寡婦だ。
私も夫も貧しい農家の次男次女で成人後、結婚し夫婦で日雇いの暮らしをしていた。
当然生活は苦しい。どうにか向上させようと夫が当時創業したばかりの王国鉄道に就職。連結作業員として働きはじめた。それが私が変わる切っ掛けとなった。
鉄道の発展と共に夫の給料が上がって行き、生活は順調。五人の子供にも恵まれた。あの事件までは。
夫は自連――自動連結器の切り替え作業前日に事故で死亡。
大黒柱を失い、子供五人と共に野垂れ死ぬことを私は覚悟した。
手に職の無いルテティアの社会を女手一つで子供を養っていくことなど不可能だからだ。
そんな時、加入していた鉄道共済会の紹介で駅の売店の売り子を紹介されて、何とか生活費の目処は立った。それ以降も電信員などの仕事をあてがわれ、何とか女手一つで子供達を育て上げることが出来た。
夫を殺した鉄道に対して恨んだり、昭弥卿を呪ったこともある。
もちろん寒村の夫婦二人が五人の子供を持てるまでの収入を与えてくれたのも、こうして女手一つで身売りせず子供を育てられたのも鉄道のお陰だ。
こうして愚痴る余裕が出来たのも鉄道によって職を得られたからだ。
だが、夫を奪ったのも鉄道だった。
育て上げた子供達は皆独立し、最早鉄道にこだわる必要も無いはずだった。
特に昭弥卿に対する義理も無かった。
夫が亡くなった数日後、私の家に来て頭を下げてはくれたが、夫は帰ってこない。
何よりも驚いたことは、それを昭弥卿が解っていたことだ。過ちを起こしても埋め合わせることは出来ないことを知っていて、それでも謝罪し悔い改める必要があると言って、私の家に来て頭を下げてきた。
その時の姿が頭から離れず、何故か鉄道の職に関わり続けた。
昭弥卿がチェニス田園都市株式会社を起業した時、何故か社員に応募してしまったのもそれが理由なのだろう。
大臣が変わって以来、上司が変わり出鱈目な指示が増えたことと、徐々に増えていく労働団体の組員が行う団体交渉で国鉄の職場が殺伐としてきた事に嫌気が差していたのも理由だ。
夫を殺してまで鉄道を広める必要があるのか知りたいというのもある。
そして子供達も多くは鉄道関連の職業に就いている。
遺族枠で職員に採用されたお陰で子供達は独立できている。いやだからこそ鉄道の将来があるかどうか私は知りたいのだろう。
「ふうあ」
社宅である一室で私は起き上がる。
子供は独立しており、今は余所で住んでいる。
生まれて初めての一人暮らしで最初は戸惑ったが、慣れてみると中々快適だ。
会社が提供してくれたワンルームの社宅は十分に広い。最初の社宅、王国鉄道時代の社宅など家族七人が同じ面積の部屋で過ごした。そのことを思えば環境が変わったことを実感する。
隙間風の吹き込む酷い掘っ立て小屋で夫と二人暮らした頃と比べれば、コンクリートで作られていて密閉性の高い部屋の何と快適なことか。
トースターでパンを焼き、水道から水を出しヤカンに入れてガスコンロにかける。
これまでなら外に出て井戸から水を汲んできたり、薪を割ったりと大変だった。高層マンションと称する建物を作るために導入されたシステムだそうだ。
確かに十階まで水を担いで上り下りする必要が無いのは良い。
特に電気とガスのお陰で薪を使わず、火を起こす必要も無いのが良い。火を使って煤や煙の匂いが服に付かないし、髪が焦げることもない。
その意味では本当に幸せな世界だ。
こんな素敵な部屋に収入の六分の一の家賃で、楽に暮らせるのは有り難い。
家賃は収入の二分の一に抑えるべきと世間では言われているが、ガス水道電気の料金を考えると、三分の一以内に抑える必要がある。その意味でも家賃が安いことは本当に有り難い。
食事を食器を洗って片付けると出勤着に着替えて、エリカは職場に向かう。
「戸締まりよし」
エレベーターに乗り込み一階に下りると、救急隊だっただろうか、彼等が担架を持って階段を駆け上がっていく。
