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第1章 黄金の子供たち

 この章では、子供たちの穏やかな日常の雰囲気の中に、どことなく不吉な予感のする何かがあることを、読み手に伝えることを意図しています。


 この小説では、前半と後半で、物語の雰囲気が一変しますが、この章は、その急激な変化をある程度段階的に表現するためのクッションとして設けられています。



※【縦書きで読む[PDF]】の使用をお勧めします。(画面上部)

※該当タグ:宗教、美術、ほのぼの、ダーク、姉妹

 その日、リサとロサのふたりは、揃って遅れて目を覚ました。普段通りの彼女たちであれば、この場所で暮らす他の子供たちと同じように、朝食の後、庭園に出て気ままに過ごし、木陰の下で休みながら同年の女の子たちとおしゃべりをしたり、やんちゃ盛りの年少の男の子たちの遊び相手になったりもしているのだが、その日は、夜遅くまで、隣り合ってベッドに潜り込み、修道女に教えてもらった『星めぐりの聖者の歌』についてずっと話し合っていたため、寝坊してしまったのだった。歌の中、星座にちなんだ架空の都市を巡り、その先々で奇蹟を起こして回る聖者アジマス、彼の道程が天体の運行と連動していることは間違いない、では、東から西へと星座の都市を旅する聖者が、隣接した位置にある都市を巡る場合、その優先順位を決定づけている要因は何か、というのが、その夜のリサとロサの話題だった。リサは、専ら、歌の歌詞に注目して自分の考えを話し、ロサは、主に、各星座の中心にある星の位置に注目して自分の考えを話した。彼女たちは、ベッドの中で頭まで布団を被って時間を忘れて話し込み、いつの間にか、話し疲れてどちらともなく眠り、そして、リサよりも早く目を覚ましたロサが、布団をはねのけて起き上がった時には、すでに、窓の外は眩しい午後の日差しに満ちていたのだった。瞼を通す日差しの明るさと、肩に触れる外気の冷たさに、リサも間もなく目を覚まし、彼女たちは、遅すぎる朝の支度を始めたのだった。

 彼女たちは寝間着を脱ぐと、教会から支給された白い部屋着に着替え、寝起きのリサがのろのろと寝間着を畳み、修道女が回収してくれる洗濯かごの中にそれを入れている間、ロサはベッドの脇にある机の引出しから櫛を取り出し、着替え終わったリサを手招いた。リサがベッドの端に腰掛けると、ロサは靴を脱いでベッドに上がり、リサの後ろに膝立ちになって、彼女の短い髪を手早く梳いた。ロサが髪を梳く間、リサは気持ちよさそうに目を瞑り、ロサの手付きに合わせて頭を小さく揺らしていて、ロサが彼女の肩を軽く叩くと、今度は、リサが櫛を受け取ってベッドに上がり、ロサの後ろに膝立ちになって、彼女の長い髪を梳き始めた。

 彼女たちは、よく似た、非常に整った顔立ちをしており、もし、彼女たちが入れ替わった瞬間を見逃した者がいたのなら、わずかな違和感の後に、先ほどと髪の長さが違うこと、そして、いつの間にか彼女たちが入れ替わったことを理解したろう。彼女たちは、よく似た顔立ちの双子の姉妹の通例に漏れず、一見してわかる外見上の特徴、この場合は髪の長さでお互いを区別できるようにしていた。髪の長い方が姉のロサで、髪の短い方が妹のリサであった。リサは、ロサの髪の根元のあたりを片手で押さえ、もう片方の手で長い髪の絡まりをまずは手櫛でほぐしていき、それが終わると、毛先の方からゆっくりと櫛で梳いていった。リサは、いつも通りのゆっくりとした手付きで、ロサの髪の、その艶やかな感触を楽しむように時間をかけて髪を梳き、ロサは、早く、早く、とでもいうように、ベッドのスプリングを利用して身体を上下に小さく揺すり彼女を急かすのだった。しかし、髪を梳くリサの手付きを、彼女と同じように心地よくも感じているロサは、決して抗議の声を上げたりはしないのだった。

 そして、彼女たちは身なりを整え、ロサの髪を梳き終えたリサが、ベッドから降りて靴を履くと、彼女たちは、扉を開けて部屋の外へと出たのだった。

 彼女たちが部屋の外に出ると、付近の小鳥たちが音に驚いて一斉に飛び立ち、離れた場所に降り立った。部屋の外は、午後の温かい日差しに満ちていて、彼女たちの目の前には、その光に照らし出されて雨の滴を煌めかせる、緑豊かで広大な美しい庭園の様子が広がった。この場所で暮らす子供たちは、皆、どの部屋で暮らす子供であっても、扉を開けた時、まず、この美しい光景を目にすることになる。風がそよぎ、雨上がりの湿った地面から、樹木の幹にしがみつく黒い甲虫を思わせる豊穣な匂いが漂ってきて、彼女たちの鼻腔を豊かに満たした。彼女たちは、顔を見合わせて微笑み合うと、手を繋ぎ、礼拝堂の方へとゆっくりと歩き出して行った。

 これから彼女たちが向かうのは、彼女たちと同じような境遇の子供たちの集う礼拝堂。魂に傷を負った子供たちが集い、祈りと勤めの日々の中でその傷を癒し、いつの日か、時の訪れた者から順に天の国へと導かれて行く。それまでの間、子供たちが共に祈り、共に勤め、共に生活するための場所だった。彼ら、魂に傷を負った子供たちは、その傷を負ったことがある種の必然によるものだと知っていたし、その傷を癒すための長く辛い道のりは、天の国に行くために必要なものなのだと知ってもいた。彼らは皆、自分らが選ばれた黄金の子供たちなのだと自覚していたし、この教会の聖職者たちからそのように教わってもいたのだった。

 また、子供たちの生活規則は緩く作られており、不定期に行われる宗教上の特別な祈りと勤めの他は、彼らは、毎日を殆ど自由に過ごすことができた。本を読むのが好きな子供は、教会の本堂にある図書室の蔵書から、好みの本を神父に持ってきてもらい読んでいたし、歌の好きな子供は、礼拝堂に集まって修道女に教えてもらった聖歌などを歌っていた。だが、多くの子供たちは、庭園に出て過ごすことを好んだのだし、それは、庭園の広々とした開放感とその快適さを考えれば当然のことだった。もっとも、今彼女たちが向かっているのは、庭園ではなく、礼拝堂なのであり、それは、今日の午後、子供たちで集まって聖歌の練習をすることになっていたからだった。すでに陽は高く、子供たちの歌声は聞こえず、従って、ふたりが完全に遅刻してしまっていることは確かなのだったが、彼女たちは、とりあえずそこに行くことに決めたのだった。

