第三頁
「うっ……」
眩しい光が、俺とメグルを包んだ。
もう、周りは石に囲まれていない。
さっきのひんやりとしたの空間とは違い、日の光は温かかった。
そして、俺を迎え入れてくれるかのように向かって吹いてくる風は心地が良い。
涼しくて、清々しい。
目前に広がった光景は、見るも広大な大草原だった。
まるでアルプス。
草花で緑などの鮮やかな色をした丘が連なっていて、遠くの方には山も見える。
見渡す方向によっては森が見えたりと、俺の暮らしていた銀色の建物が連なった世界とは異なっていた。
――異なる世界。
ここは、地球上に存在している場所なのだろうか。
それとも、同じ空間軸に存在しているパラレルワールドか。
神の創造した楽園?
魔王の住む魔界?
なんにせよ、今の俺に分かるのは、ここが俺の元いた世界とは逸した異世界ということだけだった。
ふと背後に目を向けてみる。
俺が出てきたのは、どうやらこの大草原にぽつんと位置する遺跡の様な場所だった。石造りの建築物は崩れかけていて、辺りにも柱やら倒れているからそう思った。その柱やら石の壁やらに、見たことのない文字が刻まれているのもそう思った理由だ。
そういえばこの文字、《バトルアクセ》に掘られていた文字と似ているが、何か関係あるのだろうか。
もしかすると、この世界での標準的な文字だとか?
そうなると、俺の世界での言語は通じるのだろうか……。
ああ、いや、通じていたな。
メグルとも会話できていたし、言葉を交わすのは問題ないと思う。
そうか、仮にこれが遺跡だったとするなら、古代文字的な何かなのだろう。となると、メグルたちにもこれは読めないのだろうな。
まあ、その辺は俺が気にするところじゃない。
しかし、どうしたものか……。
メグルが眠ってしまっている以上、俺はこの世界の事も分からないし、何処に行ってどうすればいいのか見当もつかない。
この世界の街はどんなものなのだろう。
広大な草原を見ている限り、原始的な暮らしをしているのが想像できてしまうが、メグルの着ている服を見ると一概にそんなこともないようだし……。
「とりあえず歩くか……」
体の疲労感は否めなかったが、俺はメグルを抱えたまま草原を歩いて行くことにした。いずれ、休めそうな所があればそこで休めばいいだろう。
それにしても、ここはどんな世界なんだろうな。
先ほどの狼のような獣が跋扈している世界なのだろうか。
それとも、あんなことはそうそう起こりうるわけでもなく、俺の運が悪かっただけなのだろうか。
だとしたら、そうであって欲しいのだけれど……。
歩いていると、それなりの確率で動物の姿を見られた。
どれも大人しそうな動物ばかりだ。襲ってきそうにはない。
見渡す限りは、自然の広がる平和そうな世界。
俺は、この世界にずっと住まうことになるのだろうか。
戻ることは出来るのだろうか。
……いや、戻らなくてもいいかもな。
元々、前の世界になんて俺の居場所はなかった。何の面白味も無く、つまらない人生だった。
きっと、いなくなった世界でも俺を心配してくれている人など誰一人いないだろう。
母さんだって父さんだって、どうせ期待通りの息子じゃなかったからどうも思っていないに違いない……。
「んぅ……」
そんな声を出しながら、メグルが起きた。
「大丈夫? すごい勢いで壁にぶつかったみたいだけど」
腕の中にメグルのメグルは、小動物のように縮こまっていて可愛い。
「スグルさん? ……えっと……?」
メグルは状況を理解していない様だった。
ここへ来てしまったばかりの俺みたいだ。
「あの狼は倒したよ」
倒したっていうより、殺してしまったのだけれど……。
でも、そのお蔭で、
「もう安全だ」
「そうだったんですか……」
メグルも安心したように一息ついていた。
