第七十六頁
見上げた先には、葉を脱いで寂しくなった木々の生える山。
恐ろしい森から引き返した後、俺たちはそのまま右の川沿いを進んだのだが、辿り着いた先がこの山だったのだ。
魔物を従える少女のいた森は、どういうわけか草木が枯れずに生い茂っていた。恐らくは、あの蛾が放っていた鱗粉が、メグルに見せていたように幻覚として俺たちに見せていた光景だろう。
不思議なことに、こうして離れてみれば枯れた森が広がっているだけだったのだから。
今、俺たちの目の前に広がっている山々も、葉の無い茶色くなった木が山肌に産毛の様に生えているだけだ。
さらに、山肌は白く化粧してしまっている。
そう、とうとう降り出してしまったのだ。
これからここを越えようという最悪のタイミングで。
まだ、川が凍る程の寒さではない。しかし、防寒具などなにももっていない俺たちからすれば、十分に堪える気温だ。
どのくらいだろう。川が凍っていないから、まだ零下ではないと思うのだが……。
冷たい両腕を組むようにしてさすりながら、メグルの足に視線を落としてみる。
「それ、寒くないか?」
メグルだけじゃない。
この世界のことではないが、学生の女の子は冬場でもいつもスカートなんだ。もちろん、寒さ対策をしている子もいるにはいるのだが、俺の知る限りでは真冬でもミニスカートという信じられない子ばかりだった。
肌が分厚いのか修行なのか分からないが、寒くはないのかと今までずっと心配していたのだ。
メグルも、その部類なのかと俺は気に掛けずにはいられなかった。
「は、はい。さ、寒いですね~」
これは……。
「寒そうだな……」
まあ、冬場に足の見えるスカートなんだから仕方ない。
「なら、あれ穿いたらどうだ? 寝てる時に着てるさ」
「だ、駄目です。あれはパジャマなんですから。それに、草に引っかけたら破れちゃいます」
あれ、というのは、プレイン村でメグルが俺に初お披露目した綿だったかの素材で出来たパジャマの事だ。旅にも、メグルはそれを持ってきていたのだが、下はズボンになっていた防寒に使えると思ったのだが。
まあ、言われてみればそうだ。
引っかけて破れてしまっては、直す手段も無いし新しく買うお金も無い。第一、これから行く先に同じような物が売っているとも限らない。何せ、この世界ではどこでも綿を育てているわけじゃないからな。輸出入だって徒歩や馬車で行っているぐらいだし。
「じゃあ、寒いけど進むか……」
「はい! 頑張りましょう!」
これだけの元気があれば大丈夫か。
歩いていれば、ある程度は体も温まる。
そんなことより、一番に怖いのはこの降り積もりそうな雪だ。
今はまだ降り始めたばかりだし勢いもないが、これからどっさりと積もられては進みにくくなるわ雪崩の危険があるわで大変な事になりかねない。
出来るだけ、積もってしまう前に俺は向こう側へとたどり着きたいのだ。
そうそう、ちなみにどうして向こう側へと行かなくてはならないのか。
水の国を目指し、海を目指していたのにどうして山なのか。ここにたどり着いてから小一時間考えたのだが、俺はあることに気が付いてしまったのだ。
海を目指しているのになぜ、俺たちは川の上流に向かって歩いているのかということだ。
海に向かうのなら、絶対に川の流れていく方。つまりは下流へと向かうのが常識だろう。しかし、俺は何も気が付かずに、今まで指示されたことだけに従ってここまで歩いてきた。メグルなんか、海がどんなものか知らないからそのことに気が付くはずもない。
そんな事実に気が付いた時、俺はどうしようか迷った。
引き返そうか?
ここまで大変だったが、気が付いた今からなら間に合うか?
