第2章 双子の時間
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※該当タグ:宗教、学問、悪魔、ほのぼの、姉妹、暴力、飢餓、犯罪
明け方、子供たちがまだ眠りの中にある頃、夏の日に窓辺で揺れ、風景を淡く透かす薄い白布のように、夜の名残の中を漂い、空の色を淡く透かす薄い白雲が、空全体を覆い、夜明けの一瞬の輝かしい空の色を透かして、朝日を浴びて金色に輝き、霧のように微細なごく短い雨を地上に降らせた。庭園の草木の葉の上で、小さな珠となったその滴は、丸みを帯びたその内側に朝日を包み込んで煌めき、太陽の光が夜の冷たい空気を少しずつ温めていくにつれ、葉の上の珠は、一つ、また一つと小さくなっていき、やがて消えた。ちょうど、夜が訪れ昼の温かい空気が少しずつ冷やされていくにつれ、夜空の星が、一つ、また一つと輝き出すのとは逆のように。そして、子供たちが目を覚まし始める頃、庭園は、消えていった雨の滴、その一つ一つの残した豊かな空気、温かく湿った生命力豊かな空気に満たされていくのだった。この庭園は、雨上がりの日は特にそうだが、四方を建築物に囲われているため風の動きが穏やかで、いつでも、女の吐息のように温かく湿った居心地の良い空気が保たれていたのだった。庭園の中央にある噴水には、小鳥たちが集まり、橙黄色の嘴を水面に浸けて水を飲んでいて、彼らは、子供たちの朝の支度の物音が聞こえ始めると、機敏な動作で顔を上げ、複雑に首を捻って周囲を窺い始めた。時折、彼らが小さな身震いを起こす度、彼らの羽の隙間から雨滴が飛び散り、彼らの姿を、生命力に満ち溢れて美しく見せ、その姿は、天の国にいるとされる知性ある鳥、人語を用い、神秘を解す、善行を積んで天の国に導かれたとされる前世は人間であった鳥のようですらあった。彼らは、子供たちが部屋の扉を開けて姿を現すと、慌ただしく飛び立って屋根の上に止まり、しかし、決して遠くに飛び去ってしまおうとはせず、そこから子供たちを俯瞰した。彼らは、何かを待ちわびるような澄んだ瞳を浮かべ、子供たちが回廊を辿って礼拝堂の方へ歩いて行き、その手前にある食堂の中へと入って行くのをじっと見つめていた。
今日も、いつもと変わらない、いつまでも変わることなく繰り返されるかに思える、子供たちの穏やかな一日が始まる。
その日の朝食は、胡桃のパンと野菜のスープで、飲み物は牛乳だった。乾き物の混じったパンの苦手なリサとロサは、もそもそと時間をかけてそれを食べ、リサは、一齧りごとに苺のジャムをたっぷりと塗りたくってそれを食べ、ロサは、小さくちぎったそれを野菜のスープに浸して食べ、最後は、ふたりとも、牛乳を飲んで喉の奥に流し込んだ。
食堂の隅の方では、彼女たちと同じように、カヤが、他の子供たちよりも遅い食事を続けていて、しかし、彼女の場合は、彼女たちのように好き嫌いの問題という訳ではなく、それは、彼女の歪んだ手の抱える困難さによるものなのだった。
最初、彼女の前には、他の子供たちと同じ食事、同じ食器が運ばれてきたが、彼女は、食事が始まってもすぐにはそれを食べようとせず、どこか困惑した表情でそれを見つめ、両手を膝の上に載せた律儀な姿勢のまま、じっと席に座っているだけなのだった。昨日、夕食の前に、食欲がない、と言って自室に引きこもり、昼に彼女が持参したパンを食べて以来、何も口にしていない彼女が、お腹が空いていないということなどある筈なかったが、彼女は、まるで、肉を前にした草食動物か、草を前にした肉食動物のように、目の前の食事を食べることができないでいる様子だった。そして、彼女の前の席に座り、誰よりも早く食事を終え、誰よりも早く彼女の様子に気づいたプッシーが、そのことを修道女に伝え、彼らは、彼女の歪んだ手では、固いパンを上手くちぎることができず、細いスプーンを上手く持つことができないのだという、当たり前のことに気づいたのだった。修道女が、彼女のパンを一口大に素早くちぎり、彼女の手にスプーンを紐で括りつけている間、彼女は俯いて無気力にそれを受け入れていて、それが終わると、不安定に括りつけられたスプーンを使ってスープを飲もうと何度か試みたが、やはり、上手くはできないのだった。腫れ上がって丸みを帯びた彼女の手には、真っ直ぐで固い金属の食器は馴染まない。彼女は、意識した頑強な無表情で、不安定に揺れるスプーンでスープを掬い、口に運ぶ途中でその全てを溢し、啜るために窄められた唇を虚しく噛み締めるという動作を頑なに繰り返した。やがて、朝食を終えた子供たちが、彼らの食事から、むしろ、カヤへと密かな注意を向けるようになると、彼女は、いたたまれなくなったかのように、食事の乗ったトレーを器用に腕の上に乗せて運び、隅の方の空いている席に移動してしまったのだった。子供たちは、皆、心配そうな表情を浮かべ彼女を気にしていて、彼女のためにできることがあれば何かしてあげたそうな様子だったが、成すべきことを見つけられないでいる様子でもあった。健康な手を前にした時の、怯えを伴った彼女の強い拒絶。彼らは、皆、それを知っていたため、動こうにも動けないのだった。カヤの場合、彼女の心を焦って開かせようとし、強引な関わりを試みることは、返って彼女を怯えさせ、彼女の心を閉ざすことになってしまうだろう。リサとロサはそう考えていて、どうやら、ヘトロも同様にそう考えていたらしく、カヤに気づかれないよう、彼女とはゆっくりとした関わりを試みようと、他の子供たちに内密に伝えていたのだった。リサとロサは、そのことを、昨夜、部屋を訪ねてきたヘトロの口から聞き、彼と一緒に、手分けして他の子供たちの部屋を回ったのだった。彼女たちは、ヘトロを見て、彼は、彼女たちの視線に小さく頷きを返し、慎重な、機会を図ったやり方で静かに席を立ち、カヤに近づいて行くと、何かできることはないかと、落ち着いた声で尋ねた。カヤは、彼の方を向くことなく、無言で首を振った。ヘトロは、それを受け、子供たちに軽く目配せし、小さく首を振って見せた。子供たちは、それを受け、食事を終えた子から順に、いつものように食器を片付け食堂を出て行った。そして、ヘトロは、子供たちの中で最も食事の遅れていたリサとロサに、カヤのことを気にかけてあげるようにと頼んだのだった。
カヤは、食堂に子供たちが少なくなってから、手に結び付けられた紐を歯に挟んで器用に解き、手というよりは、むしろ手首の辺りで食器を挟んで持ち上げる食べ方、それがおそらく普段の彼女の食べ方であり、同時に、他人にはあまり見られたくないであろう食べ方で、小さくちぎられた胡桃のパンを野菜のスープの中に落とし入れ、慣れた様子でそれを食べ始めたのだった。彼女も、自分たちと同じで乾き物の混じったパンが苦手なのだろうかと、リサとロサが彼女を見つめ考えていると、彼女は、その視線に敏感に気づき、食事を中断し、両手を膝の上に乗せてテーブルの下に隠してしまうのだった。彼女が他人の視線に敏感である、ということは、リサとロサが気づいた彼女の特徴の一つだった。そして、彼女が他人の視線に敏感であるということ、それが、彼女の歪んだ手、それ自体を根本的な因子とすることが間違いない以上、彼女を見ることは、そのまま彼女を傷つけることとなりかねない。そう彼女たちは考え、彼女から視線を逸らし、殆ど空になったコップを傾け、底に溜まっていた牛乳の僅かな一滴を舐めとった。
やがて、食事を終えたカヤは、修道女に連れられて食堂を出て行き、昨日に引き続き、子供たちの暮らすこの場所、庭園とそれを囲む宗教建築物からなる教会の施設、アカデミア教の教会の施設の案内を受け始めるのだった。リサとロサは、食堂を最後に出る子がいつもそうすると決まっている通りに、テーブルを拭いて、それから、慌てて彼女の後を追った。彼女は、彼女たちから少し離れた廊下の先を修道女の後ろについて歩き、修道女の案内に耳を傾けていた。この場所で暮らす子供たちは、皆、最初の数日は、こうして、修道女からこの施設の案内を受け、神父からアカデミア教の教義の基本的な内容を教わりもするのだった。そして、最終的には、自分らが選ばれた黄金の子供たちなのだという自覚を持つに至る。もっとも、教義の基本的な内容については、日々の生活の中で、誰もが自然と知るところとなるのではあるが、ここでは、子供たちの自覚のために、丁寧に一から説明がなされるのだった。カヤは、修道女の言葉に真剣に耳を傾けている様子だった。おそらく、もう、リサとロサが成すべきことはないだろう。彼女たちは、立ち止まって彼女を見送り、彼女と同じように、初めてここに来た日、神父から受けた説明のことを思い出した。それは、神であるアカデミウスと、《混沌の怪物》の話だった。
