第二頁
「え――――」
一瞬、何が起きたのか分からなかったが、メグルが数メートル先の壁に激しくぶつかった音を聞いて、俺は状況を理解した。
先ほどの狼はまだくたばっちゃいなかった。
ダメージこそそれなりに負っているように見受けられるものの、起き上がり、メグルを壁まで突き飛ばすほどの体力は残っていたようだ。
低いうなり声を上げ、涎を垂らしている。
今の今までメグルのいた、俺の目の前で鋭い眼光を光らせている。
「ううっ……」
少し遠くの方で、メグルの息苦しそうな声が聞こえてきた。
恐らく、壁に激突した勢いで肺が圧迫でもされたのだろう。
俺は、狼から視線を逸らさないようにしながらも、一度だけメグルに視線を向けてみた。
壁に寄り掛かる様にしてぐったりしてしまっている。
くそっ……。
俺はどうすればいいんだ。
「…………」
どうやら出口は一つしかない。この空間の向こうの方に見えている、闇の広がっている穴だ。そこを抜ければ恐らく出口なのだろう。
このまま逃げるか?
そんな考えが俺の頭の中に浮かんできた。
狼がこちらを向く前に走り抜ければ、何とかなるだろうか。
いや、狼のスピードならすぐに俺など追いつかれてしまうだろう。
それに、あの暗闇の深さを考えると、どれだけの距離があるのか分からない。やはり、狼の足の速さを振り切るのは至難の業だ。
それ以前に、俺は助けてくれたメグルを見捨てようってのか?
俺の心だ。俺の心の中で確かにそう言っていた。
怖いなら、助かりたいのなら逃げた方がいいって。
だが、それで本当にいいのか。
いいや、良くないことなど考えるまでもない。
しかし、それでも俺は今、これまでにない恐怖を再び感じている。
生きるか死ぬかなんて、考えたことも無かった。
ただ、平凡な人生がずっと続くと思っていた。
それなのに、今ではこの状況だ。
試されているのかもしれない……。
そうだ。間違いなく、俺は試されているのだろう。
今までの俺は、チャンスが回って来ないから成功できないのだと嘆いていた。チャンスが回ってきた奴らを羨んで、時には憎んだ。
けど、そのチャンスが今、俺に回って来たということじゃないのか?
ここが何処なのかは分からない。
だがこれは、これまでのくすぶってた自分を払拭し、今ここで新たな自分へと成り変わることの出来るチャンスなのではないだろうか。
「ふ、はは……」
何だか、笑えてきた。
足が震えている。相変わらず、この状況が怖いからだ。
だが、この笑いは恐怖からくるそれじゃない。
またとないチャンスに、嬉しさが込み上げてきたのだ。
もしかしたら、俺はここで死ぬのかも知れない。もう、元の場所には戻れないのかも知れない。だったら、それでいいのかも知れないな。
俺は死んだんだ。
以前の俺は死んだんだ。
俺は、今までの卑屈な俺を――。
「――殺してやる!」
俺は、震える足に鞭打って駆け出した。
いくら褒める程の性格じゃない俺だからといって、人の心が無いわけじゃない。
メグルを助けるのなんて当たり前だろう。
しかし、この短い時間で考え抜いた結果、俺一人でも逃げ切れるのかどうかわからない相手に、メグルを背負って逃げ出そうなんて不可能だと感じた。
だから、俺はこいつを倒してみせる。
メグルの渡してくれた《バトルアクセ》とやらが力を貸してくれれば、俺にもやれない事は無いはずなんだ。
だから、俺はやる!