なんて風に。
だが、アイルズも姫々さんもみんな川の上流へ向かえと指示していた。俺はそれを信じるか迷った挙句、信じることにしたのだ。
離れていたって、俺はアイルズを信じているって心に誓っちゃったんだもん……。
というのは冗談にしろ、アイルズも姫々さんも嘘を言っているとは思えないのだ。そもそも、ここは俺にとっての異世界で、俺の世界での常識が通用しないことだって数えきれないほどたくさんある。だったら、水の国というのは山の頂上にあるのではないか。そんな突飛な考えも容易に受け止めることが出来るようになった。
まあ、山の上に水の国があるわけないにしろ、きっと向こう側に出来た川が水の国へと繋がっているのだろう。と、至極普通の結論に至ったわけだ。
しかし、思考としては普通だが、いざそれを実行するとなると大変なことこの上ない。
それほど傾斜のある山ではないが、たぶん冬以外は森であるこの山。
道という道が殆どなく、足を滑らせながら登っていくしかないのだった。
だが、しばらくして俺たちは谷へと通じる道を見つけたのだ。上から流れ、だんだんとちょろちょろになっていくと思われた川も、その谷を流れていた。
「川が辿りやすくてよかったな」
「もう少しで着くといいですね。水の国」
互いにそんな願望を口にしながら、俺たちは進んでいった。
「なあ、メグル?」
しばらく歩いていた後、俺はメグルに話しかける。
「どうしました~」
メグルは雪を蹴っ飛ばしながら答えた。
「あのさ……。寒いよな?」
「そうですね~」
「じゃあさ、したくならない?」
「何をですか」
訝しげな表情を向けてくる。
「まさか……。身体が温まることとか言いだして、変な事考えてませんよねぇ……?」
「うん? 体が温まる事ってなんだ?」
「へ? 違うんですか? ……な、ならいいです」
「なあ、体が温まる事ってなんだよ。教えてくれよー」
「だから何でもないですって……!」
「なんだよケチ。顔まで赤くしちゃってさ。温かくなれることがあるなら教えてくれてもいいのに……」
「いえ、そうじゃなく……。温かくなれる方法なんてないんですよぉ~……」
「じゃあ、何で温かくなれる方法だなんて言いだしたんだ? どうして顔もあったかそうな色してるんだ?」
「そ、それは……! うぅ~! ……そんなことより! スグルさんは何をしたくなったんですか! 先に教えてください!」
「え?」
言っていいのかな……。
メグルの前だしなあ。
「教えて欲しい?」
「はい」
「じゃあ、後で暖かくなる方法教えてくれる?」
「それは駄目ですっ」
「なんでだよぉ」
けど、もう言わなくてはどうしようもない。
「メグル!」
「は、はい!?」
「ト、トイレ行ってきていい?」
「え……」
「だからぁ! トイレだよトイレ! 寒いからすぐに行きたくなっちゃったんだよ!」
「でも、トイレなんてどこにもありませんよ?」
「知ってるよ。だからその辺でしたいから、メグルはここらで待っててくれないかな、てことだったんだよ。なのに、中々気が付いてくれないからさ……」
「な、何ですか……。だったらそうとはっきり言ってくださいよ!」
「だって、メグルも女の子じゃん? トイレ行きたいとか女の子の前で言うなんて恥ずかしいし……」
「いきなり乙女みたいにならないでください。早く行ってきてくださいよお!」
「よかった! もう漏れそうだったんだよぉ!」
雪を踏みしめながら、俺は死角になっている場所へと移る。
冬になって枯れてしまったから、適当な所に茂みが無いからいけないんだよ。まったく。
「あ、覘くなよ?」
「覘きませんー!」
「そっか。おっきい方じゃ無いからすぐに戻るよ」
「言わなくていいですっ!」
雪の上にすると、雪が融けて面白い。
用を足し終わると、俺はすぐにメグルのいた場所へと戻った。
しかし、そこにメグルはいなかった。
「メグルー?」
なんだ、メグルも催してたんじゃないか。
さては、俺以上に言いだすのが恥ずかしくて、先に俺が用を足しに行ったのをチャンスとでも思ったのか。
ま、人間、誰でもするものはするさ。
ここで待っていよう。
「…………」
雪が強くなってきたな……。
それにしても、メグルが戻って来ない。
いつまで待たせるんだ。寒いぞ。
また、いつかのように迷子にでもなったか?