神であるアカデミウスが、この地に生誕する以前の世界、そこは、全ての境界が曖昧な混沌の世界であり、人々の生と死の境界は曖昧であり、男と女の性別の境界は曖昧であり、その他、ありとあらゆるものの境界が曖昧な世界であった。例えば、そこでは、死に臥した野晒しの死者が、突如起き上がって、腐乱した身体で生者の如く歩き回る、ということも少なくなかったため、人々は、死者の手足を厳重に縛り、屈葬によって死の状態を固定化しようと試みていた。ちなみに、現在の人々が、神に祈りを捧げる時に手を組み合わせるのは、死者の両手両足を縛り屈葬する慣習とその様子の延長として派生したものである。そのため、正式な祈りの方法は、跪いて身を屈め、手を組み合わせ、肘まで合わせた格好なのであるが、これは、その姿勢の窮屈さから、現在ではあまり用いられない場合が多く、リサとロサも、余程の公式の場でない限り、省略形の祈りを用いるのが殆どだった。アカデミウスは、そのような混沌の世界において、そこに存在する様々なものに、名付けと分類を行い、曖昧なものに明確な形を与え、この世界を形作ったのだった。また、アカデミウスは、生まれた時に、自ら「我が名は、アカデミウスである」と名乗ったのだと伝えられている。後に神となる者の誕生譚に、このように通常では有り得ない特殊な事態、異常性を付与するというのは、アカデミア教に限らず、古今東西の様々な宗教の常であるが、自らの名を、誰かから名付けられる前に、自ら名乗る、ということは、アカデミア教において、神の権威を保証するために、極めて重要な位置づけの逸話となっているのである。すなわち、アカデミウスは、混沌の世界において、ただひとり、初めから、自らの名を持ち、自らが何者であるかを知る、明確な形を持った存在だったのである。そして、成人したアカデミウスの下には、混沌の世界に怯え、明確な形ある世界に希望を見出した多くの人々が集まった。彼らは、アカデミウスの名付けと分類を共有し、アカデミウスに認められた者から順に、名を与えられもした。この時、人は、初めて個人という概念を獲得したのだとされている。しかし、そのように、いくらアカデミウスの名付けと分類が普及しても、時として、例えば、犬である生物を誤って鳥だと言ってしまう者が中にはおり、すると、先程まで犬であった生物は、突如、犬と鳥の雑種であるような奇妙な生物に変貌してしまい、混沌が舞い戻って来てしまうことがあるのだった。そのような場面でも、アカデミウスは、過ちを犯した者を咎めたりはしなかった。アカデミウスは、彼がそのように犬を鳥と間違えてしまうのは、彼自身に問題があるのではない、と考えていたからであった。そして、アカデミウスは世界中を旅し、ついに、混沌を生み出しているものの正体、《混沌の怪物》を見つけ出したのだった。アカデミウスは、《混沌の怪物》を倒そうと剣を抜いたが、怪物は明確な形を持たない存在であったため、アカデミウスの振るう剣は虚しく空を切った。そこで、アカデミウスは、《混沌の怪物》を倒すために、怪物に問いかけを始めたのだった。アカデミウスが「お前は何者だ」と問うと、怪物は「私は混沌だ」と答え、アカデミウスが「お前の鼻はどんな形だ?」「お前の口はどんな形だ?」と次々と問いかけていくと、怪物はそれらに答え、ついにはその姿を明らかにし、アカデミウスは、「お前はもう混沌ではない」と言って、怪物に剣を突き立てて倒したのだった。また、この時のアカデミウスの問いかけの順序は、鼻、口、目、耳であったとされ、それは、真横から顔を見た際の、前から後ろに各部位が並んでいる順であり、こうしたところに、アカデミウスの順序立てて考える論理的な性格が現れているとされている。しかし、アカデミウスは、そのまま《混沌の怪物》を殺してしまいはしなかった。アカデミウスは、《混沌の怪物》に、「混沌」と名付けと分類を行い、この世界に存在することを許したのだった。だから、アカデミウスが神と呼ばれる存在、この世界を外側から観察し、この世界を名付けと分類の下に置き続ける存在となって、人々の前から姿を消した後、人々は、何かよく分からない未知のものに出くわした時、アカデミウスがそうしたように、こう問いかけるのだ、「お前は何者だ」と。やがて、神であるアカデミウスの教えを守るためにアカデミア教が生まれ、各地に教会が建立されると、教会は、本来なら神がこの地に残って行うべきであった仕事を代行するための機関として位置づけられるようになった。例えば、その一つとして、世の中に存在する様々な恐ろしい出来事、戦争、貧困、飢餓などを、それらを司る悪魔に仮託する形で定義づけ、可能な限りそれらを防止するという役割があり、それは、正にアカデミウスが混沌から世界を救った時の方法、混沌を、それを司る怪物に仮託する形で定義づけ、名付けと分類によって自らの支配下に置くという方法なのだった。時代によって、教会によって定義される悪魔の数は前後するが、最後の悪魔はいつの時代も変わらず決まっていて、それは、通し番号として未知数を充てられた悪魔《忍び寄る不可知の厄災》であり、それは、名付けと分類がまだなされていない、静かに進行する恐ろしい出来事が常にある、という訓戒を示しているのだった。そして、その姿は、絵画などに描かれる《混沌の怪物》の姿と瓜二つなのであった。
リサとロサは、この話が好きだった。彼女たちは、何か疑問に思うことがあった時に、それについて考えるのが好きだったし、何か不思議なものを見つけた時に、それを観察するのも好きだった。そうした時、問いを投げかけることで問題の解決を図る、というアカデミウスが《混沌の怪物》を倒した時の方法が、とても役に立つのだ。また、彼女たちは、この場所で暮らす読書好きの少年に、本の挿絵の中の《混沌の怪物》を見せてもらったことがあるが、顔のない太った豚のようなその姿が実に奇妙で滑稽で、それ以来、この話がもっと好きになった。「お前は何者だ」、そう問いかける度、彼女たちは、奇妙で滑稽な姿をした怪物のことを思い出し、どちらともなく顔を見合わせ、幸福そうに笑うのだった。
彼女たちは、カヤが修道女に連れられて廊下の先を歩いて行き、遠く小さくなって曲がり角に消えていくのを、最後まで見守っていた。混沌の状態を解消すること、すなわち、名前を知り、渾然一体の有象無象から個を区別して掬い上げること、それをきっかけにして、より一層個について知ろうとすること、それは、神の教えを引いて考えるまでもなく、とても大切なことなのだった。だから、彼女たちは、昨日、少なくとも彼女の名前を知ることができて嬉しかった。そうして、これから、少しずつカヤのことを理解していけばいいのだ。そして、いつかの日か、彼女が自分から心を開いてくれる日が来ることを、彼女たちは願うのだった。
彼女たちは、湿り気を帯びて透明感を増し、その奥底まで見通せそうな艶を帯びた石造りの階段を降り、庭園へと降り立った。芝生の隙間には、雨の滴が包み込まれ消え残っていて、歩く度に、その葉先から水滴が跳ねて彼女たちの足首の辺りを濡らし、彼女たちをくすぐったがらせた。
果樹園の傍にある藤棚の下には、年少の女の子たちが集まっていて、彼女たちの姿を見つけると、立ち上がって、微笑みを浮かべ、花を加工して作られたブローチを両手に掲げて見せた。彼女たちは、微笑みを返し、リサは小さく首を振って、ロサは小さく手を振った。女の子たちは、小さく頷いて、ひときわ大きくて綺麗なブローチを手にした女の子が「じゃあ、また明日ね!」と元気よく言い、彼女たちは「うん、また明日!」と声を揃え元気よく言った。
彼女たちは、庭園の中程まで歩いてくると、庭園を所狭しと駆け回っているであろう年少の男の子たち、ジノを筆頭にしていつもやんちゃな遊びをしている年少の男の子たちの姿を探した。彼女たちは、昨日寝坊して彼らの遊び相手になってやれなかった分、今日は彼らと遊んであげようと考え、意気込んでいたのだった。しかし、彼らは、既に彼らの遊び、小鳥たちを餌で誘き寄せ捕まえようとする遊びに夢中になっていて、いつものように他の子供たちの間を掻き分けるようにして駆け回ってはおらず、庭園の物陰に潜み、じっと動かずにしていたのだった。