「間に合え……!」
駆ける俺が向かう先は一つ。
ぐったりしているメグルの傍らに落ちている刀だ。
武器があれば、勝率はぐっと高くなる。
しかし、狼も黙っちゃいないようだった。
前だけを向いて走っている俺には見えないが、背後から獰猛な呻り声が迫ってくる。
追いつかれるのも時間の問題だ。
ましてやこの距離。
時間という程の時間は無い。
僅か数秒のリミット。
俺は人生で初めて、命を懸けて全力疾走した。そして気が付く。
さっきまではふるふると震えていただらしない足が、今では羽が生えたように軽やかに地面を蹴っているということを。
これが、《バトルアクセ》の力なのだろうか。
風のように走り抜け、あっという間に刀まで手を伸ばすと、俺はそれを握り、構え、向かってくる狼を振り返った。
すでに猛然と直前に迫ってきている鋭い牙。
一体、その牙でこれまでにいくつもの命を奪ってきたのだろうか。その中に、人は含まれていたのだろうか。
考えている暇などなかった。
「このやろおッ!」
見た目以上に重い刀を、俺は向かってくる狼の脳天目掛けて振り下ろす。
しかし、振り上げるまでが遅かったからだろうか。
振り下ろしは自分でもかなりのスピードが出たと思ったのだが、それ以前に、狼はまるで予測していたかのように一歩後ろへと飛び退き、そして再び突っ込んできた。
――交わされた。
そう思った時には、刀は地面に叩きつけられていた。
手が痺れている。力が入らない。
もう一度振り上げるか構えるには、狼の動きが早すぎる。
……ここまでなのか?
いや、違うッ!
それでは、これまでの俺と何ら変わらないじゃないか。
そう決意した俺の動きは、俺の知っている俺の動きではなかった。
恐らく、これも《バトルアクセ》の力なのだろう。
俺は、一直線に突っ込んで飛びかかってきた狼をぎりぎりでかわし、狼の脇を取った。
そして、先が地面につけられていた刀の刃を、手首を捻って素早く上に向け直す。
ちょうどその上を通過しようとしていた狼の腹目掛けて、半円を描くように力の限り振り抜いた。
直後、狼は綺麗な切り口で真っ二つになった。
上半身と下半身に分かれ、その間から大量の血液を飛び散らして地面に落ちる。
真っ二つになった後もまだ息があったようだが、それもすぐに絶えた。
対して、俺は息を切れ切れにその場に突っ立っていた。
「はあ……はあ……」
浴びた血を拭い、刀を握っていた手からは自然に力が抜けていく。
「やっ……た……」
生き延びたという安堵と、今の今まで殺し合っていた恐怖が、まだその体に残っていた。
尋常では無い汗をかき、眠たささえ感じる脱力感。
何よりも、初めて虫以外の生き物を、それも明確な殺意を持って殺してしまったという罪悪感。
たとえ、自分が生き残るために抗った結果だからといって、刀で動物を真っ二つにするだなんて考えたことも無かった。
やってやったというよりは、殺ってしまったのか……。
だがやはり、一方的な殺しじゃないというのが、僅かな救いではあった。
そこに倒れているメグルを助けるためにも必要なことだったのだ。
仕方ない……。仕方ない…………。仕方ない………………。
俺は、獣臭い血液がかかってしまったメグルの顔から血を拭ってやった。
人間らしく、あどけなさの残る顔だ。
俺と同い年か、もしかすると年下の可能性もある。
そんな女の子が、あんな獰猛な獣と日々戦っているというのだろうか。
あの刀で。
血濡れになって落ちていた刀に目を向けると、刀は青い光となって霧散した。そして、その光はメグルの付けている《バトルアクセ》の石の中に吸い込まれていった。
どうやら、あの刀も《バトルアクセ》の力が具現化したとかそんな様な物らしい。
ともかく、荷物が減って少しは身軽になったな。
俺は、メグルを抱きかかえると出口らしき穴に向かって進んだ。
闇が口を開いた様な空洞。
空気は冷たく、足音と吐息だけを耳が音として認識する。
メグルのすーすーと眠る音も聞こえてきたから、何だかこの状況でも怖くはなかった。
状況が状況なだけに、今は生きているって強く感じる。
生きていながら、死んだような生活をしていた今までとは大違いだ。
しばらく歩いていると、だんだんと明るくなっていくのに気が付いた。
出口はそれほど遠くはないようだ。
外の世界は一体、どんなところなのだろう。
もしかすると、俺は本当に誘拐されていただけで、出てみれば案外、見たことのある街並みだったりしてな。
そうだとすると、残念な様な安心するようなよく分からない気持ちになるな。
まあ、答えはこの先にある。
恐れずに行ってみよう。この先に何が待っているのかを確かめるために。