第七十五頁
どれだけ眠っただろうか、俺は、何だか急に目が覚めてしまった。
外を見れば、まだ外は真っ黒。真っ暗ではなく、真っ黒なのだ。
小屋の傍の木ですら見えない。
「……まだ夜かよ」
もう朝だと思って起きたから、うんざりだった。
眠る前と同じ、深夜の静けさが耳をキーンとさせた。
「すんすん……」
何だか、いやに甘ったるい匂いがする。
俺は、この匂いのせいで起きてしまったのだろうか。
メグルはどうなのかと、隣に目をやる。メグルも、俺と同じようにベッドの上で起き上がっていた。
「メグル? なんか匂わないか? 甘いようなさ……」
「うへ……うへへ……」
「メグル……?」
肩を掴み、振り返らせてみる。
「あ~、しゅぐるちゃ~ん」
「しゅぐるちゃん!? ってなんだよ……」
「なんだかきもひいいですね~」
また、メグルはおかしくなっていた。
「何なんだよ……」
「しゅぐるちゃんはきもひよくないんでしゅ~?」
「メ、メグル……! やっぱりここはおかしいんだよ! 今すぐにでも出よう! な!?」
ちらり、と視界に光るものが映った。
よく見れば、部屋中を銀色の粉が舞っている。
「なんだぁ……?」
甘ったるい匂いの発生源はこれなのだろうか。そして、メグルが変になっているのも……。
もう外が暗いだなんて関係ない。
怪しげな粉を吸わないように口を塞ぎながら、荷物をまとめ、俺はメグルの手を引いた。
「しゅぐるちゃんがわらひの手、握ってましゅ~。うれぴー」
「今に始まった事じゃないだろ。そんなに嬉しいならずっと繋いでてやるから、ほら、静かにしててくれ」
二階の屋根裏部屋にいるだろう女の子に気が疲れない様、俺は足を忍ばせ扉まで向かう。扉の前まで来ると、音をたてないようにゆっくりと扉を開いた。外に出て、締めるのも同様に静かに行う。
「……こんなところおさらばだ」
暗闇に沈む小屋を見て、俺は思わず呟いた。
さて、これからあの二股に分かれていた川まで戻ろうと思うが、その前にランプを灯さなければ。
あまり意味がない事は分かっていても、無いよりはマシだろう。
俺は、リュックに顔を突っ込んでランプやマッチやらを探し始めた。
「えへへ~?」
その間も、メグルはえへえへと何だか照れてみたり恥ずかしそうにしたりしている。一体、今のメグルの頭の中はどうなってるんだか。
リュックの中を探していて思う。
そういえば、思いのほか明るいような気もしないでもない、と。
一旦、リュックの中から顔を出し、辺りを見渡してみた。
うっすら明るい?
そろそろ、待ちに待った日の出なのだろうか。
それにしては、空はまだ暗い。
その時だ。
沼の向こう岸で、何やら人の話し声が聞こえた。
よく見れば、青白い光も見える。
「あれは……?」
目を凝らしていると、メグルが何か気が付いたようだ。
「ありぇ~? あの子、どうしてあんな所にいるんでしゅー?」
「あの子?」
あの子というのは……。
自分の目で確かめるべく、俺はもう一度目を凝らす。
青白い光は沼にまで反射していた。弱くなったり、強くなったり、光は点滅しているようにも感じられる。
すると、その光っている何かの傍で人の顔の様なものが俺を見た。
メグルの言った通りだ。間違いない。
二階の屋根裏部屋で寝ていたはずのあの少女が、どういうわけか沼の向こうにいるのだ。
今までは向こうを向いていたようだから、髪の暗さが闇に溶けて気が付かなかった。
しかし、肌色の顔は青白い光に照らされて浮かび上がった。さらに、その青白い光の元というのが、魔物なのだ。
少女の数倍はある蛾の魔物。
ゆっくりと羽ばたき、銀色の鱗粉を撒き散らしている。傍らには、昼間に見た芋虫の魔物も何体か体をくねらせていた。あれは、蛾の幼虫だったのか……。