「何かあったんですか?」
同じ社宅に住んでいる知り合いに尋ねる。
「何でもガスの元栓を閉め忘れて亡くなったみたい。貴方も気を付けてね」
「気を付けていますよ」
ガスは確か石炭を空焼きして出てくる一酸化炭素を使っていると聞いた。このガスは有毒なので使用時以外は元栓を閉めるように入居時に注意された。
薪の用意に比べれば、元栓を閉めておくだけなので非常に楽だ。
だが楽すぎて閉め忘れてしまうことも多々あり、私は再び間違いを犯さぬように気を引き締めた。
社宅を出て、バス停に向かう。
専用道を走るためバスの時刻は鉄道並みに正確だ。定刻通りに到着したバスの運転手に会社から支給された定期を見せて乗り込み最寄りの駅へ。
駅に近づくとバスは急坂を上がって行く。駅の改札の上に降り口が設置されており、バスから降りた乗客は階段を降りるだけで改札口へ行ける。
「おっと、クリーニング店に出さないと」
駅ビルの中は多数のテナントが入っている。
特にクリーニング店であるホワイト・クリーニング社は田園都市株式会社社長との間でトラブルがあり、その償いのために全駅にテナントを設置することになったとか。
大臣・総裁の辞任など、意外と脇の甘い昭弥卿である。もっとも功績が大き過ぎて失敗も霞んでしまうが。
ともあれ独り身としては洗濯物を片付けてくれる店の存在はありがたい。その時間と労力を労働に当てられる。
改札で改札鋏を高速で動かしている駅員に定期を見せてホームに向かう。切符で入る乗客に備えて必要が無くても改札鋏を常に開閉している。
ただ慣れの具合にもよるため、ベテランならチチチチチと一定のリズムで刻めるのに対して、新人だとカチカチと間が空くような音がしている。
因みに全ての切符鋏は昭弥卿が転移したときに持っていた切符鋏が元になっており、昭弥卿曰く川口市の由緒ある工場で作られた一級品だと言っていたのを見た。
昭弥卿にとってはレアな剣と同じ高価な物なのだろうか、と考えたがどうでもいいことなので深く考えない。
やって来た都心に向かう電車に飛び乗る。
朝のラッシュ時には二分間隔で電車がやって来るために時間を気にする必要はない。
そして車内は常に座席が空いており座る事ができる。
「満員電車など鉄道会社の恥」
と社長の謎の主張にをしたため、田園都市鉄道では乗客が座って乗車出来るよう列車の数を増やしている。
チェニス都心に向かう途中四〇駅ほど間にあり、各駅停車に乗れば八〇分も掛かってしまう。
『ご乗車中の皆様に申し上げます。この列車は次の駅で急行に種別変更いたします。途中駅には止まりませんので注意下さい』
車内放送を聞いて私は安心した。
田園都市鉄道ではラッシュ時には一つか二つ目の急行停車駅で各駅停車から急行へ種別変更が行われるようにダイヤが組まれている。
そのため電車を乗り換えることなく四〇分ほどで目的地に到着出来る。
乗り間違えると悲惨なことになるが、慣れていれば中々に快適だ。
会社近くにあるターミナル駅に到着し、電車を下りる。
幅一二メートルの大きなホームに幅六メートルの階段があり、大勢の乗客が降りても渋滞なく余裕で歩ける。
階段を上り、改札を出て、さらに地下商店街を通って、勤め先であるチェニス田園都市株式会社本社へ。会社の玄関が地下通路と繋がっているため地上に出ること無く、職場へ行くことが出来るので雨に濡れずに済むのが良い。
私はいつものように更衣室で身なりを整えて職場に向かう。
今の会社に入って最初に配属されたのは電話交換手だった。だが最近では、ホワイト・クリーニング社製の自動電話交換機が導入されており、電話交換手の仕事は減って行き、やがて全廃となった。
そのため近年増えてきたタイプライターを操るタイピストへ私は転属になった。