 彼女たちは手を繋いで廊下を並んで歩き、広大な庭園を囲む回廊の、その大理石でできた柔らかい材質の床はふたり分の靴音を小さく響かせていた。静謐さを重んじる宗教建築物の床には、人が歩行する際の雑音を排するため、このように比較的柔らかい材質の石材が用いられる場合が多い。彼女たちの小さな靴音は、反対側の回廊の壁に反響することなく、庭園の上空に広がる青空に吸い込まれて消えた。不意に、ふたりの靴音が重なり、その重なり合ったひとり分の靴音が廊下に鳴り響いた。その瞬間、何か良いアイデアが閃いたというように、リサがぱっと表情を輝かせ、隣を歩くロサの足並みに合わせ、右足を踏み出し、また次も、同じように左足を踏み出した。すると、ふたりの靴音が重なって、まるでそこにひとりしかいないかのように、ひとり分の靴音だけが廊下に鳴り響いた。それに気付いたロサが、あっ、と小さく声を漏らし、思わずといった風に頬を緩ませ、隣を歩くリサを見た。リサも、頬を緩ませロサを見ていた。彼女たちは、お互いに顔を綻ばせ、靴音を重ね合い、少しずつ早足になって行くと、いつしか駆け出し、息を切らせて、二人三脚をするみたいに足並みを揃えて廊下を駆けて行く。彼女たちは、庭園の側に設けられた、建物の重みを支えるために中央の丸く膨らんだ円柱が廊下に等間隔に作り出している薄い影を、髪を舞い上げて飛び越えたりもしながら、楽しげに廊下を駆けて行った。彼女たちは、お互いの呼吸と、足並みと、靴音が合わさるのがよほど楽しいのか、いつの間にか始まったその遊びにすっかり熱中しているらしかった。

 そして、彼女たちは長い廊下の終わり、礼拝堂へと続く曲がり角に差し掛かった。曲がり角は、内側と外側でふたりの歩幅が変わるため難しい。彼女たちは、視線を足元に落として集中し、内側のロサは歩幅を小さく、外側のリサは歩幅を大きくし、お互いに歩幅を調整して、速度を落とすことなく曲がり角を左に駆けて行った。ふたりの靴音は、曲がり角でも見事に重なり合い、彼女たちは、顔を見合わせて笑い合った。しかし、彼女たちは、そのまま曲がり角を見事に曲がりきり、ふたり揃って礼拝堂へと駆け込むことは叶わなかった。彼女たちは、曲がり角の途中で、反対側から角を曲がってきた何者かとぶつかってしまったのだった。

 その何者かは、彼女たちとぶつかると、しわがれた声で短く驚きの声を上げ、僅かに後ろによろめいて、小脇に抱えていた書物を床に落とした。その胸板は薄く、細身であったが、それでもかなりの体格差があるのか、ぶつかった彼女たちの方が大きく後ろによろめいて転びそうになってしまう程だった。彼女たちは、ぶつかった衝撃に目の奥をチカチカさせながらも、ごめんなさい、と同時に言って頭を下げて、恐る恐る顔を上げ、その人物を上目遣いで見た。果たして、そこにいたのは白髪の年老いた神父であり、彼女たちはお互いに、面倒な人物とぶつかってしまったと、嫌な予感が的中したのを内心で嘆いた。その年老いた神父は、また貴方たちですか、と床に落ちた書物をゆっくりとした動作で拾い上げながらぽつりと漏らすと、ふたりを廊下の隅に移動させ、書物についた埃を手ではたき落とした。そして彼は、ふたりがまだ手を繋いだままなのを目ざとく見とがめ、手を離して身体の横に添えるよう注意してから説教を始めた。リサとロサは、繋いでいた手を慌てて離して身体の横に添えた。

 ワーニャ神父は、この場所で暮らす子供たちの間では説教が長いことで有名な神父であり、説教の時に、いつも小難しい宗教説話を絡めてくることでも有名な神父であった。この教会の聖職者たちの多くは、子供たちに対して基本的に放任主義であったが、彼は、子供たちに対してある程度厳しく指導を行い、その際、いずれも彼は「自立」をテーマにしたような宗教説話ばかりを引いて説教をするため、毎日を自由気ままに過ごす子供たちにとっては、実に耳が痛いのだった。しかし、この場所で暮らす子供たちの中に、彼のことを心の底から嫌っている者は誰ひとりとしていなかった。彼は、確かに厳しかったが、一方で非常に面倒見が良い面もあり、親のいない、あるいは親元を離れて暮らす子供たちにとって、彼は、口うるさい父親のような存在なのだった。ある時、庭園に出て渡り鳥の生態について語る彼の指先に、小鳥が羽ばたいてきて止まった時などは、子供たちは、皆、彼のことを優しい父親のように感じて見つめたものだった。子供たちは、彼のことを、密かに「ワーニャ伯父さん」と呼んで慕ってもいた。

 今、彼は、リサとロサを廊下の壁側に立たせ、『聖トーマス伝』の中の一節「親の教えに従順な兄と、親の教えに反抗的な弟」の話を引いて熱心に説教をしているのだが、彼は、親の教えを守らずに何度も窮地に陥る弟の話をする時に、ちらりと視線をリサの方に向けた。バレているのがまた気まずい、とリサは彼から目を逸らしながら考え、すまし顔で隣に立つロサをちらりと見た。確かに、こうしたことをやり始めるのは、いつもリサの方からで、ロサはそれに巻き込まれ、リサと一緒になって説教を受ける、というのが普段のパターンなのであるが、それでも、今回に限っては、煽ったのはリサであるが、それに乗ってきたのはロサなのであり、よく考えてみれば、共犯、くらいの言い方が妥当な筈だ。そうリサは考えると、横歩きでロサの方に少しずつにじり寄って行き、彼女の脇腹を指先で小突いた。ロサも、今回に関しては自分にも非があることを分かっているためか、耳を赤くして俯くと、リサをちらりと見返して、彼女の脇腹を小突き返した。

 後ろ手にお互いの脇腹を小突き合い、話に集中しようとせずにそわそわと落ち着きなくしている彼女たちに対して、ワーニャ神父はやれやれと深いため息をつき、本当に分かっているのですか、と言い、ふたりの頭を、空いている方の手で順に軽く撫ぜた。彼は、しわがれて痩せ細った手の、その乾いた掌で彼女たちの走って乱れた髪を綺麗に整え、微笑むと、最後に、礼拝堂は逃げないのですから、走らずに行きなさい、と静かに告げて、その場を立ち去って行った。