「うわあ……」
気持ち悪い。
先行した感情は、まずはそれだった。
そして次に、どうして少女が魔物と一緒にいるのだろうという疑問。
しかし、少女が襲われてしまうのではないか、などという危機感はまったくもって湧いてこなかった。
なぜなら、少女から魔物に歩み寄り、魔物も少女に寄り添っているのだから。
「あいつは一体、何者なんだ……」
沼の向こうから少女が語りかけてきた。
距離としてそれなりに離れてはいるが、何せこの音も無いような深夜の森の中なのだ。高く通る少女の声ははっきり聞こえる。
「お兄ちゃ~ん。見ちゃったね~!」
そんなことを言っていた。
「見ちゃったって……」
やはり、少女は魔物の仲間なのか。だが魔物が人を襲わないなんてことが……。
「ちゃんと寝てないと駄目だよぉ~。私のお友達のご飯なんだから!」
「そのご飯ってのは……俺たちのことか?」
「そだよぉ~! でも、お兄ちゃんはなんでか知らないけど気持ちよくなってくれないから、そのお姉ちゃんだけでいいよ」
ふっ、と不自然な風が吹いてきたかと思うと、銀の鱗粉が俺たちの方へと舞ってきた。
「うっ……」
それを吸わないようにと、出来るだけ口や鼻を塞ぐ。
「しゅぐるしゃん、らめなんれす~。まだ結婚もしへないんれすからぁ~」
一体、何を見ているのか……。
「おい、メグル! 粉を吸うな! しっかりしろって!」
「やあん、しょんなてょころ……。しゅぐるちゃん大胆れすね~」
「おーいー!」
「えへ~」
どんなに揺さぶってもメグルは正気を取り戻さない。
あの魔物が近くにいるからだろう。どうにか、この鱗粉が届かないところまでメグルを連れていかなければ……。
「お兄ちゃ~ん? どこ行くのー」
俺は無視をして、メグルの手を引いていく。
「お兄ちゃ~ん」
うるせえ。俺はお前の兄になった覚えなんて微塵も無い。
「お兄ちゃん?」
「…………」
「無視してんなよ!」
少女の怒声と共に、沼の向こうから蛾が飛んできた。
「やろうってのか……!」
蛾が、俺たちの進路を塞ぐように舞っている。
「スグルしゃん、気持ちいいれすねー」
メグルは俺に抱き着いてきた。
「ちょ、メグル……。少し離れててくれ……」
やはり、この魔物が近くに来るとメグルの異変が悪化する。
俺はランプを地面に置き、臨戦態勢に入った。
敵の数といい、間合いといい、今は剣が適当だろう。
見れば、俺たちの周りには芋虫共も集まって来ていた。こいつらの弱点はすでに把握済みだ。
その薄く発行している顎を砕けば、魔塵となって霧散していくことだろう。
「どうなっても知らないぞ?」
それほど強敵にも思えない。
俺は、少女に忠告した。
「どうなってもしらないよ~」
少女の返事はそれだった。
瞬間、芋虫たちが牙を剥いて襲い掛かってくる。どいつもこいつも、メグル目当ての様だ。
巨大な芋虫たちを、メグルを庇いながら追い払う。
先ほどは強気に出たが、庇いながら、しかもそれなりの数いる魔物を相手するには辛いものがあった。
「くそっ……。近寄るんじゃねえ!」
襲い掛かって来るのは芋虫だけ。
あくまでも、俺たちは子供の餌ってわけか。
「あははー! 踊り食いだね! 美味しく食べてね! 私、こいつらみたいに幸せな人間が大っ嫌いなんだから! 私には幸せをくれない、自分たちだけが楽しそうにしてる奴らが大っ嫌いなんだから!」
「だからって……! こんなことしていいわけ……ないだろ!」
「私は何もしてないよぉ。私が嫌いな人間を、私の友達がたまたまお腹を空かせてたから食べてくれるだけ。たまたま、私の嫌いな人間がお友達の餌だっただけぇ~」
何がたまたまだっ。
それにお友達だと……。
魔物が友達なわけなんか――。
