母の振袖
いつもの様に娘を連れて買い物に出た。華やかな振袖を着たお嬢さんたちが目につく。懐かしさが込み上げてきて無意識に微笑する。
「ママ、なんだか楽しそう」
「そうね…。香ちゃん、今日は何の日か知ってる?」
「知ってるよ。成人の日だよね。だからキレイな着物を着たお姉さんたちがいっぱいいるんでしょう?」
「そうよ。ママも昔、あんな着物を着てお祝いしてもらったのよ」
彼女たちは振袖に身を包んで、一様にうれしそうな笑顔を見せている。大人になったことの喜びか、それとも、自慢の晴れ着に満足したものなのかは知る由もない。ほんの数年前に私も同じ顔をしていたのかもしれない。
あの振袖を始めてみたのはちょうど私が今の香くらいの歳だったと思う。父の転勤で引っ越しの準備をしている時だった。母が懐かしそうにその着物を眺めていたのを覚えている。
「キレイな着物だね。お母さんの?」
「そうよ。お母さんが大人になったお祝いにお婆ちゃんからもらったのよ」
「私も大人になったら、貰えるの?」
「そうね…。でも、今はもっとキレイな着物がたくさんあるから菫には新しいものを買ってあげるわよ」
「ううん、私、この着物がいい」
「そう?菫がそう言ってくれるとお母さんは嬉しいわ。お婆ちゃんもきっと喜んでくれるわね」
「本当に?じゃあ、私、早く大人になるように頑張る」
「そうね!じゃあ、ニンジンもちゃんと食べないとね」
「そ、それは…」
その時の私の顔を思い出すと、今でも可笑しくなるのだと母は言う。
成人式を翌年に控えた夏の日だった。私は大学の友達と振袖の展示会に出掛けた。友達はみんなレンタルの着物を着るのだと言っていた。私もそうするつもりだった。そのためにアルバイトをしてお金を貯めていた。
展示会では最近の流行の柄や鮮やかな色使いの振袖が所狭しと展示されている。ちょっといいものは既に予約済の札がつけられている。
「やっぱり、この時期だともう遅かったのかもしれないわね」
そう言いながら悔しそうな顔をしているのは小学校の頃から仲良しの冴子。冴子はピンク色の明るい柄の物が着たいのだと言っていた。けれど、冴子が気に入ったものは殆どが予約済の札が付けられていたのだ。
「ねえ、菫はどうするの?」
「どうしようかな…。どれも派手なものばかりで私に似合いそうなものはなかなか見つからないわ」
「何を言っているのよ!馬子にも衣装って言うでしょう。着てしまえばそれなりになるから心配ないわよ」
「まあ!失礼ね」
「私も冴子の言うとおりだと思うわ。誰がどれを着ても、それなりに綺麗に見えるわよ」
そう言って冴子の肩を持ったのは理沙。理沙とは大学に入ってからの親友だ。
「そう言う理沙はどれにするのよ?」
私はふくれっ面で理沙に言い寄った。
「私、お母さんが着た着物を着ることにするわ。柄は少し古臭いんだけど、物はいいものなのよ」
「えっ?」
理沙の言葉に私は小さいころの記憶がよみがえった。そう言えば…。
結局、冴子はご希望のピンクではなくて鮮やかな赤が生える柄の物を予約したのだけれど、私は理沙の言葉を聞いて、もう一度あの着物を見て見たいと思った。
「菫も決めちゃえばよかったのに。遅くなればなるほどいいものは無くなっちゃうよ」
「うん、私もお母さんの着物を着ようかな…。って」
「なんだ!そういうのがあるんだったら、わざわざこんなところに来ることもなかったじゃない」
「うん…。でも、さっき、理沙がお母さんの着物を着るって言うまではすっかり忘れてしまっていたのよ…」
私はあの日以来、その着物を目にしていない。
早く大人になりたかった私は食事のたびに鼻を摘まみながらニンジンを食べた。
「ちゃんと食べたよ。もう、大人になれる?」
「まあ!偉いわね。でも、まだまだよ。ちゃんと鼻を摘ままなくても食べられるようにならないとね」
「えーっ!」
その時の私がどんな顔をしていたのかは判らないけれど、お母さんはなんだかとてもうれしそうに笑っていたわ。
でも、結局、どうしても好きにはなれなかった。私はついにニンジンを食べることを諦めてしまった。その頃には自分がどうして嫌いなニンジンを食べようとしていたのかさえ忘れてしまっていた。そして、母も私の食事にニンジンを入れるのを辞めてしまったように思う。
私は未だにニンジンが食べられない。
理沙と冴子は食事をして帰ろうと誘ってくれたのだけれど、私は用事があると言って二人とは会場で別れた。そして、家に電話をした。
「はい、大塚です」
あのころに比べれば相応に年を取った母なのだけれど、この声だけはずっと変わらないように思う。いつもこの声を聞くとホッとする。
「あのね、お母さん。今夜は私が夕食を作るわ」
「まあ!どういう風の吹き回しかな?」
「たまにはいいでしょう」
私は近所の商店街で買い物をして帰ることにした。小さいころ、よく母に連れられてきた商店街。最近は大きなスーパーで買い物をする人が多い。けれど、母はずっとこの商店街で買い物をしている。
「菫ちゃん、大きくなったね。今日はお使いかい?」