彼らは、朝食の残りのパンをこっそりポケットに忍び込ませていたのを地面に撒き、その餌に小鳥たちが誘き寄せられるのを待ち構えていた。彼らは、真剣な表情を浮かべ、指先についた苺のジャムを舌で舐めたり、服で拭ったりし、しかし、視線だけは決して小鳥たちから外さず、獲物を狙う目をして上唇をぺろりと舐めていた。ところが、彼らが注意深くすればする程、小鳥たちは警戒し、決して罠の餌の傍には近寄ろうとしないのだった。仲間の男の子が痺れを切らし落ち着きなく迂闊な言動をし始めると、ジノは彼を叱責し、脛を蹴りつけて黙らせるのだった。
小鳥たちの餌やりは、プッシーがこの場所で暮らすようになってから始まった習慣で、子供たちの間で自然と当番制が出来上がっていた。いつしか、庭園には、餌を求めて小鳥たちが寄り付くようになり、すると、年少の男の子たちは、時折、彼らを遊び相手にするようになったのである。子供たちにより餌付けされているとはいえ、基本的には野生動物である彼らは、特有の勘が働くのか、餌に集まったところを捕まえてやろうと考えている年少の男の子たちが当番の時は、遠巻きに餌を眺め、子供たちが注意を逸らした隙に素早く餌を啄んで飛び去ったが、そうした特別な意図を持たない無害な子供たちが当番の時は、餌の近くに集まり、時として子供たちの掌から直接餌を啄みもするのだった。特に、今日の朝の当番のリリィ、一番年長の少女で、いつも眠たそうにしている温厚な性格の彼女が当番の時は、彼らは、警戒心のない愛玩鳥のように彼女の近くに群がり、戯れつくようにして餌を啄むのだった。
リサとロサが、リリィの方を見ると、案の定、何とも言えず、すごい状況になっていた。彼女は、プッシーの隠した方の袋を手にし、昨日の夕食の残りのパン、既に固く乾燥したパンをもたついた動作でちぎり地面に撒いているのだが、小鳥たちは、彼女の肩や頭などの全身に群がり、彼女が餌を地面に撒くのを待つのももどかしいとでもいうように、その手からちぎりかけのパンを直接啄んでいるのだ。しかも、度を越して温厚な性格をしている彼女は、それを気にするでもなく、小鳥たちを追い払うことなく、そのままごく普通に餌を地面に撒き続けているため、彼女の手元では、絶え間なく小鳥たちが羽ばたき続けているのだ。先程から、一向に獲物を捕まえることができないでいる年少の男の子たちは、羨ましそうに彼女のことを遠く見つめた。
そして、悔しがった彼らが、ジノの号令によって、一斉に彼女の方に突撃して行くと、小鳥たちは驚いて勢いよく飛び立ち、彼女の長い髪を舞い上げながら、一羽残らず遠くの空に飛び去ってしまうのだ。
リリィは、小鳥たちの突然の羽ばたきに目を瞬かせ、顔を上げ、飛び去った小鳥たちをぼんやりと眺めていたが、長い髪にまとわりついた羽毛を払い落とすと、眠たげに目を擦り、再び地面を見つめ、小鳥たちのいない地面に先程と同じ単調な動作で餌を撒き始めた。年少の男の子たちは、小鳥たちを捕まえようとする遊びを止め、別の遊びを始めた。
「あーあ、あの子たち、またあんなに小鳥たちを驚かせて、今日の昼はわたしたちが当番なのに、また寄って来なくなっちゃうよ」「本当ね、あんなに驚かせたら、しばらくは寄って来なくなっちゃう」とリサとロサは苦笑して言い、「まぁ、でも、羨ましがる気持ちは分からなくはないけれど」とリサが言うと、「小鳥、可愛いものね」とロサは言った。
「うん、リリィが言ってたんだけど、触ると、とても温かいんだって」とリサが両手の中に何か小さな生き物を包み込む仕草をし、その温かさを伝えるためにふわふわと両手を動かして言うと、
「そうなんだ、私たちが当番の時は、近くには来てくれるけど、触ろうとすると逃げてしまうものね」とロサはリサの両手の中にそっと包み込まれた小鳥の姿を想像し、その温かさを探ろうとするかのように目を細めて言い、
「触ると、どのくらい温かいのかしら」「きっと、すごく温かいよ」「そうね、すごく温かいに違いないわ」と彼女たちは言い、顔を見合わせ、微笑み合った。
「ロサが天の国に行く前に、一緒に触れるといいね」「そうね、でも、天の国に行った後でも、たくさん時間はあるよ」「そうだけど、できれば前がいいな」「うーん、前でも後でも、変わらないような気がするけれど……」「えー、全然違うよ! だって、天の国にいる小鳥って、前世は人間だったわけでしょう? だから、勝手に触ったりしたら、こう言われちゃうよ、やぁ、お嬢さんたち、人の身体には気安く触るものじゃないよ、我々は初対面なのだから、まずは、挨拶から始めたまえ、ってさ」「ふふっ、それじゃあ、こう言わなきゃね、はじめまして、小鳥さん、あなたのお名前は、って」と彼女たちは、幸福に包まれて笑った。
その時、小鳥は何と答えるだろうか、自らの生物学上の学名だろうか、それとも、人であった頃の自らの名前だろうか、そのどちらかであるかは、とても重要な問題だ、それは、天の国において、個人という概念が継続されるかどうか、という問題に関わってくるから。そう彼女たちは考え、このことを、今度、本で調べて確かめてみようと考えた。そして、一通り調べて分からなかったら、ワーニャ伯父さんに訊いてみるのだ。聖職者というよりは、学者に近い性格の彼ならば、きっと、彼女たちに良い知恵を貸してくれるだろう。彼は、何か疑問に思うことがあった時、しかも、その疑問が知識としての完結性を持つものではなく、問いの連鎖としての発展性を持つものであった場合は、人に答えを訊くより、まずは自分で考えてみることが大切だと、子供たちに教えていて、そのために役立つ物事の考え方や、言葉の使い方を教えてくれるのだった。何か解決したい疑問がある時は、そこから様々な種類の問いかけをたくさん作り出してみる、といった物事の考え方。因子、属性、階層構造、といった言葉の使い方。それら、彼から教わったたくさんのことは、彼女たちの宝物だった。そして、自分で考えて導き出した答えには不思議な力があって、一つの問いが解決すると、今度は、それが前提になって、展開的な問いが生まれもするのだ。その不思議な連鎖反応によって、最初の問いが上手く立てられた時は、しばらくの間、決して退屈することのない満ち足りた時間が続くのだった。おそらく、彼は、彼女たちに、「アカデミア教における個人の概念の在り方とは?」という、様々な問いを内包できる大きめの問いを一度経由してみるように助言するだろう。そして、その大きな問いから、それを構成する小さな問いをたくさん作り出してみるようにも助言するだろう。やがて、問いが階層構造を持ち始め、様々な問いのそれぞれの位置づけが分かってくると、いよいよ面白くなってくるのだ。彼女たちの最初の問い、「書物、特に児童向けの書物にみられる天の国における個人の概念の在り方とは?」とでもいうような問いは、問いの階層構造の中、問いの上下関係の中にやがて回収されることだろう。そして、その問いが、問い全体のどこに位置づけられるのか、ということが分かってくると、その問いの掘り下げ方が分かってくるのだ。彼女たちは、これからしばらくの間は、退屈しないで済みそうな、満ち足りた幸福な時間が続きそうな予感に上機嫌なのだった。
彼女たちは、庭園の中央にある噴水の縁に並んで腰掛けると、空に浮かぶ大きな雲の緩やかな動きをぼんやりと眺め始めた。年少の男の子たちの遊び相手になるという当初の予定が崩れ、かといって、食後の満腹感が眠気を誘うため早速調べ物に取り掛かる気にもなれない現状、彼女たちは何もすることがなく、手持ち無沙汰なのだった。だが、彼女たちは、こうした何もすることのない豊満の時間を過ごすことが嫌いではなかったし、そのやり過ごし方もよく知っていた。彼女たちは、ただ、ふたり一緒にいるだけで、何もかもが満ち足りて幸福に感じられるのだ。
噴水の縁に腰掛けていると、程よい距離で、噴き上げられた水が飛沫を上げ、かといって、彼女たちの身体を濡らすことはなく、ただ、森林の木陰にいるような清涼な空気で彼女たちを包むのだった。そこには、いつも庭園に満ちている温かく湿った空気、それとはまた別の居心地の良い空気が満ちていたのだ。それは、昇り行く太陽の、その徐々に鋭くなっていく光を背中に浴び、少しずつ身体を火照らせていく彼女たちには余りにも気持ちが良く、じっとしているだけで、時間が経つのを忘れさせる程なのだった。