「んなわけあるかあ!」
一体の芋虫の頭を切り裂いた。
体液の代わりに魔力が溢れ出してくる。
「ああっ! 私のお友達ぃ!」
少女が悲痛な叫びを上げた。
「なんなんだよっ……! 嫌なら攻撃をやめさせろ!」
「駄目だよ! お友達、みんなお腹が空いてるんだから! 斬らないで、殺さないで。大人しく食べられてよぉ! ぶちぶちに千切られて死んでよぉ!」
狂ってるだろ……。
「そんなの無理に決まってんだろ……!」
俺は、傍にいたもう一体の芋虫を倒すと、メグルの手を引いて走りだした。
「メグル! リュックちゃんと持ってろよな!?」
「はぁ~い」
引きずってでも逃げてやる。
魔力を足に集中し、俺は森を駆け抜けた。
手元のランプが揺れに揺れる。
木の根で凸凹してるから、時折転げそうになる。それでも、俺はメグルを引いて走った。
「ねえー! 逃げないでよぉ! 私の知らないところで幸せになるなんて許さないからああああああぁぁぁぁ!」
森の奥からそんな声が聞こえても、脇目も振らず、振り返りもせずに走った。
外へ外へと向かってひたすらに。
ばさっと茂みを抜ける。
そこは、二股に分かれている川の傍だった。
「よかった……」
今、振り返っても追ってくる様子も無い。
「うへへ~。スグルしゃん~」
「しっかりしろ。もう魔物はいないんだぞ!」
メグルの頬をぺしぺしと叩いてみた。
「あうう……。な、何ですか?」
「何ですかじゃないだろ。さんざんふにゃふにゃになって人を困らせておいて……」
「ふにゃふにゃ? あれ、そういえば私たち、森の中の小屋にいたんじゃ……?」
「あんな所、もう二度と行かないからなっ」
「スグルさん、どうして怒ってるんですかぁ」
メグルは何も覚えていない様だった。
あんなに正気を失っていたのだから当たり前か。
「リュックはちゃんと背負ってるか? ……よし、落としてないみたいだな」
荷物もちゃんとあることを確認し、俺は川の水でランプの灯りを消した。こうすれば蝋燭の蝋もすぐに固まるし、残り火でリュックに燃え移る心配もない。ちゃんと水けを拭きとっておけば、また使うことも出来る。
「さて、今度は右の道だな」
「う~ん」
メグルは何だか納得いかない様だった。
「私たち、本当に森の中に行きました?」
「行った行った。十分すぎる程堪能したからその話はもういいよ」
「本当ですか?」
「ほんとほんと」
「じゃあ、確かめに行きましょう」
「もう嫌だってぇ!」
「何ですか、そんな女の子みたいのこと言っちゃって」
「男でもあれは嫌なんだって!」
「何があったんですか?」
「だからぁ~……」
始めから話すのも億劫だ。
「おや、君たちは確か……」
「はい?」
振り返ると、右を流れていく川の方。つまりは、対岸に大きなリュックを背負った金髪のおじさんが立っていた。
「あ。あの時のおじさんですよ」
登り始めた朝焼けに照らしだされたのは、旅立ちの頃に出会った旅商人のおじさんだった。
「あー、あの時の。お久しぶりです。あの時はいろいろ教えてくださってどうも」
「いやいや、礼には及ばないよ。初心者には優しく教えてあげないとね。これからは情報量を頂くけど」
そう言いながら、おじさんは上に向けた手のひらの親指と人差し指で丸い形をつくってみせた。
だが、すぐに訝しげな顔をして問うてくる。
「君たち、まさかその森の奥へ行ったのかな……?」
「そうですけど……」
「何も起きなかったかい?」
「何もって……。起きましたよ! 起きましたとも! ええ、とんでもないのが!」
「そうかい。無事でよかったね。じゃ」
手を振ると、おじさんは引き返していく。
「ちょっと待ってくださいって!」
「なんだい?」
おじさんは首だけ振り返った。