「スグルさーん? スグルさーん?」
「あれ、メグルの声だ」
俺を呼んでいる。
やっぱり迷子になったのか。
しかし、助けを求めている迷子というよりは、迷子を捜す立場の声の出し方だ。
「スグルさーん? どーこでーすかー?」
「おいおい、ここだぞ。動いちゃ駄目だろ?」
少し先を行ったところで、メグルは俺の事を探していた。
「あ、いました」
「いなくなったのはメグルだよ」
「違いますよぉ~。スグルさん、道間違えましたよね?」
「え? どうして俺が?」
「だって、さっきそこを登っていっちゃったじゃないですか」
メグルは、谷の少し上の方を指さしていた。
「なんで俺があんな所に行かなくちゃならないんだ」
「知りませんよ。だから私、危ないですよーって何度も呼んだのに、スグルさん戻ってこなかったんです。驚かそうと思って、別の道から来ましたね?」
「いやいや、こんな寒くて雪で歩きづらいのに、どんだけサプライズ精神旺盛なんだよ。俺は」
「えー、でもー」
「第一、本当にそれは俺だったのか?」
「本当ですよぉー。髪が黒いのなんてスグルさんしかいないじゃないですか」
「……そいつ、黒髪だったのか?」
「はい」
「見間違いじゃないよな……?」
「はいっ」
「…………」
何だか不吉な予感がした。
「スグルさん?」
「きっと、寒くて幻覚でも見ちゃったんだな」
俺は、メグルの頬を両手で押し潰した。
「ほんなほほないれふー!(そんなことないですー!)」
「寒いって言ってた割には、メグルのほっぺた温かいな」
「あむむ、やめれくららいみょー……」
むにむにとたっぷり堪能した後、俺たちはまた歩き出した。
メグルには心配をかけまいと明るく振る舞い、俺自身も何かの勘違いだろうとは思っていた。だが、この真っ白な雪の中で見た、黒髪と見間違える物なんてどこにあるのか。
それに、メグルは気が付いていない様だったが、俺は雪の上に出来た、俺のでもメグルのでもない誰かの足跡を見つけてしまった。
谷を行き始めてから、思いのほか順調と思っていた矢先、降雪はさらに勢いを増していった。
「メグルー? 大丈夫かー」
「お顔が痛いですけど……。なんとか……」
俺も、顔に吹き付ける雪が痛い。
手はかじかんでいるし、足も雪で濡れて冷たかった。
「ここらで休むかぁ」
「そうしましょう!」
メグルは大賛成の様だった。
俺たちは滝壺の周辺にテントを張り、今日はそこで過ごすことにした。
あいにくの雪空で、夜が近いのかどうかも分からない。降雪は吹雪となり、横殴りに降り続けていた。
「弱いうちにテント張っちゃってよかったですね」
「そうだなー……」
俺たちはテントの中から、うつ伏せで肘をつきながら外の様子を窺っていた。
テントは滝壺周辺の岩の窪みに張っておいたから、吹雪で飛ばされる心配もないし、雪に埋もれることもない。滝からはある程度離れているから濡れることも無いし、窪みにいるから、崖から落ちてきた雪で潰されることも無い。
良い場所が見つかって幸運だった。
気温は低いが、風も入り込まないから凍える心配もない。
寒い事には変わりはないが。
「あー、こんな時にカイロの一つでもあればなあ」
俺は、カイロを持っているのを想像しながら、筒状にした手を振ってみた。
「かいろってなんです?」
「ええとな、俺の住んでた世界にあった、こんな形した白いやつなんだけど」
手で四角い形を再現してみせる。
「その中に黒い砂みたいなのが入っててな、それを空気に触れさせると温かくなるんだよ。しばらくしたら冷たくなっちゃうけどな」
「空気に触れて、しばらくしたら冷たくなっちゃうのに、それはどうしてスグルさんの手にある時だけ温かくなるんですか?」
「ん? ん? なんだって?」
「かいろは空気に触れると温かくなるんですよね? それなら、どこからその黒いお砂は持ってきたんですか? そのお砂はもう冷たくなっちゃったものじゃないんですか?」
お空はどうして青いの? なんて聞いてくる子供の様だな。
「えっと……。カイロは、始めは密閉された袋に入ってるんだ。それで空気に触れないから、冷めるどころか温かくなる前に俺たちの手元にくるわけで……」
「みっぺいってなんです?」
「んんん……。もういいや……。とにかく、カイロは凄いってことなんだ!」
「スグルさん、かいろのことべた褒めですね」
「そりゃあ、あると便利だからなあ」
「そうなんですか……。なんだか納得いかないです!」
「な、なんだよ。納得いかないって……」
「かいろなんかなくっても、私がスグルさんを暖かくするんです!」
「お、おい……」
メグルが密着してきたと思ったら、俺の手を両手で包んで、さらにそこへはあはあと息を吹きかけてきた。
「スグルさんの手、冷たいです。でも、私が温めてみせますからね!」
手をすりすり。息をはあはあ。
メグルは一生懸命に俺の手を温めてくれた。