 彼が立ち去った後、リサとロサは、しばしぼんやりとしていて、顔を見合わせ、お互いの髪が言う程綺麗に整えられている訳ではないのを見て吹き出し、しかし、そのことが逆に彼の不器用さを示しているようで温かく、少しだけ整えられた髪をそのままに、再び手を繋ぎ合い、今度はゆっくりとした足取りで、礼拝堂へと続く残り僅かな廊下を歩いて行った。


 ✽ ✽


 リサとロサが、礼拝堂に着くと、その入口には先程とは別の神父が立っていて、首を捻って、礼拝堂の中の様子を窺っているようだった。彼女たちが、彼の前に歩み出て元気よく「おはようございます、神父様」と揃って挨拶をすると、彼は、彼女たちの方を振り返り朗らかに「おはようございます、リサ、ロサ」とは言わず、「お」と言いかけた口をそのまま閉じ、口を真一文字に結んでから、ため息をついて言った。

「えぇ、本当に、おはようございます、ですね、リサ、ロサ。今は、もうお昼すぎですよ。また寝坊ですか。まったく、貴方たち以外の子供たちは、皆、ほとんど同じ時間にはここに来ているというのに、なぜ、貴方たちだけこうも遅くなるのでしょうね。いや、確かに、時間が決まっているわけではないのですが。いや、いや、騙されませんよ、ロサ。今日は昼食の後、皆で聖歌を歌うことになっていたではありませんか。ロサ、君は普段はとても素直で良い子なのに、たまに、さらりとこういうイタズラを仕掛けてきますね。嘘はよくありませんよ。嘘は。まぁ、いいです、とにかく、分かっていますね? 女神様の与えてくださったお水を飲んでいらっしゃい」

 彼は、呆れ顔でもう一度大きくため息をつくと、彼女たちの背中に軽く手を添え、礼拝堂の中へ入るよう促した。

 神父の手に促されて、彼女たちは、光溢れる礼拝堂の中へと足を踏み入れ、ロサは、リサだけに聞こえる小さな声で「バレちゃった」と囁いて、イタズラっ子のように舌を覗かせた。リサは、先程のロサと神父のやり取りを思い出してぷっと吹き出し、「当たり前だよ」と返した。

 ロサは、先程神父が言った通り、普段は「とても素直で良い子」なのであるが、彼女は、自分と親しい間柄の人に対して、時折、気まぐれのように、こうしてさりげない嘘をついて、他愛のないイタズラを仕掛けるのだった。先程のロサのさりげない嘘、「でも、神父様、私たちが礼拝堂に集まる時間は、特に規則で決まっていませんよね?」という嘘に対して、神父は「イタズラ」という言葉を使って彼女を諭したが、それは、彼女の嘘が相手を騙すための嘘ではなく、他愛のないイタズラとしての嘘であることをよく知ってのものなのだ。今日の午後、子供たちで集まって聖歌の練習をするということは、子供たちの間で周知のことなのであり、そもそも、今回のように、何かしらの連絡事項がある場合、リサとロサを含め、年長の子供たちがその連絡係となって年少の子供たちに順に伝えているため、ロサがそれを知らないということは有り得ないのだった。それは、神父にとっては、なおさらあからさまなのであり、彼にバレない訳がないのだった。ロサが気まぐれなイタズラで嘘をつく時、必ず、誰にでもそれが嘘だと分かるようになっているのである。そして、ロサは、初めからバレて当たり前の嘘を神父につき、彼がそれを指摘してくれることを実は期待し、神父は、彼女の期待通り嘆息混じりにそのあからさまな嘘を見抜き、冗談の内にそれを流したという訳だ。お互いに相手のことをよく知る者同士の、親密な日常会話。子供たちの入れ替わりの多いこの場所で、それなりに古参の部類に入る彼女たちは、神父たちや、修道女たちとの交流も長く、そのため、こうして予め相手の反応を想像しての冗談を言うこともできるのだった。そして、ロサはおそらく、本日二度目となる説教が長引きそうなのを見越して、それを早く切り上げるために、いつもの要領でイタズラを仕掛け、結果、神父の嘆息とともに早々に説教を打ち切ることに成功したのだった。

「でも、ロサのおかげで、話が短く済んでよかったよ」と歩きながらリサがにこやかに言うと、正面を向いていたロサは彼女の方を向いて「ん?」と小首を傾げて聞き返した。リサが先程の神父とのやり取りのことを説明すると、ロサは「ふふっ、そうね」と言って微笑み、「一日二回は嫌だもの」と付け足した。リサも「そうだね、一日二回は嫌だね」と言って微笑み返した。

 そうして、彼女たちは、ふたりだけに聞こえる声で囁き合い、礼拝堂の中央近くまで歩いてくると、立ち止まって不意に黙り込み、敬虔な表情をして顔を上げ、喉と顎の皮膚に下唇が引っ張られて口が小さく開くのをそのままに、どちらともなく祈りの形に手を組み合わせ、そこにある美しい女神像を仰ぎ見た。

 女神像は、非常に量感のある女性的な造形をしており、高い技術で彫られた薄い石の衣を身に纏い、重心を片足に乗せて腰をくねらせていたが、その姿は少しも性的ではなく、ただひたすら神秘的であった。女神像は、礼拝堂に訪れる者全てを包み込むかのような慈愛に満ちた微笑みを口元に浮かべていて、今、その美しい微笑をリサとロサに向けていた。彼女たちは、祈りの形に組み合わせていた手を解き、女神像に歩み寄った。女神像の足元には、清らかな水の湛えられた水場があり、その水は、女神像の抱える瓶の中から止めどなく溢れ出していた。子供たちは、この女神像の水を毎日飲むことになっていたのだった。教義の上で、信心深い子供たちの守り手であるとされる女神は、神の教えをよく守った清らかな魂の子供を天の国へと導く存在であり、この場所で、祈りと勤めの日々の先に、天の国へと旅立つことを待ちわびている子供たちにとって、聖職者たちの言い付け通りに女神像の水を飲むということは、まさに教義と結びついての実感のある行いなのであった。

だが、リサとロサは、すぐにはその湛えられた水を飲もうとせず、女神像を右手に曲がり、礼拝堂の壁側へと視線を向けたのだった。その一面には壮大な宗教壁画が描かれていた。女神像の視線誘導、女神像は、礼拝堂の入口から見て右手、左側にその視線を僅かに逸らし、右腕を上げて左腕に瓶を抱え、腰をくねらせたその身体のラインは、女神像を見上げるべく視線を上げた鑑賞者の視線を左上から右下に誘い込んでいた。それらの指し示す方向に足を運ぶなら、鑑賞者は自然と反時計回りにこの空間を回ることになる。この礼拝堂に足を踏み入れた者は、例え初めてであったとしても、皆、誰に教わるともなくそうする。壁画は、宗教説話の物語を場面ごとに区切って描かれたものになっており、女神像の視線誘導に従うことで、鑑賞者は、自然と、物語の始まりの場面から順に鑑賞できるようなっているのだ。壁画の最初の場面には、家畜を連れた貧しい少年の姿が描かれていた。リサとロサは、それを見上げ、女神像を中心に礼拝堂を反時計回りに歩いて行く。