だが、不意に、一抹の寂しさが彼女たちの心をよぎるのだ。今が幸福であればある程、ロサが天の国に行ってしまい、リサが現世で天の国に行くのを待つ間の、短い別れの時間、ふたりが天の国で再開を果たすまでの短い別れの時間が、とても長く寂しいもののように思えてくるのだった。
リサは、顔を仰向けたまま、噴水の縁の、その緩やかなカーブをなぞるようにして手を動かし、ロサの手を上からそっと握った。ロサは、彼女の方を向いて、しばらくその横顔を見つめていたが、再び顔を仰向け、手を翻して彼女の手をそっと握り返した。リサは、ただそれだけで、堪らなく嬉しいのだった。彼女たちは、お互いに顔を仰向けたまま、くすぐったそうな微笑を口元に浮かべ、手を繋ぎ合って空に浮かぶ大きな白い雲を眺め続けた。ロサの体温は、リサよりも少し高い。だから、ロサと手を繋ぐと、リサはいつもぽかぽかと温かいのだ。だから、リサはロサと手を繋ぐのが好きなのだった。
彼女たちの背後で、ちゃぷちゃぷと不規則な水音がして、彼女たちは揃って後ろを振り向いた。そこには、小鳥たちの餌やりを終えたリリィがいて、靴を脱いで噴水の縁に腰掛け、裸足を水の中で漂わせ水音をたてていたのだった。いつも眠たそうにしていて、動きの過度にゆっくりとした彼女は、このように、いつの間にかそこにいるということが多い。彼女は、眠りに落ちる寸前の短く途切れる不規則な呼吸音を漏らし、おそらく、今、半ば閉ざされた瞼を通して見る輪郭のぼやけた光景に、目の奥を重く、意識を鈍くさせられ、その贅沢な倦怠感に悩まされていることだろう。彼女の狭くなった視界全体には、光を鈍く反射する水面が揺らめいて映り、のみならず、それは、彼女の意識を深い眠りの底に向けて執拗に揺さぶっているに違いない。その不規則な水音と呼吸音を聞いていると、彼女たちにも、彼女の眠気が移ってくるようなのだった。
ふっ、んっ、と急にリリィが身体をびくりと震わせて声を漏らし、背筋に力を入れ全身を硬直させ、前のめりに倒れ込みそうになったのを何とか持ち堪えた。
「横になったら?」とリサが苦笑して言うと、彼女は、リサの方をぼんやりとした目で見て、「そうする……」と言って、水中から足を引き上げ、ハンカチで水滴を拭い、その場で横になってしまった。リサが言いたかったのは、自室のベッドで、という意味であったのだが、リサがそれを付け加える前に、彼女の口元からは穏やかな寝息が漏れ始め、片足を地面の方に降ろし、水面の方に落ちないようささやかな工夫の窺える危なっかしい姿勢で眠ってしまったのだった。リサとロサは、顔を見合わせ、もう一度彼女を見ると、くすりと笑みを漏らした。彼女たちは、もし彼女が寝返りを打って水面に落ちそうになるようなら、彼女を起こして自室で眠るように伝えようと、それぞれ右と左に分かれて彼女を挟んで座り、その無防備な寝顔を揃って覗き込んだ。今のところ、彼女は穏やかな寝顔をして、規則正しく胸を上下させ、寝返りを打つ様子はなかった。
彼女たちは、しばらくの間、そうして彼女の様子を眺めていたが、また顔を仰向け、空に浮かぶ大きな白い雲を眺め始めた。
青く澄み渡った空には、大きな白い雲が積み上げられたように浮かび、量感と浮遊感を併せ持った不思議な状態で、ほとんど形を変えずに、先程から、ずっとそこに留まっているようなのだった。少なくとも、リサの目にはそう見え、「それにしても、さっきから、全然雲が動かないね」とリサは、顔を仰向けたままの姿勢で言い、「動いてるんじゃないかしら、ほんの少しだけれど、北に」とロサは、同じように顔を仰向けたままの姿勢で言い、彼女たちは、しばしの間会話を止めて黙りこくり、ぼんやりと雲を眺めていた。
「動いてないと思うけれど」、「動いてると思うけれど」と、リサとロサはお互いに譲らず言い、「うーん」と揃って言い、考え込む仕草をした。そして、あっ、と何か思い付いた様子のロサが、表情を輝かせて勢いよく立ち上がると、空に向けて腕を真っ直ぐ伸ばして人差し指を立て、片目を瞑って指と雲をじっと見つめ、「ほら、やっぱり動いてる」と嬉しそうな声で言った。えー、と不服そうな様子のリサが、表情を曇らせてのろのろ立ち上がると、ロサを真似て、空に向けて腕を真っ直ぐ伸ばして人差し指を立て、片目を瞑って指と雲をじっと見つめてみた。すると、リサの片目で見る世界、彼女の人差し指の向こう側の雲が、左から右へ、北の方角へと、非常にゆっくりとではあるが、確かに動いているのが分かるのだ。その事実がすぐには受け入れられず、リサが何も言えずにいると、「ね、こうすれば確かめられるでしょ?」とロサはとても嬉しそうな表情で言うのだった。
ロサには、そういうところがある。いつだったか、庭園の中で奇妙な土の盛り上がりを見つけた彼女たちは、それを作り出しているのが虫である、という仮説を立てて、それを確かめるために地面をじっと見つめるということをしたことがある。リサは、最初の数十分ですぐに飽きてしまって、真剣に地面を見つめるロサにちょっかいを出したり、長椅子に寝転がったり、花を加工して冠を作ったりし、終いには、それをロサの頭に被せて自分自身は眠ってしまったのだが、ロサは、何時間もその作業を続け、ついには、奇妙な土の盛り上がりを作り出しているものの正体、生命を育む黄金の綿のように柔らかく瑞々しい土を作り出しているものの正体が、ミミズであることを突き止めたのだった。ロサは、眠っているリサを揺り起こし、彼女の目の前で掌を開いて見せ、すると、目を覚ましたばかりのリサの目の前では、ロサの掌の上のミミズがうねうねと蠢いていて、しかも彼女の頭にはリサの被せた花の冠が被さったままになっていて、一体、何の嫌がらせか、冗談なのかと、リサが顔を引きつらせて文句を言うと、ロサは、汗だくの顔に満面の笑みを浮かべて、やっと正体を突き止めたのだと、得意げに微笑むのだった。
今も、ロサは、空に向けて腕を真っ直ぐ伸ばして人差し指を立て、片目を瞑って指と雲を見つめるという実証的な方法で、雲が確かに動いているということを証明し、やはり、得意げに微笑むのだった。悔しがってリサが、雲の動きに合わせて自分の人差し指を動かしながら、やっぱり動いていない、と主張すると、ロサは、今度はリサの方を同じように人差し指を立てて片目を瞑って見て、指の方が動いてるよ、リサ、と言い、ふふっ、と笑い、年の離れた妹を姉が見守るような朗らかな笑みを浮かべるのだ。実際、ロサの方が姉で、リサの方が妹で、確かにその通りではあるのだが、それでも、ふたりの関係は双子の姉妹というのが正解だ。それなのに、どうしてこうも差が出てしまうのだろうかと、リサは考えた。
「もう、本当にロサは細かいんだから」「でも、ちゃんと動いているでしょう?」「動いてるけどさ、動いてるけど……、うー、何で動いてるの……」とリサは、自分の人差し指の向こう側で、雲が、左から右へゆっくりと動いて行くのを見ながら、悔しそうに言った。
「や、お二人さん、何だか、さっきから変わったことをしているね、まあ、君らが変わったことをしているのは、いつも通りのことだけれども」とヘトロが近づいてきて言い、「それは、何かの新しい遊びかい?」とふたり揃って空を見上げ人差し指を立てて片目を瞑って雲を見ている彼女たちを胡乱げに見て言った。確かに、ふたり揃って妙なポーズをしている自分たちは傍から見たら相当変だろう、と彼女たちは考えて笑い、すぐに気を取り直して、リサは、ロサの考えた雲が動いているかどうかを確かめるためのユニークな方法のことを、実際に身振り手振りを交えて得意げにヘトロに語った。
彼は、リサの隣りに並んで立つと、顔を仰向けて雲を眺め、しかし、彼女を真似て、空に向けて腕を真っ直ぐ伸ばして人差し指を立て、片目を瞑って指と雲をじっと見つめるということはせず、再び彼女たちを見て、眉根を寄せると、
「何言ってるんだ、動いていて当たり前だろう、じゃなきゃ、山みたいに雲がずっと動かずにそこにあることになってしまうぞ」
と呆れた声で言うので、彼女たちは、顔を見合わせ、全くもってその通りだと、声を出して笑い合った。