「おじさん、何か知ってるんですよね? 勿体ぶらずに教えてくださいよ」
「教えて欲しいのかい?」
おじさんは、また指で輪を作った。
「……俺たち、お金持ってないですよ?」
「お金も無しにどうやって食べてきたのかね」
「そりゃもう、お腹が空き過ぎて倒れたりもしました」
「お金を取るのが可哀相になってくるね……。まあ、森から出てきた君達なら新しい情報を持っているはずだ。ここは情報の交換ということにしておこう。私も、金の亡者なんかじゃないからね。それで? 森の中で何があったんだい」
俺は、おじさんに事の経緯を全て話した。
「じゃあ、女の子は確かにいたんだね?」
「はい」
おじさんは少し青い顔をしていた。
「……実は、あの森では、これまでに何人もの人間が死んでいるんだ」
「それは、蛾とその幼虫の魔物に殺されたからですか?」
「それは分からない。入って出てきた人間がいないからね」
「そう、なんですか……?」
「ああ、だから、君たちは運がいいんだよ。それとも、そのアクセを使って戦ったということは、かなり強い方なのかな? まあ、どちらにせよ森から出てきた人間は君たちが初めてじゃないかな」
「でも、どうして女の子が魔物といたんでしょうか……」
「さあ、そんなことは私には分からないね。何せ、森の中に入ったことが無いんだから。ただ……」
「ただ?」
おじさんは森の方を見やりながら言う。
「その昔、この森である夫婦が暮らしていたそうなんだ。そして、夫婦のどちらかはどこかの街で差別を受けていた。何でも、珍しい種族だったらしいからね」
「森の奥の女の子は両親が〝いた〟と言っていました。てことは……」
「まあ、そこで暮らしているってことは、そうかもしれないね。今まで生きていたとはとても思えないが」
「あ、でも女の子は茶髪でしたよ? 全然珍しくないんじゃ……」
「いや、一概に頭で種族が判別できるわけでもないんだよ。両親の種族が違えば、髪色が混ざることもあるし、どちらかだけの色が受け継がれる場合だってある。種族による性質だってそうだね」
「じゃあ、やっぱり、森にいた女の子はその夫婦の……?」
「そうかもしれないね。ただ、君が見たのは生きていた人間かどうかは分からないよ? 魔物を従えていたそうだし、人の形をした魔物の類いかもしれない。だとしたら恐ろしい事だよ。早く平和な世の中にならないものかね。最近、バステリトとルクリエイトの間では戦争があったって聞くし……。どうなっちゃうのかね」
おじさんの言うとおり、あの少女は生きた人間だったのだろうか。なぜ、魔物と共生していたのだろうか。差別される少女の両親の種族とは? そもそも、少女は話に出てきた夫婦の子供なのだろうか。仮にそうだとして、夫婦の行方は?
何もわからないままだった。
そして、それらはもう調べる手立ても無い。
この森にまた足を踏み入れない以上は……。
「まあ、森の奥には魔物を操る女の子がいたって言うわけだね。なぜか、魔物も女の子を襲わない、と。オカルト好きの仲間にでも売るとするよ。ありがとう。ただ、本当かどうかの調査が出来ないんだよねぇ……」
小さなメモ帳に書きこみながら、おじさんはどこかへと行ってしまった。
今回の出来事の真相を、俺はいつか知ることになるのだろうか。いや、それすらも未来の事だ。何も知り得ることも無く忘れ去っているかも知れない。
だが、ただ不気味だと思っていた俺が感じることはあった。
あの少女はきっと、共に生きていく仲間として魔物を選ぶほど心が荒み、それこそ深い闇の中で苦しんでいたのだろう。
彼女がいつか救われる日が来ることを願う。
ただ、救われたその時も魔物が彼女に味方をするのか。
それはやっぱり。
わからない――。