壁画に描かれた説話の少年は、貧しい家に生まれ、親から捨てられ、その際、病気で役に立たなくなった数匹の家畜を親から与えられた、彼は、寄る辺なき旅の先々で、悪人に騙されて酷い目に遭ったり、飢えをしのぐために病気の家畜の乳を飲んだりし、最後には、その家畜に病を移されて死に瀕するのだが、彼は、いかなる時も神の教えに忠実だったため、女神に導かれて天の国へと旅立ち、幸福になったのだと、リサとロサは神父たちから教わっていた。また、彼女たちは、宗教建築物の中にある壁画は、壁画単体で見てはならないということも同様に彼らから教わってもいた。壁画は、宗教建築物という空間の中にあり、その空間の中にある他の美術品や装飾品との関連性の中で捉えられなければならないのだ。礼拝堂の壁一面には壁画があり、その中央には女神像があった。つまり、説話の世界観が展開されたこの空間の、その中心に位置するのが女神像だという訳だ。この礼拝堂に足を踏み入れるということは、女神像を中心に展開された説話の世界観そのものの中に入り込み、身体全体でそれを体験するということになるのだった。リサとロサは、いつも、女神像の水を飲む前に、こうして壁画を見上げて礼拝堂を一周し、旅をする貧しい少年の傍らに共にあるかのような気持ちで歩くのだった。彼女たちは、壁画の最後の場面で、家畜を引き連れた少年が女神に導かれて無事天の国へと旅立ったのを見届けてから、再び女神像の前に立ち、その水を手で掬って飲んだ。女神像の抱える瓶から溢れ出した水は、ただの水であるはずなのに、どこか甘い花のような香りがした。

そして彼女たちは、水を飲んで人心地つくと、寝起きの一口の水が胃の働きを促したのか、非常にお腹が減っていることに気がつくのだ。彼女たちは、礼拝堂に集まった子供たちを見回し、目的の人物を見つけて駆け寄って行くと、そのよく肥えた背中に揃って声をかけた。

「おはよう! プッシー!」

 と彼女たちが大きな声で言うと、そのよく肥えた体付きの少年は、びくりと肩を震わせ、またお前らか、とでもいうような迷惑そうな顔をして振り向いた。そして彼は、パン生地のように柔らかく贅肉のついた白い首を捻ったまま、彼の足元にある布の袋を、ふたりから見えない位置にさりげなく動かした。

「ああ、おはよう、リサ、ロサ、僕に何か用?」

 と彼はしげしげと彼女たちを見ながら言った。

 プッシーという少年は、この場所で暮らす子供たちの内のひとりであり、ここに来てから一年半程になる少年であった。彼は、その見た目からも分かる通り、非常に食い意地のはった少年なのだった。彼はいつも、食事の時、呼吸の間も惜しいというように真っ先に自分の分をかき込むように食べ、それが終わると、口の周りをべとべとに汚したまま、食事を終えた子供たちのところを回り、彼らの食べ残しを回収して彼専用の布の袋の中にそれを詰め込むのだった。その袋には二種類があり、一つは、彼がいつも持ち歩いている袋で、その中には、直前の食事の食べ残しが詰め込まれていて、もう一つは、彼が移動範囲中のどこかに隠してある袋で、その中には、前の前の食事の食べ残しが詰め込まれていた。彼のこの癖には、子供たちの身の回りの世話をしている修道女たちも手を焼いていて、まずそれは、彼の部屋からカビたり腐りかけたりした大量の食料が見つかったことから始まった。それ以来、彼の部屋には、定期的に掃除が行われるようになり、貯め込まれた食料が回収されるようになったのだ。すると今度は、彼は食べ残しを袋に詰め込むようになり、一つを持ち歩き、もう一つをどこかに隠すようになったのだった。持ち歩いている分はともかく、どこかに隠してある分はどうにもならず、こうなるともう、事態が前より悪化したも同然なのであり、修道女たちは困り果ててしまったのだった。そこで、修道女たちよりも彼のことをよく知る子供たちが、彼の隠した袋を見つけ出し、食べ残しを小鳥たちの餌にするということで、事態は一応落ち着いたのだった。そして、お腹を空かしたリサとロサは、彼が普段から持ち歩いている分の食料を分けて貰おうと、彼に話しかけたのだった。

「ねぇ、プッシー、今日のお昼は何を食べたの?」とリサが言うと、彼は「パンと牛乳のスープだよ」と警戒しながら答え、「パンかぁ、いいなー」、「いいなー」と、リサとロサが、それぞれ右と左に分かれて彼を囲みながら羨ましそうに言うと、彼は、足元に隠した食べ残しの入った袋を、彼女たちから隠し通すことができなくなってしまうのだ。彼は、バツの悪そうな表情をした。

「ねぇ、ねぇ、プッシー、じゃあ、その袋の中には、パンが入ってるんだよね?」「……入ってるけど、何?」「ね、ちょっとだけ、パンを分けてよ」「だめだ、僕のだ」「でも、私たち、寝坊しちゃって朝も昼も食べてないんだ」「自業自得だろ」と彼は、リサとロサの言葉に耳を貸そうとしない。

 しかし、彼女たちが、「そうだけどさ」、「そうだけど」と言って、残念そうな表情を浮かべると、気の弱い優しい性格の彼は、無碍に断ることができなくなってしまうのだ。

「……お前ら、お腹が空いてるのか?」「うん」「どれくらい空いてる」「すごく」「……じゃあ、仕方ない、少しだけ分けてやる」と言って彼は、足元の袋を開いてごそごそやると、その中からふたり分のパンを取り出して、リサとロサに手渡した。

 彼女たちは、彼からパンを受け取ると嬉しそうにし、「ありがとう! プッシー!」とリサが元気良く言い、「ありがとう、プッシー」とロサがはにかんで言うと、彼は、ふん、と鼻を鳴らし、「でも、いつか埋め合わせはしてもらうからな」と、まんざらでもない表情で、照れくさそうに鼻の頭を指先で掻いて言った。リサが「うん、また今度、プッシーの好きなものが出てきたらあげるね!」と言うと、彼は「またそんなこと言って! 前も似たようなこと言ってたけれど、君たちはいつも自分の好物から食べるじゃない! 芋の皮なんていらないよ!」と不満そうに言うので、ロサはくすくすと笑った。