「それよりも、もうすぐ昼食だから食堂に集まろう、そして、君らの後ろの危なっかしい眠り姫を起こすんだ、彼女、今にもずり落ちそうになってるじゃないか」
と彼が、彼女たちの背後を覗き込んで言うので、彼女たちは慌てて振り返り、今にも寝返りを打って水面に落ちそうになっていたリリィに駆け寄って、彼女を揺り起こした。
✽ ✽
寝起きのため足元のおぼつかないリリィと連れ立って、リサとロサが食堂に着くと、既に殆どの子供たちが集まっていて、食事の乗ったトレーを各自の席に運び、昼食の準備を始めていた。彼女たちが、食事の乗ったトレーを自分たちの席に運び席に着くと、なぜか、彼女たちの前の席には珍しくプッシーが座っていて、微動だにせず、真剣な表情を浮かべ食事の始まりを待っていたのだった。
「あれ、どうしたの? そこ、ニコの席でしょ?」「知ってる。替わってもらったんだ」「ふーん?」とリサとロサは不思議そうに顔を見合わせ、小首を傾げると、本来のプッシーの席、今は読書好きの少年のニコが座っている席の方を見て、ぼんやりとした表情で中空を見つめたニコが、彼の前の席に座り、その様子をちらちらと盗み見ていたカヤに、急に、「その手、食べにくそうだね」と無表情で話しかけ、「あっ、ごめんなさい……」と身を竦め怯えた様子のカヤに、今度は、微笑を浮かべて、聖書の中の長い文章を暗唱して聞かせ、「えっ、え、あの……」と訳が分からず困惑した様子のカヤに、再び、ぼんやりとした表情に戻って、「その手、食べにくそうだね」と無表情で話しかけ、「あっ、はい……」と、いつも通りのマイペースさで、カヤをすっかり困惑させているのを見た。
ニコは、他人とのコミュニケーションの能力を殆ど持たない。通常、人が誰かに話しかけるという行為をする場合、視線や声の調子などで、そのことを相手に伝えようとするものであるが、彼にはそれが殆どないのだった。彼は、誰かに話しかける場合も、まるで独り言のように、ぼんやりとした表情で中空を見つめたまま、急に、無表情で話しかけるのだ。そのため、彼と付き合いの長い子供たちにとっても、彼が話しかけているのか、それとも、暗唱癖による独り言であるのか、判断するのは非常に難しいのだった。だが、その代わり彼には、優れた記憶力が備わっていた。彼は、暇さえあれば、聖書の文章、のみならず様々な本の文章を暗唱していて、一度正確に記憶した文章であれば、いつでも、どれだけ長い文章でも、正確に暗唱することができるのだった。そのため、暇を持て余した年少の子供たちは、時として、彼の傍に集まり、前振りなく始まる彼の暗唱を、物語の読み聞かせのようにして楽しむのだった。
そして、今は彼のその欠陥が、逆説的に功を奏すことがあるかもしれない、とリサとロサは考えた。他人の視線に怯えるカヤと、視線に何の感情も宿さないニコ、それは、もしかしたらカヤの痛みを癒すことに繋がるかもしれない。
現に、今彼女は、それまでの痛々しく身を竦め怯えた様子とは違い、どうしたらよいか分からず心底狼狽えた様子で、「うっ……、えっと……、あの……」ともごもごと口にしながら、周囲に助けを求めるように、忙しなく視線をきょろきょろさせているのだ。助けを求めるように、彼女が周囲を見渡す、それは、これまでの彼女には見られなかった反応なのだった。もっとも、それはそれで、まだ上手く馴染めているとは言い難いのであるが、とリサとロサは考え、しかし、ニコのおかげで、怯えを伴った彼女の強い拒絶が少しだけ和らいだことは確かなのであり、それは、彼女たちにはできなかったことなのであった。だから、彼女たちは、そのことがとても喜ばしかった。
そうこうしていると、残りの子供たちを連れてヘトロが食堂に現れ、食堂の中を見渡し、子供たちが全員揃っているのを確認すると、年少の子供たちの席の方を見て、そこに不自然な一つの空席があるのを、ほんの一瞬、もの寂しげな表情を浮かべて見た。
彼は、すぐに気を取り直したように表情を戻して、
「よし、全員揃っているようだね。今日は、昼過ぎまで寝坊するような子がいなくて大変喜ばしい」と冗談めかして言い、リサとロサをちらりと見て、子供たちの笑いを誘った。
リサとロサは、どちらともなく無言で顔を見合わせ、ヘトロを見ると、
「ヘトロー、今日はこっちに来て、一緒にご飯を食べようよー、プッシーが席を替わってくれるってー」とリサが作り笑いを浮かべて言い、「そうしましょうよ、プッシーもニコと席を替わってもらったみたいだし、たまには一緒にご飯を食べましょう?」とロサも作り笑いを浮かべて言い、彼女たちは、テーブルの下でわざとらしく足をぱたぱたやって音を立てた。
彼は、笑いを堪えるように口元を歪めて、
「ははっ、遠慮しておくよ。さて、あんまり彼女たちをからかっていると、俺は足を踏みつけられてしまうらしいからね、そろそろ食事にしようか」と話を打ち切るように言い、肩をすくめて周囲を見渡して、また子供たちの笑いを誘った。
その時、顔を俯かせたカヤが、少しだけ口元を歪め、密かに笑いを堪えているらしいのをリサとロサは見た。他の子供たちや、彼女の前の席でぼんやりとした表情で中空を見つめたニコも、そのことには気づいていないようだった。彼女は、すぐに表情を戻してしまったが、彼女たちは、とても控えめなものとはいえ、カヤの笑顔が見れて嬉しかった。それだけで、皆の前で笑いの種にされた意味があったというものだ。
「そんなことしないのにね」とリサがロサの耳元に顔を寄せて囁くと、「ね、そんなことしないのにね」とロサもリサの耳元に顔を寄せて囁き、彼女たちはくすくすと笑った。その囁きを聞いて、彼女たちの周囲の子供たちだけが、ごく控えめな笑い声を漏らした。
そして、食事の前の簡易な祈りの後、食事が始まったのだった。昼食は、パンとコーンスープで、さらにベーコンエッグがついていた。リサとロサが、フォークを使って卵を半分に切り分けると、黄身が実に良い塩梅で、固くなく、かといってとろけ出すこともなく、柔らかな半固形状をしていたのだった。そして、よく焼かれたベーコンの匂いがとても香ばしいのだ。それは余りにもおいしそうで、彼女たちは思わず感嘆の声を漏らした。
「今日の昼はベーコンエッグだね、黄身がすごくおいしそう!」「本当ね、すごくおいしそう、朝は質素だったけど、昼は豪華ね」と彼女たちは頬を緩ませて言い、顔を見合わせた。
「なぁ、リサ、ロサ、ちょっといいかい」
とプッシーが、そんな彼女たちに声をかけ、
「君たちは、僕の好物が何か知ってるかな?」
と真剣な表情で彼女たちを見つめ、質問をした。
その余りにも唐突な質問に、「プッシーの好物?」と彼女たちが声を揃えて問い返し、彼を見つめ返すと、彼は頷き、そこで彼女たちは、極めて珍しいことに、なぜか、食事が始まる前と同じ姿勢で彼が座っていて、微動だにせず、一切食事に手をつけないでいたのに気づくのだった。それは、異常事態と言っても過言ではないのだ。
「え……、どうしたの、プッシー、全然食べてないじゃない……」「お腹でも痛いの? 神父様に診てもらった方がいいんじゃないかしら……」と彼女たちは、彼の質問を差し置いて、心から心配そうな表情を浮かべ、逼迫した声で言った。
「あのね、リサ、ロサ、今は、そんなことはどうでもいいんだ」
と彼は、そんな彼女たちを冷静に突き放し、
「それより、僕の好物が何か知ってるかな?」
と真剣な表情で彼女たちを見つめ続け、再び質問をした。
「えっと、まぁ、お肉は好きだよね」「えぇ、そうね、お肉は好きよね」と彼女たちは彼の真剣さに若干怯みながら言い、「うん、そうだな」と彼は言ってしばし沈黙し、「芋の皮は嫌いだな」と付け加えて言い、そこで、「あ」と何かに気づいた様子のロサが声を上げ、「ん?」とそれが何なのか分からずにリサが首を傾げ、少ししてから、「あ」と同じように声を上げた。そして、彼女たちは、揃ってバツが悪そうな表情をした。
「お前ら、僕との約束を忘れてたろ?」
と彼は呆れたように言い、脂肪の乗った丸い肩を竦めて見せた。
「や、やだな、忘れてないよ」「そ、そうよ、忘れてないわ」と彼女たちが愛想笑いを浮かべて言うと、「ふーん」と彼は身を乗り出して言い、彼女たちの手元を覗き込み、食べやすいよう、既に半分に切り分けられた卵を見て、「そうか、それならよかった」と彼女たちを見つめ白々しく言った。