しかし、次の瞬間、メグルは驚いた様な悲鳴を上げていた。
「ど、どうしてスグルさん! こんなことを!?」
「こ、こんなことって?」
俺は何かしてしまっただろうか。
眠っている女の子に何かしたいだなんて思うなという方が無理だが、俺は行動に移すまでのことはしない。
だが、メグルは俺の手の中でもがきながら言った。
「抱っこです! どうして抱っこしてるんですかってことですぅ!」
「いや、だってこれは運ぶのに仕方なく……。って、そんなに暴れたら落ちちゃうって!」
「で、でも恥ずかし――」
「あっ!」
メグルがあんまりにも激しく動くものだから、俺はメグルと共に草原へと倒れこんでしまった。
「……だから危ないって――」
倒れる寸前、思わず目を瞑った。しかし、咄嗟に両手を地面につけることが出来た。そのせいで思わず手放してしまったが、メグルは大丈夫だろうか。
ぱっと目を開く。
すると、そこには両手をぎゅっと胸元で組み、目も同様にぎゅっと閉じているメグルの姿があった。頬は染まり、口をへの字にしたまま息を止めている。
「だ、大丈夫?」
そう声をかけてやると、メグルはうっすらと目を開けた。
だが、俺の顔を見るなり、また恥ずかしそうにしてすぐに目を閉じてしまう。
「……ど、どいてくらひゃい!」
「え? あ、ああ! ごめん!」
メグルの上に覆いかぶさっている状態だということをやっと理解して、俺はすぐに退いた。
すると、少し間をおいてメグルが起き上がってくる。
メグルは、女の子座りをしたまま深く深呼吸をしていた。
「ふう……。スグルさん……初対面なのに大胆すぎです……!」
視線を逸らしながらメグルは言った。
「だ、大胆ってそんな……。俺は、ただあの場所から運んであげるために抱えてあげてただけで……」
「それが大胆なんですぅ! だって、お姫様抱っこをするってことはけっこ――」
そこまで言って、メグルは何かを思い出したようだった。
「ごめんなさい……。スグルさん、記憶喪失だったんですよね……」
「いや、まあ……」
そうではないのだが、この世界の事情を知らなければ記憶喪失も同然だろう。
一応、合わせてそういうことにしておいた。
「でも、俺も謝らなくちゃ。ごめん……。知らなかったとはいえ、なんか失礼なことしちゃってたみたいだし……」
「い、いえ、失礼とかじゃなくてあれは……。そ、それにスグルさんは助けてくれた優しいお方なので、考えなくもない……ですよ? その、なんといいますか、将来的にはお付き合いとか重ねてですけど……」
声も小さかったし、草原を吹き抜ける風の所為で何を言っているのか聞き取れなかった。
それに、何だかやけにもじもじとしている。
「あのー、トイレだったら行ってきていいよ? 俺、ここで待ってるからさ」
「ち、違いますぅ! 女の子にそんなこと言わないでください!」
「あ、ごめん……」
「もう!」
どうやら謎の恥ずかしさも治まったのか、メグルは立ち上がった。
「じゃあ、行きましょう」
「行くってどこに?」
「私の住む村にです!」
「おお、村!」
良かった。こんな辺境の地、いや、世界でも人はちゃんとした暮らしをしているようだ。
けど、村かあ。
村って聞くと、やっぱりハイテクな暮らしは期待できないんだろうなあ。
体にこびり付いた血も気持ち悪いしシャワーや何かを使いたいところだが、そうもいかないのだろう。
「メグルの村はここから近いの?」
「はい! この草原を抜けたら森に入るんです。それで森に入ったら小さな泉を目指します。今日はそこで野宿になりますね~」
「え、野宿? 今日中に着くんじゃないの?」
「はい? 休まずに歩いても、ざっと数日はかかりますよ?」
「それ、全然近くないじゃん……」