 彼女たちは、次の食事の時にプッシーの好物が出たらそれを彼にあげること、決してそれが芋の皮ではないこと、などを彼と固く約束し、彼から分けて貰ったパンを食べて空腹を満たした。すでに冷めて固くなったパンは、彼女たちの喉の中を極めてゆっくりと降下し、彼女たちはそれを女神像の水を飲んで流し込んだ。彼は、今でこそ、こうして事情を話して頼み込めば食料を分けてくれるのだったが、ここに来た当初、彼は、神経質で誰も受け付けず、今とは見違える程がりがりに痩せていて、食事の時以外は部屋に引きこもり、ただひたすら何かを食べ続けているというような少年だった。しかし、子供たちの辛抱強い働きかけにより、彼は少しずつ心を開いていき、彼の身体に人並みの脂肪が付いた頃、部屋の外に出るようになり、やがて、彼の身体に人並みをはるかに超えた脂肪が付いた頃、他の子供たちと変わらぬ生活を送るようになった。そして、今では、ご覧の通りの体格と性格に落ち着いたという訳だ。彼は今、波打つ分厚い脂肪を身に纏い、それが彼に安心感を与えているかのように、穏やかで大らかな性格をしていた。彼にとって脂肪とは、臆病な領主を守る城壁のようなものなのだった。

 そして、女神像の水を飲み、パンを食べて空腹を満たし、一通りの目的を果たし欲求を満たした彼女たちは、改めて、今日は何をしようかと、楽しげに話し合いながら礼拝堂の中を歩き始め、その隅の方、礼拝堂の中で最も目立たない位置に、他の子供たちから離れ、ひとり座っている少女がいるのを見つけたのだった。まず、リサがそれに気づき、あっ、と声を漏らして礼拝堂の隅の方を指差し、続いて、彼女の指差す方を見て、ロサもそれに気づき、あっ、と声を漏らし、彼女たちは、お互いに目を輝かせ、顔を見合わせたのだった。

 そこには、礼拝堂の角に身体を埋めるように座り込み、なるべく目立たないように膝を抱えて小さくなっている見知らぬ少女がいたのだった。

「知らない子だね」「うん」「今日、ここに来た子かな?」「そうかも、私たちと同じ服を着てるし、寝てる間に来たのかしら」「行く?」「うん、行こっか」と彼女たちは、顔を寄せて小声で話し合い、その少女に会いに行くことにしたのだった。「きっと、他のみんなは、もう、挨拶とか自己紹介とか済ませてるよね」とリサが言うと、「きっとね、だから、私たちもしなきゃね」とロサは言い、「でも、あの子、何だか少し元気がなさそうね」と心配そうな声で言った。

 リサとロサが近づいて行くと、その少女は足音に気づいて顔を上げ、両足を身体に引いてさらに縮こまると、両手を胸に抱き込み、緊張を孕んだ堅い表情で息を飲んで彼女たちを見上げた。

 彼女たちは、彼女をあまり警戒させないよう、少し離れた位置で立ち止まり、ロサが柔らかく微笑んで「こんにちは」と静かな声で言うと、リサもロサを真似て「こんにちは」と普段よりも控えめな声で静かに言った。

 その赤毛のソバカスだらけの少女は、しばしの間、彼女たちを疑るように見つめ押し黙っていたが、ロサの柔らかい微笑に少しだけ警戒を解いたのか、「こんにちは」と小さな声で返し、足を引いた窮屈な姿勢から少しだけ力を抜いて楽にした。

 彼女たちは、彼女が少し警戒を解いてくれた様子なのでほっとし、「はじめまして」と揃って言い自己紹介を始めた。「私の名前はロサ、私も、他の子たちと一緒にここで暮らしているの、これからよろしくね」とロサが言い、それで、こっちが、と彼女が振ったのに続いて、「わたしの名前はリサ、ロサとは双子の姉妹で、わたしの方が妹だよ、ロサの方がお姉さん、これからよろしくね」とリサが言い、自己紹介をした。少女は、短い沈黙の後、目を逸らして「よろしく」とだけ呟いた。

 また警戒させてしまったのだろうか、と彼女たちは考え、彼女が名前を教えてくれなかったことはとりあえず置いておき、話題を変えることにした。

「えっと、今日から、あなたもここで暮らすことになったのかしら?」とロサが両手の掌を合わせてゆっくり言うと、彼女はロサの方を見て、こくりと頷き、

「今日の朝、ここに来たのかな? わたしたちは寝坊しちゃって、他の皆と一緒に挨拶できなかったんだ、ごめんね」とリサが頭を掻いて早口に言うと、彼女はリサの方を見て、小さく首を傾げ、あまり要領を得ない感じで慎重に頷き、

「うん、そうだけど、ごめんなさい、あたし、あなたの話し、よく分からなくて、ごめんなさい」と言って、また目を逸らしてしまった。

 彼女たちは、どうやらすっかり警戒されてしまったようで、それ以降、彼女たちがいくら話しかけても、彼女は目を逸らしたまま、小さく頷くだけになってしまった。彼女は余程緊張しているのか、また最初のように身体を縮こめて小さくなってしまった。

「あはは、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。それより、さっきから気になってたんだけど、あなたが腕に抱えてるのって、馬鈴薯?」とリサが彼女の緊張をほぐすために明るく言うと、「あ、それ、私も気になってたんだ、もしかして、今日の昼食の残りなのかしら? ここにはね、あなたの他にも、いつも食べ物を持ち歩いている子がいるのよ。もう会ったかもしれないけれど、プッシーという子なの、彼も、いつも食事の残りを持ち歩いているのよ」とロサも明るく言い、彼女たちは、一歩前に歩み出て彼女の腕の中を覗き込んだ。彼女は、なぜかその腕の中に馬鈴薯のようなもの抱え込み、大切そうにずっと離さずにしていたのだった。

 彼女は、「馬鈴薯?」とでもいうようなきょとんとした表情をして、視線を腕の中に落とし、もう一度視線を上げて彼女たちを見ると、急に顔を屈辱に歪ませ、再び視線を落として目を逸らし、

「これ……」

 と、嗄れた声で低く言い、唾を飲み込んでから、

「これ馬鈴薯じゃない、これあたしの手、あたしの手……」

 と、ソバカスだらけの顔を暗く俯かせ、押し出すように言った。

 彼女が身じろぐと、その腕の中、彼女たちがずっと植物の芽だと思っていた薄ピンク色の細く短い何かが、ぐねぐねと蠢き、それが、腫れ上がって歪んだ彼女の手の異様に短い指であることが分かるのだ。彼女たちは揃って、あっ、と声を漏らした。