この年になってお使いかいと言われるのには苦笑してしまう。八百屋のおじさんは気さくな人だ。通り掛かると必ず声を掛けてくれる。それが煩わしくてわざと避けて通っていた頃もあった。
「はい。今日は私が夕食の用意をしようと思って」
「そうかい!それにしてもいつ、ニンジンが食べられるようになったんだい?」
「えっ?」
驚いてしまった。私がニンジンを食べられないことを知っているなんて。戸惑っている私をよそに、八百屋のおじさんはそっと袋の中に赤いパプリカを入れてくれた。
「サービスだよ。ウチのおっカアには内緒な」
おじさんは奥に居るおばさんの方をチラッと見ると、人差し指を口の前に立てて、小さな声でそう言った。
私は更に驚いてしまった。今夜のメニューがカレーなのは誰にでも判るだろう。私が驚いたのは赤いパプリカだ。母のカレーには赤いパプリカが入っている。今思えばきっと、私が食べられないニンジンの代わりに入れていたのかも知れない。
地元の商店街というのはこういうところなのだ。
改めて歩いてみると、なんだか暖かくて居心地がいい。そんな商店街を後にして私は家のドアを開けた。
「ただいまー」
「お帰り。着物はどうだった?いいものは見つかった?」
「んー…。いいものは大体予約済の札が付いてた」
「あら、そう…。残念だったわね。でも、他の展示会もあるから」
「うん」
私はそう返事をして食事の支度に取り掛かった。何を作ろうとしているのかなんて、材料を広げた時にバレバレだ。でも、母は黙って居間で待っている。臭いに誘われて父も書斎から出て来た。
「今日はカレーか…。あれっ?菫が作ってるのか。こりゃ、楽しみだな」
カレーなんて誰が作っても同じ味になると思ってた。途中で何度か味見をしたけれど、母が作ったカレーとはどこかが微妙に違うような気がした。とは言え、これはこれで悪くはない。私はカレー皿に三人分のカレーを盛ってテーブルに運んだ。
父が早速、一口食べた。
「うん!美味い」
その言葉に私は安心した。考えてみれば家族のために食事の支度をしたのは初めてだった。自分用の夜食などはよく作ってはいたのだけれど。そして私は母の方を見た。母は私の更に盛られたカレーを見ながら嬉しそうに微笑んでいる。
「ニンジンを入れたのならパプリカはいらなかったわね」
「やっぱりそうだったんだ。八百屋のおじさんがね…」
私は八百屋でのやり取りを母に話して聞かせた。母は驚いた表情も見せずに頷いている。
「さあ、食ーべよっと」
私はスプーンでニンジンをすくった。そして、口の中に放り込んだ。もちろん、鼻なんか摘まんだりしない。口に入れた途端、甘い味が口の中に広がった。
「甘い!」
思わず声に出してしまった。ニンジンがこんなに甘いものだとは知らなかった。その時、私は本当に大人になったのだと思った。
「ねえ、お母さん。あの約束、覚えてる?」
「ええ!覚えているわ。菫が大人になったら着物をあげる…。ちょっといいかしら?」
そう言って母は席を立った。私は後について母の部屋に行った。そこにはあの時に見せてもらった振袖の着物が広げられていた。
落ち着いた淡い青を基調にしたものなのだけれど、展示会で見た着物とは一味も二味も違う鮮やかな花柄がとても新鮮に思えた。
「お母さんの着物!素敵…」
「あなたに電話を貰った時にこんな予感がしたわ。きっとお婆ちゃんも喜んでくれるわね」
母はそう言って仏壇の写真に目を向けた。
来年、私は祖母と母と同じ振袖を着て成人式を迎える。
翌年の成人式には思わぬおまけが付いて来た。その頃付き合っていた大学の先輩、裕信が成人式の朝、家を訪ねてきた。裕信は既に大手の広告会社に就職していた。私が成人を迎えた時に渡すと決めていたのだと言う。裕信は小ぶりだけれど形のいいダイヤモンドの指輪を私の左手薬指にはめてくれたのだ。さすがに、式場へは付いて来なかったけれど、私は同期の女の子たちから質問責めにあって大変だったことを覚えている。
裕信とは私が大学を卒業してすぐに結婚した。そして間もなく香りが生まれた。
三代続いた着物は今でも家にある。けれど、傷みが激しく、香りが大人になった時にはもう着ることが出来ないだろう。けれど、想い出だけは受け継いで欲しい。
「ねえ、ママ!私、あんな着物が着てみたい」
香が指したお嬢さんが着ていた振袖に目を止めた私はハッとした。淡い青を基調にした落ち着いた感じの振袖だった。もちろん、私が着たものとは明らかに違って、今風の柄がデザインされている。けれど、私が着たあの振袖だって捨てたものではない。きっと、今でも見劣りはしないはずだ。そうね。きっとそうよ。ならば、この子が大きくなった時のためにリフォームしておこう。私はそう決心した。
買い物を終えて商店街を出たところで私たちを呼ぶ声が聞こえた。振り向いた香が手を振りながら大きな声で叫んだ。
「パパ―!」
買い物袋を引き受けてくれた裕信さんはもう片方の手を私の手に添えてくれた。
日が暮れて、北風が強くなったけれど、香と裕信さんの手に包まれた私の手は世界で一番暖かいのに違いない。