「近いじゃないですか~。山は越えないんですよぉ? 隣の街に着くまでは一カ月はかかっちゃうんですから。一週間や二週間ぐらい、なんてことないですっ」
「そ、そうなんだ」
なんだか、元の世界とここでは時間の感覚が違うようだ。
田舎と都会でのギャップみたいだな。
でもまあ、こんなに可愛らしい女の子と二人旅が出来るってのは悪い事じゃない。
こんな世界にいきなり連れて来られはしたが、そんな時に一番に出会ったのがむさ苦しい筋骨隆々のホモ男だったら耐え切れないだろう。
俺が出会えたのがこんなにも綺麗で可愛らしい女の子だったことに感謝しなきゃな。
「それにしても、メグルはどうしてあんな所にいたのかな? なんか、見た感じは遺跡みたいな所だったけど」
草原を二人で並んで歩きつつ聞いた。
「私、儀式の最中なんです」
「儀式?」
「はい。私、もう十六歳なんですよぉ。もうすぐ大人になっちゃいます~」
メグルは「羨ましいですか~」とでも言う様に誇らしげに語っている。
「十六歳で大人になるんだね」
「そうです。でも、儀式を終えないと正式な大人として認めてもらえないんですよ?」
「へえ、それであの遺跡に? 大人になるために」
「そうです! 村から一人で旅だって、遺跡に行ってルーンを書いてくることが儀式なんです! 私、一人でできたんですよ!」
今度は、「褒めてください!」と言わんばかりに自慢げに話していた。
それにしても、遺跡に文字を書いて帰るのはいいが、それを誰が証明するのだろう。無いのだとしてそれで儀式が成立するのならば、今までに絶対、途中で帰って誤魔化した奴がいるはずだと俺は思った。
しかし、メグルあまりにも嬉しそうに話すため、そんな野暮なことは言わないでおいた。
そんなことより、遺跡に書く文字というのは、あの見たことのない不思議な文字の事なのだろうか。
メグルはルーンと言っていたかな?
「なあメグル。そのルーンってこれのこと?」
俺は、メグルから貸してもらっていた《バトルアクセ》の石を指さして言った。
「そうですよー。なんでも、古い文字らしいです。昔の人が使っていたっておじいちゃんは言ってました。なんて読むのかは分からないんですけど」
聞く前に、望んだ答えが返ってきた。
そして、こう続けていた。
「でも、言葉としては読めないんですけど、一文字一文字の意味は私を含めて村の皆も知っていますよ。じゃないと、《バトルアクセ》なんてつくれませんから」
「じゃあ、普段書いたりする文字はこのルーンって文字じゃないってこと?」
「もちろんです」
なら、安心か。
ただ、まだ俺の知っている漢字やひらがなが使われているといった保障などどこにもないのだけれど。
会話の最中、ぴた、とメグルが足を止めた。
同時に、俺も足を止める。
目の前に鬱蒼とした森が広がっていたからだ。
木々は当たり前のように手入れなどされておらず、伸び放題、茂り放題だ。隙間なく埋め尽くす深緑の葉は、まるで日の光を地上に零すのを拒んでいるかのよう。
光を嫌う何かが潜んでいるのだと思わずにはいられない。
「……ここを通るの?」
「そうですよ。行きも帰りもここが一番近いんです」
その言葉通り、メグルの村とやらからはよく人が往来するのか、一応、一本のけもの道の様なものは出来上がっていた。
一面の緑の中に、茶色い地面の露出した細い道が、ところどころ途切れながらも続いている。
たとえ一本道だとしても、よくもまあ、こんな薄暗い森の中を一人で野宿しながら進んだものだ。
俺は、メグルに感心せずにはいられなかった。
そして、そのメグルはというと臆せずに森の中へと足を踏み入れていく。
「スグルさん、行きますよ~」
「あ、ああ……」
俺も、嫌だなんて駄々を捏ねていられない。
深い森の中へと入って行くのだった。