 彼女は、前髪で顔が見えなくなる程に俯き、「馬鈴薯じゃない、馬鈴薯じゃない……」と低く呟き、歪んだ彼女の手を好奇の目から守るように、胸の中に深く抱え込み、彼女の手を見ようとする者全てを拒絶するかのようなこわばった声で、「あたしの手、あたしの手……」と低く呟き続けた。それでもなお、彼女たちの目には、それは、日にちが経って毒の目の吹き出し始めた馬鈴薯にしか見えない。

 リサとロサは、目を丸くして顔を見合わせ、しばしの間呆気にとられ、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と目を伏せて謝った。しかし、彼女たちは、その歪んだ彼女の手のことを、忌まわしき異常として見た訳ではなかったのだ。ただ彼女たちには、これからこの場所で共に暮らす新しい仲間の少女を、意図せず傷つけてしまったことへの償いの気持ちと、歪んだ手を胸に抱き込み怯えている新しい仲間の少女が、早く打ち解けてくれることを願う優しい気持ちだけがあった。

「ごめんね、その手のこと、あなたは気にしてるんだね」とリサが申し訳なさそうに言い、「でも、大丈夫だよ、ここにいる子たちは、わたしたちもそうだけど、その手のことで、あなたを悪く言う子なんていないから」と彼女を元気づけるように落ち着いた声で優しく言うと、「本当よ、ここにいる子たちは、やんちゃな子や、変わっている子もいるけれど、みんな、とても良い子たちだから、きっと、あなたもすぐに仲良くなれるわ」と続いてロサも落ち着いた声で優しく言った。

それは、償いの気持ちによるその場しのぎの慰めではなかった。本当に、この場所で暮らす子供たちは、皆、お互いのことを、同じ仲間、同じ黄金の子供として、心から思い遣り合っていたのだった。彼らは皆、多かれ少なかれその魂に傷を負っていたのだし、そのため、仲間の抱える痛みに対して敏感であり、その痛みを癒そうとすることに積極的でもあった。

 落ち着いた声で優しく語りかける双子の姉妹の言葉に、閉ざされた心を開く不思議な力が宿ることもあろう。彼女は、俯いて低く呟くのを止め、彼女たちを不安定に揺れる目で見て、和らいだ表情を浮かべかけ、しかし、その目は彼女たちの異常を備えていない健康な手に焦点を結ばせ、その決定的な断絶のために、彼女は、再び屈辱に打ちのめされて顔を歪め、急いで目を背け、「ごめんなさい、でも、これ馬鈴薯じゃないから、これあたしの手だから、ごめんなさい、ごめんなさい……」と再び俯いて低く呟き始め、彼女の内の世界に閉じこもってしまうのだ。まるで、健康な手を持つ者全てが、彼女にとっての敵になってしまったかのように。

 彼女たちは、何とかして彼女に、この場所では、その手のことを負い目に感じる必要などないということを伝えたかったが、彼女は、彼女たちが話しかけるだけで身を竦め、馬鈴薯じゃない、あたしの手、ごめんなさい、と低く呟き続ける声に、怯えのための痛々しい震えを混じらせ、歪んだその手を隠す余裕すら失い、それで頭を覆って身を震わせるようになってしまった。

「困ったな」、「困ったね」と、リサとロサは、そんな彼女の様子にすっかり狼狽してしまい、顔を見合わせて呟くと、それから、何も言葉を発することができず、ただ沈黙してその場に立ち尽くす他なかった。同じ言葉をひたすら低く呟き続けることで、強い拒絶を示す少女に対して、しかも、異常を備えていない健康な手それ自体が彼女の拒絶の原因にもなっている場合、他に何をすることができよう。

 弱り果てた彼女たちが、もどかしい思いで立ち尽くし、腕を撫でさすっていると、その背後で彼女たちを呼ぶ声がし、彼女たちは揃って後ろを振り向いた。

 そこには、女神像の足元にある水場の縁に片膝を立てて腰掛ける背の高い年長の少年がいて、彼は、彼女たちに向けて軽く片手を上げると、好青年ぜんとした爽やかな笑みを浮かべ、リサとロサの名前をもう一度呼び、手招きをした。

 彼女たちは、蹲って震える少女の方を気にしながら、背後を振り返りがちに彼のところへと小走りに駆けて行った。

「おはよう、ヘトロ」、「おはよう、ヘトロ」と、リサとロサが、元気なく言うと、彼は、「やあ、おはよう、お二人さん、今日も仲が良いね。さっきは、何だかお困りの様子だったけれど、どうかしたかい?」と気さくに言った。

 ヘトロという少年は、この場所で暮らす子供たちの中で一番年長の少年であり、責任感が強く、面倒見も良いことから、他の子供たちのまとめ役になっている少年であった。彼は、彼女たちと同様、この場所で暮らすようになって長く、それなりに古参の部類に入る少年であり、彼女たちとは、お互いに気の置けない間柄なのだった。彼女たちは、彼が初めてここに来た日のことをよく覚えていた。彼は、彼女たちがこの場所で暮らすようになって初めて迎え入れた新しい仲間、新しい黄金の子供なのだった。ここに来る以前、彼は、辺境の地で少年兵として銃を持って戦場に立ち、戦争に加わっていた。彼は、そこで左足に銃弾を受けて負傷し、兵士として活躍することができなくなってしまったのだ。旧式の銃を持ち、敵に向かって突撃する少年兵、彼らは、大人の兵士たちからそれしか教わっておらず、従って、それしかできない能なしの子供たちなのだった。それしかできないよう幼い頃から仕組まれた少年が、しかし、それすらできなくなった時、戦場で一体何が起こるのか、それは想像に難くない。辺境の地では、子供たちの数には事欠かない、大人たちが心配するのは専ら銃と弾薬の数である。彼は、足を負傷し役立たずとなったことで、仲間の兵士たちから暴行を受け、慰み者にされるようになったのである。ここに来た当初、彼は、銃弾を受けた左足は言うまでもなく、その全身に手酷い暴行による生傷を負っていて、悪臭の漂う包帯を巻き、手負いの野生動物がそうであるように、彼の傷を癒そうとする者に対してすら、極めて攻撃的な反応を示していた。また、肛門の激しい裂傷が排泄の度に長く彼を苦しめもし、その屈辱と苛立ちが、彼の攻撃性をいや増しさせた。さらに、彼の左足は、使い勝手の良い少年兵に戦場で施される粗雑な治療、その不衛生さのために、ここに来た時にはすでに化膿していて、今ではその指先は不潔に黒ずんで壊死してしまっていた。だから彼は、座る時は、いつも片膝を立てて座り、歩く時は、いつもびっこを引いてゆっくり歩く。しかし、それでも、彼の表情はここに来てすぐの頃よりも穏やかで明るい。それは、戦場から離れた平穏な暮らしが彼の肉体と精神の傷を癒したからであり、何よりも、彼の魂が祈りと勤めの日々の中で天の国へと近づいているからであった。