「う、うるさいな、半分忘れてただけだよ」とリサが意地を張って言うと、「半分忘れるって何さ?」と彼は呆れたように言い、「ごめんね、プッシー、すっかり忘れていたわ」とロサが素直に謝ると、「うん、まぁ、思い出したならいいんだ」と彼は語気を弱めて言った。
「じゃ、そういうわけで、約束を果たしてもらおうかな」と彼は言って、小鼻を膨らませ、彼女たちのベーコンエッグを見て唾を飲み込んだ。
「うん……」「仕方がないものね……」と彼女たちが沈んだ声で言って、ベーコンエッグの乗った皿を彼に差し出すと、彼は表情を輝かせてそれを受け取り、それから、彼女たちの分が増えた彼の食事と、彼の分が減った彼女たちの食事を、何気ない風に見比べた。昼食のメインであるベーコンエッグがなくなってしまうと、彼女たちに残されるのは、パンとコーンスープのみとなってしまうのであり、それは、朝食と比べても殆ど変わらない質素なものになってしまうのだった。
彼は、彼女たちが物欲しそうな弱々しい目をして彼の食事を見つめているのを見て、少しだけ良心の痛んだ表情を浮かべ、「半分忘れていたというのなら、」と、そこで不自然に言葉を切って彼女たちの反応を窺ってから、「半分だけで許してやる」と続けて言い、彼女たちの皿から半分ずつだけベーコンエッグを拾い上げ、ぶっきらぼうなやり方で彼女たちに皿を返した。
彼女たちは、始めきょとんとした表情を浮かべ、「いいの?」と揃って上目遣いで言い、彼が頷くと、「ありがとう、プッシー」とロサがはにかんで言い、「なんだか、優しすぎて逆に怖いな……」とリサがぽつりと漏らし、「じゃあ、リサの分は全部もらう」と彼が言って素早く手を伸ばすと、「ああっ、嘘、嘘、冗談だよ!」とリサは言って彼の手が届かない位置に素早く皿を移動させた。
「まったくもう」「あはは、だって、プッシーにしては意外だったから」「最近の僕の方針なんだ。食事は、楽しい方がいい。専有したってなんにも楽しいことなんてないからね」「ああ、なるほど! 貯蓄が十分にできたから、という訳ね!」とリサが納得したように言って、自分の二の腕を摘んで彼と比べれば殆どついていないと言える僅かな贅肉を揺らして見せ、「やっぱり、リサの分は全部もらっておけばよかった」と彼が顔をしかめて言うので、ロサはくすくすと笑った。
「まったく、お前らは本当に忘れっぽいな、念のため監視に来てよかったよ」とごく短い時間で既に全ての食事を平らげた彼は、口の周りをべとべとに汚したまま言い、脂肪の乗った丸い手の甲で口の周りを拭い、食事を終えた子供たちがいないか、彼らの食べ残しを逸早く回収するため、素早く周囲を見回し始めた。
「プッシーだって忘れっぽいじゃん」「そんなことはない」「そうだわ、それなら、今日の朝食の分をどこに隠したのか、思い出してみてくれない?」とロサが言うと、彼は、彼女たちの方に向き直り、むっとした表情を浮かべ、「そんなこと言って、君たちは、今日の昼が自分たちの当番だからって、探す手間を省いて楽がしたいだけなんでしょ?」と言って、その質問を突っぱねた。
「ふふっ、残念、バレちゃった」とロサが言い、「本当は忘れたんでしょ?」とリサが続いて言うと、「忘れてない、でも、お前らには教えない」と彼は頑強に言い、「あのね、本当は僕は、僕の食料を小鳥たちの餌にすること自体が不服なんだ。食事の後でお腹が空いたら、どうしてくれるのさ?」と彼は熱弁し、「いつも持ち歩いている分があるじゃない」とリサが言うと、「それがなくなったら、どうするのさ? 第一、それを君が言う?」と彼は聡く言い、「うっ、それを言われると痛いところがあるけれど」とリサは言い、墓穴を掘ったことを後悔した。
「でも、あなた、リリィには隠し場所を教えてあげているじゃない、私たちにも教えてよ」とロサが言うと、「まぁ、そうなんだけどさ……、なんというか、彼女の場合は特別だよ。だって、彼女、あんまりにものんびり屋なんだもの。彼女、探すのが遅いから、たまに丸一日探してることもあるんだ。それを知ってると、不憫になってさ」と彼は言い、「じゃあ、わたしたちも、もっとのんびり探そうかな、そうしたら教えてくれる?」とリサが言うと、「いやいや、君たちは気張って探しなよ、彼女みたいに、やろうと思ってもできない訳じゃないんだからさ」と彼は言い、肥えた身体を椅子にもたせ掛け、最後に大きなゲップをした。
「いいよ、もう! プッシーの隠し場所は大体見当がついてるから、すぐに見つけて小鳥たちの餌にしてあげるから」とリサが不貞腐れたように言うと、「ふん、好きにするといいさ、そういう決まりになっているものは、しょうがないんだからな」と彼も不貞腐れたように言い、視界の端に、食事を終えた子供たちの姿を目ざとく見つけ、彼らの食べ残しを回収するため、素早く席を立った。
ややあって、彼は、彼専用の布の袋を子供たちの食べ残しでぱんぱんに膨らめ、一仕事をやり終えたような清々しい顔つきで席に戻ってきて、椅子にもたれ、深く長い満足げな息を吐いた。
それから、彼は、不意に真面目な顔つきになって彼女たちに顔を寄せると、
「それにしても、カヤは物静かだな、この先、うまく馴染めるのか、少し心配だよ」
と小声で言い、心配そうな表情を浮かべ彼女をちらりと見た。
カヤは、食事が始まってから、誰とも一言も喋っていなかった。彼女が誰とも一言も喋っていないことが分かっていたため、会話をしやすい雰囲気を作ろうと、殊更、多弁になっていたというところが彼らにはあったのだが、そのかいなく、彼女は黙々と食事を続け、ついに、食事中一度も喋ることがなかった。ただ、彼女の身辺状況にいくつかの改善がみられるのも確かなのであり、その快適さが、彼女の食事を寡黙なものにさせた、とも考えられなくはないのだが。彼女の食事と食器は、朝食の時と違い、パンなどの固形物は最初から小さく切り分けられていたし、スープなどの液状物は平皿ではなくマグカップに入っていた。その工夫は、朝食の時、彼女の前に座り、誰よりも早く食事を終え、誰よりも早く彼女の様子に気づいたプッシーの提案によるものだった。それは、食べることに対する彼の執念の生んだものなのだと言えるだろう。彼女の細く短い指でも、小さく切り分けられたパンを摘み上げることはできるし、マグカップの取っ手に指を通して絡めることはできるのだった。しかし、彼女がそれらの行為を他人に余り見られたくない、と考えているのは変わらないことらしく、少しでも視線を感じると、彼女は、両手をテーブルの下に隠してしまうのだった。そうしたことから鑑みるに、カヤをめぐる物質的な問題点は解消されつつあるが、カヤをめぐる精神的な問題点は依然として解消されず、カヤの方は子供たちを拒絶するところがあるし、子供たちの方はそれを払拭する機会を掴みそびれているところがある、というのが現状なのだろう。
「そうだ、君に、これをあげよう」と、先程まで、コーンスープをスプーンでかき回しながら、微笑を浮かべて、聖書の中の極めて長い文章、「天の国、地の国の様相」について記された文章を延々と暗唱していたニコが、急に、ぼんやりとした表情に戻って、そう無表情で誰かに話しかけ、それまで、彼の暗唱を聞き流していたため、その誰かが自分のことだとは気づかない様子のカヤに、再び、ぼんやりとした表情のまま、「君に、これをあげよう」と無表情で話しかけ、彼女の皿に彼の食べ残しのパンを乗せ、「え?」と突然のことで事態がよく飲み込めていない様子のカヤに、「あ、そうか、そのままだと食べにくいね」と無表情で言って、彼女の皿から一旦パンを回収すると、「ごめんね、ほら、これでいいかな」と無表情で言って、彼女の皿に小さくちぎったパンをもう一度乗せ、「あ、あの……あたし、もう、お腹……」とおそらく既に満腹であるため、それを断ろうとしている様子のカヤに、「たくさん食べて、元気を出すんだよ、これまでは、いろいろ、大変なことがあったんだろうけれど、ここでは、そのことを気に病む必要なんてないんだから」と無表情で言って、それから、意識して見なければそうだと分からないくらいの、極めてささやかな、優しげな微笑を口元と目元に浮かべた。
カヤが、そのささやかで優しげな微笑に気づいたのか、気づかなかったのか、それは定かではなかったが、彼の言葉の後、彼女は、ごく短い沈黙を経て、おずおずと手を伸ばし、彼のちぎったパンを、彼女の細く短い指で摘み上げて口に運び、ゆっくりと、それを咀嚼し飲み込んだのだった。