「メグル、もしかしてカイロと張り合ってる?」
「かいろになんて負けてられません!」
張り合ってるな。
だが、カイロを敵視することもあって、メグルの手のひらはどうしてかとても温かいのだった。
ある程度温めてくれたら、疲れてしまったのかメグルは止めてしまった。
また、俺と並んで吹雪く外を眺める。
「閉めるか? 雪も入ってきそうだし」
「そですね」
俺は、テントの入口にぶら下がっている紐を引っ張り、布を下ろした。
狭いテント内でのランプは危険だから使用していない。そのため薄暗くなった。
「寝るにはまだ早いよな?」
「そですね」
「どうしようか」
「また、お話しします?」
「もう昔話をしろってのは勘弁だぞ」
睡眠前に子供に聞かせてやるのとは違って、次の話が終われば次といったように、メグルは延々と催促してくるからな。
「昔話はもういいです。今度はスグルさんのお話が聞きたいです」
「俺の話? 俺の話っていってもなぁ……」
「なら、私から色々聞いちゃいます」
手のひらを枕のようにし、横になりながらメグルは話し出した。
「スグルさん、向こうではどんな暮らしをしていたんですか?」
「……俺の生活?」
「そうです。私には想像もつかないので」
「う~ん……。話さなくちゃ駄目か?」
「出来るだけ話してください」
眠たいのか、メグルは息をするように言葉を吐いている。
「…………俺さ、はっきり言って、向こうの世界であんまり、ていうか、全く上手くいってなかったんだよな」
「それは、お父さんと喧嘩しちゃったとかですか」
「そんなんじゃないさ。まあ、確かに人付き合いの事もあったけどさ。俺個人としては、勉強がどうとかスポーツがどうとか、そんなもんだよ。それが人間関係にも直接影響してるんだけどな」
「よく、分からないです」
「だろうな。こっちには受験も就職も無いんだ。自分にあったことを好きなようにやる。その地域での暮らしを生まれた時から死ぬまでやる。そんな感じだもんな」
「こっちの世界に来て、よかったですか?」
「……どうだろう。来た頃は、いきなり狼に襲われて怖い思いをしたけど、メグルのお父さんやお母さんに優しくされて、やっと俺の居場所が見つかったなんて思ったかな」
「……もしかして、旅するの嫌でした?」
メグルは申し訳なさそうに言った。
そんなメグルに気を遣わせないよう、俺はフォローを入れておく。だが、自分の本音ははっきりと言っておくことにした。
「旅が嫌なんてことはないさ」
メグルがの事が好きだから。
メグルと一緒にいられるのは楽しいから。
「だけど、旅をしたからこそ思うところもあるんだ。俺、随分と幸せな暮らしをしてたんだなって。俺にとって上手くいかなかったことなんて、ちっぽけな事だったんだなって」
「そうなんです?」
「ああ、なんていうかな……。メグルには悪いけど、こっちの世界は凄く大変だ。いつ魔物に襲われるかも分からないし、食べ物だって十分じゃない」
「…………」
メグルは、いつの間にか俺とは反対の方を向いていた。
「メグル? 寝ちゃったか?」
「寝てないです……。でも、もうそのお話はいいです」
「あ! ご、ごめん。怒らせちゃったか……? 別に、この世界を否定したいわけじゃなかったんだ……」
「大丈夫ですよ。怒ってなんていませんから」
「えっと……。じゃあ、顔見せてくれるかな……」
「それは嫌です」
「ど、どうして。やっぱり怒ってるんじゃ……」
「本当に怒ってないですよ。ただ…………スグルさんは、元の世界に戻りたいですか?」
始めの頃の俺は、この世界に残るのもいいか、なんてことを思っていた。だが、最近になってまたそれが変わり始めている。
戦い、殺し合う。
その日の食べ物を得るにも大変な思いをする。
これといった娯楽も無ければ、むしろ不自由。
そんな、自由だからこそ存在する制限に満ちた世界を目の当たりにして、俺はまた元の世界に戻りたいという気持ちが、少なからず湧いてきているのだ。
勉強がなんだ。スポーツがなんだ。課題がなんだ。
与えられたことを丁寧にきちんとこなしていれば、順風満帆な生活を送っていけるのは向こうの方だったじゃないか。才能なんて、人生を左右する上でこれっぽっちと言わざるを得ない程、影響の少ない要素だったじゃないか。
今俺がいる世界こそ、生まれつきの才能が物を言う世界だ。
茶髪の人たちはどうしていた?
アクセの恩恵をほとんど受けられないがために、公爵の様な人間にこき使われて苦しんでいたじゃないか。
それなのに俺は……。
「ああ、戻りたいかどうかだったな」
メグルに返答するのを忘れていた。
だが、メグルは返事の代わりにすーすーと寝息を立てていた。
そういえば辺りも暗くなってきたし、もう夜なりつつあるのだろう。
少し寒いが、寝ても死にはしないよな?
「俺も寝るか……」
横になり、自分とメグルに薄い掛け布団代わりの布を掛けた。