 彼は、ただ穏やかに笑み、彼女たちが事情を話し始めるのを待っていた。彼は、彼自身が過去、心の傷を癒すまでの荒れ果てた時期を、周りの者から暖かく見守られて過ごしたため、無理に相手を急かすことなく、待つことをするのだった。

「さっき、あそこにいる子に挨拶したんだけど」「うん」「ほら、あの子、とても変わった手をしているでしょう」「そうだね」「それで、わたしたち、その手のことで、あの子を傷つけちゃったみたいで」「うん」「私たち、あの子に、とても可愛そうなことをしてしまったの、傷つけるつもりなんて、なかったのに」「そうか」「それで、あの子、最後まで名前を教えてくれなかったんだ」「ん、そうなのかい、あの子の名前は、カヤというんだ」と彼は、彼女たちの背後を覗き込み、蹲る少女を見ながら言った。

「あの子、カヤっていう名前なんだ」とロサが後ろを振り向いて言い、「わたしたち、嫌われちゃったかな、名前教えてくれなかったし」とリサがおどけた声で、しかし沈んだ表情で言うと、「どうだろう、そういう訳ではないと思うが、朝からガキンチョどもの質問攻めにあってたからな、疲れてるんだろう、きっと」と彼はリサを慰めるように優しく言った。

「うーん、そうだといいんだけれど」「質問攻めって、またジノ?」「またジノ、あいつは遠慮というものを知らない。好奇心旺盛なのはいいことなんだが、あいつは加減を知らない奴だからな」「あの子、カヤの手のことを、悪く言ったりしてなかった?」「んー、まぁ、別に、悪くは言ってなかったよ。やることはガキそのものだけど、悪い奴ではないからな。その手の形、すごいなぁ、変わってるなぁ、指の形が芋虫みたいだね、とか言ってたな、あいつ」「芋虫……」とリサは、自分がやんちゃ盛りの年少の男の子と同程度の発想をしたことを若干苦々しく感じて思わず呟いた。

「ま、ジノからすれば、カヤみたいな子は初めてだろうし、いろいろと珍しいんだろう。俺たちからすれば、そう珍しいものでもないんだが。ほら、君たちも覚えているだろう、以前ここにいた、カーナルという小さな男の子のことを。彼も、カヤと同じで穀物の一種みたいな潰れて歪んだ手足をしていたよな。今日の朝、神父様からカヤの紹介があったんだけど、彼女も、カーナルと同じでヘロドニア地方の出身らしいよ。あの土地は何か呪われてるのかな、それとも、そこに住む人たちの血が呪われてるのかな、どっちなんだろう? いずれにせよ、彼女は俺たちの新しい同胞になる訳だから、早くここでの生活に馴染んでほしいものだね」「もう、またそんな皮肉言って」「ふふっ、世の中を斜めに見すぎて、頭の中身まで斜めになっているんじゃないかしら」「そう、斜めになっているんだ、ロサは良いことを言う。だから、こうすると正常に戻るんだ」と言って彼は、頭を傾けにやりと笑みを浮かべた。

 彼女たちは、彼のひょうきんな表情に、ぷっと吹き出し、少しだけ元気を取り戻して声を出して笑った。

「よしよし、少し、いつもの調子に戻ってきたな。君たちは元気が取り柄なんだから、いつも通りでいてもらわないと困るよ。特にリサ、君はそれだけが取り柄みたいなものなんだから、頑張って能天気でいてくれたまえ」と彼が冗談めかして言い、「あはは、ヘトロ、あんなこと言ってるよ、ひどいよね?」とリサが言うと、「本当ね、リサは、頑張らなくても能天気なのにね」とロサも冗談めかして言い、「ひどい!」とリサが笑いながら抗議の声を上げると、ヘトロとロサも笑った。

「まぁ、何にせよ、この先、カヤと仲良くなる機会はいくらでもあるさ」と彼は、礼拝堂の角で蹲るカヤを優しく見守りながら言い、

「うん、ありがとう、ヘトロ」と彼女たちは、彼の隣に腰掛け、同じようにカヤを見守りながら言った。

 それから、彼は、何か考えごとをするように、後ろに反り返って頭上の女神像を見上げていて、ふと、何か思い出したように、その姿勢のままで隣の彼女たちの方を見て言った。

「そういえば、君たちが来る少し前に、ワーニャ神父がここを出て行ったけれど、遅刻の件でまた説教でもされたんじゃないのかい?」「大丈夫だったよ」「遅刻の件じゃなくて、廊下を走っていた件で怒られたけどね」「はは、相変わらずだね、君たちは。ワーニャ伯父さんも、君たちみたいな子がいると大変だ。いつもの調子に戻ったのはいいけど、そこは、何とかしたほうがいいぞ」と彼は苦笑して言い、リサとロサは顔を見合わせ、「勿論!」と声を合わせ元気よく言った。

「うん、実によい返事だね、大変素晴らしい。それで日頃の行いが改善されれば、なお素晴らしいね」と彼は呆れ顔でぐるりと目を回し、その途中で何かを見つけたのか、あっ、と声を上げて立ち上がった。

 彼女たちも、彼の視線を追って礼拝堂の入口の方を見て、そこに、気品のある高齢の神父が立ち、先程、ロサが冗談でやり込めた神父と挨拶を交わしているのを見つけたのだった。

「グラシム神父様!」と彼女たちは、顔を綻ばせ、飛び上がらんばかりに勢いよく立ち上がると、その神父のところへ駆けて行った。

「こんにちは、神父様!」、「こんにちは、神父様」と、リサとロサが、彼に抱きつかんばかりに駆け寄って行き、輝かしい笑顔を浮かべて言うと、

「こんにちは、リサ、ロサ、ちょうど良かった。今、貴方たちを探していたところなのですよ。そろそろ、貴方たちの様子を見ておきたいと思っていまして」と、彼は、朗らかな笑顔を浮かべて言い、「おや、寝癖がついていますよ」と、彼女たちの少しだけ乱れた髪を掌で綺麗に整えた。