「あ、あの……、ありが、とう」とカヤが、ぎこちなくではあるが、はっきりとそう口にすると、ニコは、ぼんやりとした表情で中空を見つめたまま、こくりと頷いた。
その様子を、子供たちは密かに見守っていたが、彼女は、それに気づく様子がなかった。それは、子供たちにとって、ちょっとした喜ばしい変化なのであった。
やはり、カヤの前の席がニコであるというのは、良いことなのかもしれない、とリサとロサは考え、今度、食事の時の席替えを提案してみようと、彼女たちは、そのことをプッシーと小声で話し合ったのだった。
昼食が終わり、子供たちが、食事を終えた子から順に食器を片付け始めると、プッシーもトレーを持って席を立ち、「あーあ、今日も僕の予備の食料は小鳥たちの餌か、ま、いいや、僕は部屋で食休みをするとしようかな」とぼやき、去り際に、彼女たちの方を振り返ると、「あと、そうだ、念のため言っておくけれど、約束は、半分果たしてもらっただけだからな、まだ半分残ってるからな、それは、次の食事の時に僕の好物が出たら果たしてもらうからな」と念を押すように言うので、「もう、しつこいよぉ」とリサは悲鳴のような声で拗ねたように口を尖らせて言い、ロサはくすくすと笑った。
それから、彼女たちは、食器を片付けて食堂を出て、プッシーの隠した方の袋を見つけて食べ残しを小鳥たちの餌にするため、その隠し場所が庭園のどこかであると推測して、それを探し出すために庭園へと向かったのだった。
「今日は、どこに隠してあるかな?」「どこかしらね、昨日の夕食の分は、食堂に隠してあったって、リリィが言っていたから、今日の朝食の分は、庭園のどこかじゃないかしら?」「そうかも、庭園の長椅子の下に、隠してあるかもしれない」「そうかも、庭園の果樹園の木の枝に、吊るしてあるかもしれない」
彼女たちは、そう楽しげに話し合いながら、これまでのプッシーの隠し場所を思いつくままにいくつも挙げ、実際にその場所を探してみたのだった。長椅子の下、果樹園の木の枝、藤棚の下、彫像の足元……。しかし、それらのどこを探してみても、その日に限って、プッシーの隠した方の袋を見つけることができなかったのだった。庭園を囲む建物の屋根の上には、小鳥たちが集まり、何かを待ちわびるような澄んだ瞳を浮かべ、そんな彼女たちの様子をじっと見つめていた。彼らは、以前よりも人に慣れてきたのか、今朝、あれだけ年少の男の子たちに驚かされたというのに、早くも庭園に戻ってきていたのだった。しかし、彼らが戻ってきていても、肝心の餌が見つからないのだ。
彼女たちは、一度プッシーの部屋を訪ね、「庭園?」「庭園」「分かった」と合言葉のように彼と短く会話をしてヒントだけ得ると、「教えてあげようか?」という彼の申し出を、「悔しいからいい」と断って、再び庭園へと戻った。
彼女たちが庭園へと戻ると、昼食後、神父からアカデミア教の教義の基本的な内容を教わっていたカヤが、修道女に連れられて石造りの階段の前に立っていて、午後からは、そこを降りて他の子供たちと過ごすようにと、促されているところだった。しかし、彼女は修道女の腰の辺りにしがみついて離れようとはせず、藤棚の下で談笑していた年少の女の子たちが、彼女に気づいて、微笑みを浮かべ手招きをすると、びくりと身を竦めて修道女の後ろに隠れてしまうのだった。まるで、この場所においては、大人たちだけが彼女の唯一の守り手であるとでもいうように。おそらく、修道女は、カヤが他の子供たちと早く馴染めるようにとの配慮から、そのようにしているのだろうが、午後からの長い時間を庭園で過ごすことは、今はまだ、彼女にとって苦痛でしかないだろう。
彼女は、修道女が日常の仕事に戻るために彼女の傍を離れてからも、しばらくの間、階段の前で立ちすくんでいて、それから、意を決したように、階段の一段一段を確かめるように踏みしめて降り、恐る恐る庭園へと降り立った。
彼女は、ひとり、庭園で過ごす子供たちのどの集団にも寄り付こうとせず、藤棚の下で談笑しながら器用に花を加工してブローチや冠を作っている女の子たちを遠く見つめ、かがみ込み、足元の花を一輪ちぎって同じように加工を試みたが、彼女の細く短い指では上手くそれを扱うことができず、やがて諦めたのか、花弁を雑にちぎって地面に捨ててしまった。
子供たちは、そんな彼女の様子をもどかしそうにちらりと見たが、誰ひとり、彼女を無遠慮にしげしげと見つめることはしなかった。孤立している者を、集団に属することで既に孤立してはいない者らが、無遠慮に見つめるということは、孤立している者の孤立を一層深め、その視線は、孤立している者の臓腑を直接かき回すかのような生々しい攻撃とすらなりかねない。ここに来る以前の生活の中で、むしろ孤立して過ごすことの多かった子供たちにとって、その生々しい痛みはカヤだけのものではなかったのである。だが、先立つ彼女の拒絶がある限り、子供たちは彼女を仲間に誘うことすらできないのだ。子供たちは、皆、カヤと仲良くなりたがっている様子だったが、そのきっかけをつかみそびれている様子でもあった。
不意に、彼女の背後に、気配を潜めて忍び寄る何者かがあり、その何者かは、彼女の首元をちぎった草の葉先で素早くくすぐった。彼女は、びくりと身を竦め、その何者かを振り向いて見た。それは、ジノだ。彼は、彼女が振り向くと、彼女の手が届かない距離に素早く逃げ出した。それは、イタズラ好きの彼にとって、一緒に追いかけっこをしようという、照れ隠しのための迂遠な合図であるのだが、彼が背後を振り返りがちに駆けて行くのを、彼女は、ただ悲しげな表情で俯いて見送り、彼を追いかけることをしなかった。彼は、駆け出した先で立ち止まって彼女を見て、彼女は、それ以降決して彼を見なかった。カヤと子供たちの間にある隔たりを、ぎこちない空白が埋めた。
彼女たちは、そんな彼らの様子をもどかしそうにちらりと見てから、しかし、成すべきことを見つけられず、再び、プッシーの隠した方の袋を探し出す作業に戻った。彼女たちは、これまで探してきた道のりを逆から辿るように、もう一度、同じ場所を入念に探し始めた。
彼女たちが、庭園の四隅に配された彫像、その周囲を回廊からロサが、その足元を庭園からリサが、それぞれ上と下に分かれて一つずつ入念に探し直していると、突然、噴水の方からリリィの悲鳴が上がり、彼女は、長い髪を垂らして項垂れ、水洗いをした後に女性がよくやる仕草、手首から先の力を抜いて両手を振って水滴を払い落とす仕草をして、全身を濡らし、「つめたい……」と力のない声で小さく呟いた。始め、彼女たちは、噴水の縁に横になり眠ってしまった彼女が、寝返りを打って水面に落ちてしまったのだと考えたが、彼女を囃し立てながら裸足で駆けて行くジノの姿を見て、事態を正確に理解した。
手足を僅かに濡らし駆けて行くジノと、全身を酷く濡らし呆然とするリリィ。何が起こったのかは明白であった。噴水によじ登ったジノが、その噴出し口を親指で押さえつけて水の向きを変え、噴水の縁に横になり眠っていたリリィに盛大に水を噴きかけたに違いない。
「大丈夫、リリィ?」
と彼女たちが、彼女に駆け寄って心配そうに声を掛けると、
「つめたい……目が覚めてしまったわ」
と彼女は、項垂れたまま、そうは言うものの、全く眠気の取れていない声で呟き、ハンカチを取り出して身体を拭ったが、それ自体が濡れていたので全く意味を成さなかった。
「あ、よかったら、これを使って」とロサが、自分のハンカチを取り出して彼女に渡すと、「ありがとう……」と彼女は、それを受け取って身体を拭い、
「こら! ジノ! 謝りなさい!」とリサが、声を張り上げて彼を叱責すると、「やなこった!」と彼は、反抗して挑発的な距離でわざと立ち止まった。
「この!」と、リサが言って彼に近づいて行くと、彼は彼女から離れ、捕まえられそうで、おそらくは捕まえられないであろう、一定の距離を維持した。ここから全速力で追いかけても、おそらく、彼を捕まえることはできないだろう、だが、このままという訳にはいくまい、とリサは考え、身体を前後に揺らしていつでも逃げ出せるよう体勢を整えている彼に向かって駆け出そうと身構えたが、彼の背後に、気配を潜めて忍び寄るヘトロの姿を見て、思わず「あっ」と声を漏らし、すぐに口をつぐんで、彼に気づかれないよう、密かにヘトロと視線を交わしながら、タイミングを図って駆け出した。