最初こそ一本指で押していたが、慣れてキーの位置を覚えると手元を見ずにタイプが出来るようになった。
思いがけない難関は、社長から渡される原稿の文字が誤字脱字悪字で読みづらいことこの上ないことだ。
昭弥卿は多数の事業を同時並行で行っているせいか、思考が飛びやすい。
それらの間違いを指摘あるいは解読して清書するのもタイピストの役目だ。
だが本当に疲れる。
昼休みは確実に休まないと過労死しそうだ。
幸いにも本社から地下道で繋がっている地下商店街は多数の飲食店があり、食べるのには困らない。
立ち食いのピザが良いか、それとも一分で茹で上げてくれるパスタ屋が良いか迷う。
少し仕事が多いので短時間に食べられるピザにする事にした。
チーズとベーコン、キノコを載せて貰い焼き上がったピザを受け取り、半分に畳んで齧り付く。
一人前のピザはこうして挟んで片手で食べられるから便利で良い。
午後に入り、仕事を再開。再びタイピングだが、昼食の後の満腹感から眠気を感じる。だがここは我慢のしどころだ。
ティータイムでは社内の喫茶店でティーセットを貰って一息つき、体力を回復させてから残りの仕事を片付ける。
五時に終業し退社。
同僚達と地下商店街の酒場で夕食を兼ねた一杯を楽しむ。
外食は控えた方が食費は低く抑えられるのだが、給金が多い上に家賃が安く、交通費も会社負担なので貯金の分を除いてもかなり余る。
こうして外食出来るのは今まででは考えられないくらい有り難い事だ。
一々夕食の支度をする必要が無く、家事の負担が掛からないのも良い。
食事が終わると同僚と別れて、自宅近くの最寄り駅への最短電車を目指す。
『八番線当駅始発○○急行△△行きが参ります。○○より先は、各駅停車となります。ご注意ください』
前述した通り、田園都市鉄道のダイヤは急行が急行線を走った後、途中の駅で各駅停車に種別変更する。これで乗り換えを最小限に抑えている。
ただ種別変更が行われる駅を明確にするため、変更の行われる駅名を急行の前に明示している。お陰で間違える事は少ない。
何より有り難いのは、ターミナル駅始発の電車が多いことだ。
地下鉄からの直通は多いものの、どの電車も乗客が多くて座れる席が少ない。満員電車撲滅を目指す社長だが、どうしても利用者が偏ることが多く、乗客の平準化に苦労しているのはタイプする書類を見ても明らかだ。
なにより会社の顔であるターミナル駅で乗る列車に座れる席が無いのは会社の恥だ。
だが始発なら無人状態で入るようにダイヤを設定している。会社のメンツの為だが、乗客にとっては座れる席があり快適だ。
五分もしないうちに電車は発車。四〇分ほどで社宅の最寄り駅に到着する。
クリーニング店で朝に出した服を受け取り、駅にへいせつされている会社のスーパーで明日の朝食の材料を買ってから、階段を降りてバスの乗り口へ。
バス乗り場は改札口の下の階にあり、バスは三階の降り口で乗客を降ろした後一階の乗り口へ移動してきてくれる。お陰で利用者は階段を降りるだけで空いているバスに乗ることが出来る。
すぐにやって来たバスに飛び乗り、社宅最寄りのバス停へ。
社宅近くの停留所でバスを降りて社宅に向かう。
今朝の事故の後始末は終わっている。
エレベーターに乗り込み、私は自分の部屋に向かう。
初めは高層マンションなど不便ではないかと思ったが、住んでみると中々に快適だった。
技術の進歩で便利になっていることは確かだ。
「本当にそれだけなのだろうか」
私は利便性に流されようとする自分を戒めベッドに入った。
快適な町の生活に見えるが、全て田園都市株式会社が用意したものであり、鉄道が発展するように居住者を囲い込むための手段。
鉄道の為に快適な生活空間が用意されたと言って過言ではない。
まだ鉄道が本当に良いものかどうか、見極める必要がある。
だからこそ、今後もこの会社で働き続けようと私、エリカは考えた。