 グラシム神父は、この場所で暮らす子供たちが最も尊敬している神父であり、中央の教会で修養を積み高位の位に就く彼は、この教会の聖職者たちが半ば崇拝に近い形で尊敬している神父であった。その威厳のある容姿と洗練された立ち振る舞いは、時として、畏敬の念すら感じさせる程なのだった。それは、彼と同じくらいの年齢のワーニャ神父と比べてみると分かりやすいが、ワーニャ神父が素朴な歳の取り方をし、田舎に住む親戚の伯父のような親しみやすい印象があるのに対して、グラシム神父は高貴な歳の取り方をし、ともすれば畏敬の念から跪きたくなるくらいに神聖な印象があった。彼は、田舎の教会での身を粉にした救済の功績により出世したワーニャ神父とは、また別の意味で徳の高い神父なのだった。

「では、貴方たちの魂が、これまでの祈りと勤めの日々の中で、どれほど天の国に近づいたかを見させていただきましょうか」と彼は、彼女たちの肩に手を乗せ微笑んで言い、彼女たちは神妙な表情で頷いた。

 彼は、まず、ロサの肩を引いて、近くに引き寄せると、彼女の頭の上に、丸みのある柔らかい手の、その厚い掌を乗せ、静かに目を瞑り、何かを探ろうとするかのような思惟深き表情を浮かべた。彼がそうすると、ロサも静かに目を瞑り、何か大きくて神聖なものに繋がろうとするかのような清く澄んだ表情を浮かべた。リサは、ロサの横顔を見つめ、その閉じられた瞼の長い睫毛の先を眺めていた。彼は、目を開いて頷き、次に、リサの肩を引いて、近くに引き寄せると、彼女の頭の上に、同じように掌を乗せて目を瞑った。リサも静かに目を瞑り、彼女は、自分の閉じられた瞼の長い睫毛の先を、今、同じようにロサが眺めているのだと考えた。彼は、目を開いて再び頷き、緊張の解かれた優しげな表情を浮かべ、彼女たちの肩を軽く叩いた。

「そうですね……、ロサ、貴方は、そろそろいい頃かもしれません。リサ、貴方は、まだもう少し、先になるようですね」

 と彼が、診断を終えた医者のように、ゆっくりと告げると、

「本当ですか!」とロサは喜びに満ちて言い、「そうですか」とリサは落胆して言い、彼女たちにしては珍しく対照的な表情を浮かべ、「あ、でも」と揃って言うと、顔を見合わせて見つめ合い、すぐに同じ表情、同じ懇願するような表情を取り戻して、「あの、ロサと一緒、という訳にはいかないのでしょうか?」とリサが言い、「私も、できればリサと一緒がよかったのですが」とロサが続き、彼女たちは、真剣な眼差しで彼を見つめた。

「そうですね……」

 と彼は、顎に手を当ててから、もう一度リサの頭の上に掌を乗せて目を瞑り、

「……やはり、貴方は、まだもう少し先になるようです」

 と、目を開いて頷き、リサの頭を撫ぜながら、宥めるように言い、「心配せずとも、貴方も、もう少しの辛抱ですよ」と優しげに微笑んで付け加えた。

「そうですか」と、リサとロサは残念そうに呟き、「ごめんね、リサ、私の方が先になってしまったみたい」とロサが沈んだ声で言うと、「あはは、そんな顔しないでよ、これは、とても喜ばしいことなんだから」とリサは明るい声で言い、「それに、わたしも、もう少しみたいだからさ」と、暗くなった雰囲気を払拭するように言って、「すぐに、また一緒になれるよ」と微笑んで言い、ロサの手を握った。ロサも、「うん、ありがとう」と微笑んで言い、リサの手を握り返した。

「こんにちは、グラシム神父様」と、左足を引きずるようにしてヘトロが遅れてやって来て、「こいつら、何だか、妙に感極まってますけど、どうかしたんですか?」と彼に尋ね、彼がそれに答えるよりも早く、「ロサの番が来たみたい」とリサが誇らしげに答え、ロサがこくりと頷き、ヘトロは一瞬驚いた表情を浮かべて、「そうか、ついに、君の番が来たか、ずいぶん長かったけれど、そうか」と感慨深げに言い、本当に嬉しそうな顔をして目を細め微笑んだ。

「それで、リサも一緒なのかい?」とヘトロが言うと、「さっき、そういう話をしていたのよ」とロサが言い、「わたしの番はまだみたい」とリサが言い、「そうか、一緒という訳ではないのか」と、彼女たちの仲の良さを知っている彼は心苦しそうな表情を浮かべ、彼女たちの喜びに満ちた表情の中に一抹の寂しさがあるのを感じ取り、「なるほど、リサは行き遅れてしまったか。廊下を走ったり悪さばかりしていると、どんどん天の国が遠ざかってしまうな」と、わざとらしく憐みの表情を浮かべて言い、「もう! ヘトロ、ひどい! 踏んづけるよ!」と、同じくわざとらしく怒った表情を浮かべたリサが彼の左足を踏む振りをして言うと、「ごめん、ごめん、冗談だよ、そして、それは冗談にならない」と、彼は大げさな身振りで両手を上げて降伏を示し、微笑むと、「別れは辛いだろうけど、神父様が、もうすぐだとおっしゃっていたのなら、その通りなんだろう、それまでの間、まぁ、元気でやりなよ」と気さくに言い、彼に元気づけられて、「うん、それだけが取り柄だからね!」とリサは元気よく頷き、その隣で、ロサはくすくすと笑った。

 彼らの周りには、ヘトロに続いて、次々と他の子供たちが集まり始め、ロサが天の国に行くことが決まった旨を知ると、彼らは、彼と同じように一瞬驚いた表情を浮かべて、「おめでとう、ロサ」「寂しくなるなぁ」「いいなー、僕も早く天の国に行きたいな」「リサも、もうすぐなんだって? 羨ましいなぁ」と、それぞれが感慨深げに言い、喜びに満ちた表情で彼女を祝福した。

 やがて、ロサを中心にして、喜びに満ちた子供たちの輪ができあがり、その輪の外側から、彼らと入れ替わるようにして外へと離れたグラシム神父が、彼女に呼びかけた。

「それでは、まだ少し先のことにはなるでしょうが、最後のお祈りとお勤めをしたら、天の国に行くための準備を始めましょうか」

 と彼が微笑んで言うと、

「はい、神父様」

 とロサは言い、子供たちの輪の中で、眩しいくらいに、輝かしく笑んだ。


 この章では、新しく教会の施設で暮らすことになった少女「カヤ」が登場しますが、それは、この小説が架空の宗教を扱うため、それについての説明を読み手にスムーズにする上で、読み手と立場を同じくする「新しい子供」が必要であったためでした。次の章では、カヤをガイドにして架空の宗教の説明をしつつ、リサとロサの日常の様子をさらに具体的に書いていきます。


 物語は、第2章「双子の時間」に続きます。

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