彼は、意地の悪い笑みを浮かべ身体を翻してリサから逃げ出したが、彼のすぐ後ろに控えていたヘトロにぶつかって、すぐに捕まえられてしまった。
「あっ! ズルいぞ! ヘトロ!」「知らないな、それより、お前は何か言うことがあるだろ?」と、ヘトロは彼の小さな頭を片手で鷲掴みにして押さえつけ、暴れようとする彼のこめかみに細長く力強い指の指先を食い込ませて呻かせ、半ば強引に引きずるようにして彼をリリィの前に連れてきた。
「ほら、まぁ、とにかく謝りなよ」「痛っ! 先に、手を離せよ! ヘトロ! 痛いだろ!」「それこそ順序が逆だろうが、先に謝りな」とヘトロはにべもなく言って、しかし、ため息をついてから少しだけ指の力を緩めた。
「ふん! 何も言うことなんてないね! お前らは、俺に一体何を言わせるつもりなんだ?」と彼は、こめかみの痛みに顔を歪ませながらも横柄に言い、「あ、あなたは、何でそんなに強情なの? 素直に謝りなよ……」とリサが、怒りを通り越して呆れた声で言うと、彼はぷいとそっぽを向いた。
「もう、あなた、さっきはカヤにも迷惑かけてたでしょ、後で、あの子にも謝っておきなさいよ」「あいつは、変な奴だ。おちょくってやっても、何にも反応しないんだ」「あのねぇ、ジノ。変、ということはないでしょ」と、リサとジノが、ひとり、芝生の葉先を靴の裏で撫でていたカヤを見ると、彼女は、その視線に敏感に気づき、びくりと身を竦めて怯えた様子で少しだけ後ずさりした。
「あ……」と、それまで眠たげに目を擦り、濡れた長い髪をロサに拭いてもらっていたリリィが、掌をぽんと打ち鳴らして声を上げ、「そういえば……今日の昼は……リサとロサが当番だったよね……、プッシーの袋……ジノが持っているのを見たよ」と、ふと思い出したように言うので、一同の視線が彼に集まった。
「お、おい! 今は、それは関係ないだろ!」と彼は慌てて弁明したが、誰ひとりとして彼から視線を外さなかった。
「分かった! 分かったから! 教えればいいんだろ!」と彼は投げやりに言って、噴水の傍に乱雑に脱ぎ捨てられた彼の靴の横に、中身の入った布の袋があるのを指差した。
「もー、道理で見つけられないわけだよ」とリサが言うと、「本当ね、道理で見つけられないわけだわ」とロサも言い、リサが彼の脇腹を指先で小突いて文句を言っている間、ロサは彼らから離れて袋を拾いに行き、袋と、それから靴を拾い上げて彼らの元に戻り、靴をジノに渡して、袋を開いて中身を取り出した。
カヤは、そんな彼らの仲睦まじく微笑ましいやり取りから目を逸らすように、どこか寂しげな瞳で、屋根の上で餌を待つ小鳥たちの群がりを遠く見つめていた。
ロサは、そこで、何かとても良いことを思い付いたというように、あっ、と声を上げ、ふふっ、と笑い、含みのある優しげな微笑をカヤに向けてから、パンをちぎり地面に撒き始めた。今度は、一同の視線が彼女に集まった。
屋根の上で餌を待つ小鳥たちの群がりは、彼らが飛び立つことで疎らになり、彼らがロサの撒いた餌に集まることで、再び群がりを作り出した。彼らは、ロサの手でちぎられたパンの欠片を、時折、愛らしい鳴き声を上げながら、敏捷に啄み始めた。
ロサは、彼らの全てに均等に餌が行き渡るよう、地面のあちこちに分散して餌を撒き、小鳥たちに囲まれて幸福そうな微笑みを浮かべ、カヤは、小鳥たちに囲まれて幸福そうに微笑むロサのことを、羨望と諦念の入り混じった表情で見つめていた。
そして、ロサは、不意に餌を撒く手を止め、顔を上げ、カヤの方を向いて、「ねぇ、あなたもやってみない? ほら、これ、鳥の餌」と、優しげな微笑みを浮かべて言い、手の中のパンの欠片を差し出した。カヤは、咄嗟のことで目を晒しそびれたらしく、ロサと向き合ったまま、しばらくの間、彼女の笑顔をじっと見つめ押し黙っていた。
しかし、カヤは、いつもの身を竦めて怯えた様子を見せなかった。彼女は、ただ、ロサの笑顔をじっと見つめていた。やがて、彼女は、ロサの笑顔と、その手の中のパンの欠片を交互に見るようになり、伏し目がちに警戒するようにロサを見ながら、そろそろと手を伸ばしてそれを受け取った。ロサの穏やかで優しい笑顔には、人を安心させる不思議な力がある、とリサは、彼女たちのやり取りを見ながら優しい気持ちで考えた。芋から芽が僅かに伸び出ただけのようなその手で、カヤが器用にパンの欠片を摘む。思えば、彼女がその行為を隠そうとすることなく他人に見せるというのは、今回が初めてのことなのかもしれない。リサとロサはそう考え、どうやら、他の子供たちも同様にそう考えていたらしく、彼らは、非常に注意深く彼女の動向を見守った。彼女は、しばらくの間、指先に挟まれたパンの欠片を眺めていたが、地面に目をやって、それを放り投げ、すぐに身を竦めて手を引っ込めた。
地面の上で餌を啄んでいた小鳥たちの群がりは、彼らが飛び立つことで疎らになり、彼らがカヤの撒いた餌に集まることで、再び群がりを作り出した。彼らは、先程までと変わらぬ様子で、カヤの手でちぎられたパンの欠片を、時折、愛らしい鳴き声を上げながら、敏捷に啄み始めた。その様子を見て、カヤは、遠慮がちに、少し笑った。
そして、たったそれだけのことで、カヤと子供たちの間にあった隔たりが、すっかり溶けてなくなってしまったかのようなのだ。
カヤは、自分が他の子供たちに、うっかり無防備な笑顔を見せてしまったことに気づいて、当惑の表情を浮かべ彼らを見たが、子供たちは、彼女の当惑の表情を限りない親密さを込めた微笑みで迎え入れたのだった。子供たちは、微笑みを浮かべ、そのまま彼女を見つめ続けた。なぜなら、彼らにとって、彼女は、既に孤立した存在ではなかったから。そして、それまで固かった彼女の表情は、温もりに包み込まれたかのように、とても自然に和らいだのだった。
「おい、こっちに来いよ、お前に、おもしろい遊びを教えてやる」と、ジノが限りない親密さを込めた横柄さで無防備な笑顔を浮かべて言い、カヤに手を差し伸べた。彼女は、一瞬ためらった後、おずおずと、歪んだ彼女の手を差し出し、彼の手を摘むようにして握った。ジノは、前歯の欠けた歯を見せてにっと笑みを浮かべ、丸みを帯びた彼女の手を、自分の掌に包み込むようにして握り返し、「こっちだ、こっちに、すげーものがあるんだ」と言って、彼女の手を引いて駆け出した。もしかしたら、彼は、彼女に、庭園の隅に出来た蜜蜂の巣を見せに行ったのかもしれない。その巣を小突いては蜜蜂たちから逃げ出すという彼のお気に入りの遊びに、カヤが巻き込まれなければ良いのだが、とリサとロサは、苦笑しながらも優しい気持ちで考えた。彼女たちは、カヤが、彼の野蛮な遊びに付き合わされて体中を傷跡だらけにしてしまわないかと心配だった。もっとも、彼については、ここに来た当初から体中傷跡だらけで、本人も多少傷跡が増えても全く気にする様子がないため、そちらは心配していなかったのだが。
「おーい、ジノー、お前、リリィにまだ謝ってないだろー」と、ヘトロが彼の背中に呆れたように声を掛けると、彼は立ち止まって振り返り、「ごめんよ! リリィ! もうしないよ!」と声を張り上げて言い、「まぁ……いいけれど……次回からは……もっと平和なイタズラにしてもらえると助かるわ」と、リリィが肌に張り付く半乾きの服を摘み上げて眠たげな声で言うと、彼はにっと笑い、「わかった! 次からは、もっと平和なやつにするよ!」と声を張り上げて言い、彼の隣りで控えめな笑い声を漏らすカヤの手を引いて、再び庭園を駆け出した。それを見て、年少の男の子たちが、狩りへと向かう狩猟民族の若人のように、陽気な雄叫びを上げてその後に続いた。黄金の子供たちは、多幸感に包まれ、そうせずにはいられないとでもいうように、庭園の中を笑い合い駆けて行く。リサとロサは、他の子供たちに混じって庭園を駆けて行くカヤの姿を見て微笑み、顔を見合わせ、また、微笑み合ったのだった。
そして、その夜、神父に持ってきてもらった児童向けの書物に囲まれ、隣り合ってベッドに潜り込んでいたリサとロサの元に、ワーニャ神父が訪れ、彼女たちは、ロサの最後の祈りと勤めの日が、明日に決まったことを知らされたのだった。
物語は、第3章「別れ」に続きます。