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苦手な方はご注意ください。

その腕に焦がれて

作者: 樹広佐恵子

その腕に焦がれて


 ずっと片思いを続けている。けれど、告白しようと思わなかったし、相手はノーマルだ。

幼馴染で、親友というポジションを失いたくないとずっと思ってきたのに、その相手から意外な頼み事を受けて佐倉井捺(さくらいなつ)は驚きを隠せず、もう一度聞き返した。

「……男と付き合う方法を教えて欲しいって、本気で言ってるの?」

「当たり前やろ。こんなん冗談なんかで言えへん」

 思わず声が小さくなってしまうのは仕方ない内容だろう。

 目の前で両手を合わせ頼んでいるのは、捺がずっと想い続けている親友の高野利久(たかのとしひさ)だ。

 さっきからチラチラと視線を感じるのを受け止めながら、捺はため息をつく。

 お昼のランチを目当てに来ているビジネスマン達の中で、かなり自分たちは浮いている存在なのかもしれない。

 利久の赤みを帯びた少し柔らかい髪質に、グレイの瞳。他国の血を受け継いでいるせいか、どことなくまとっている空気の色が違う雰囲気さえ纏っている様な錯覚をさせる。

 しかも、一見日本人には見えないのに、関西弁を使うのは母親が関西出身だからだ。関東に来てからの方の年月が長い筈なのに、一度染みついたものが取れなくなっているらしい。

少しタレ目ぎみな目を困らせている相手に、捺はもう一度息をついた。

自分よりも体躯のいい相手が、身を縮ませているのは忍びなく、また、目が閉じられるほんの少し前、眼鏡の奥の瞳が真剣さを帯びているのを捉えてしまい、内心胸が僅かに疼いた。

 今は昼間で、場所は都内の賑わっているダイニングカフェの中。

 頼みごとをするのには向かない場所だけれど、利久の職場がこの近くだから足を運んだのだ。そして、今はこれといった仕事もない捺は呼び出されたとしても断る理由がなかったけれど、内容が内容なだけに素直に頷き辛かった。

(まあ、こんな事言えるのなんて、僕しか思いつかなかったんだろうけど…ね)

 ゲイで、男しか好きにならないと昔に伝えてあった。それでも友情は変わらないときっぱり返してくれて、受け入れてくれたのは正直ありがたかったが、まさか好きになったとは思ってもみないだろう。

 おごりだと言われ、頼んだ店自慢の料理の味もよく分からないまま、話を促す。

「いや、そこまではいけなくても、仲良くなれる方法があったら教えて欲しいねん。このままずっと取引先でだけの関係にはしたないし。なあ、頼むっ」

「頼むって言われても、どんな感じの人かわかんないんじゃ、対処のしようがないんだけど」

「あ、それなら、これ持ってきたから」

 鞄の中から出されたのは、一冊のタウンガイド。街中にフリーで置いてあるものだ。中に掲載されている記事は今の旬の話題や、その地域に密着したものばかり。そのタウンガイドの営業や、たまに企画をしているのが利久だが、今回仕事関係で訪れたデザイン事務所で出会った相手に、一目惚れしたらしい。

 グラビアに写っているのは、眼鏡をかけた温厚そうな人物で、自分達よりも年上だろうというのが伺える。掲載されている簡単な経歴には捺でも知っている大企業のものばかりで、デザインセンスの鋭さも知る事が出来た。

(こういう人が好みなんだ…こいつ)

 改めて、自分が持っている才能との違いに、きゅっと唇を軽く噛む。

 片や一線で活躍しているクリエーター。捺といえば、カフェでバイトをしているフリーのデザイナーだ。もちろん実績なんて何もない。

 写真の人物に比べ、捺の顔立ちは、少しつり目がちな目が印象的で、勝気さ醸し出している。髪もふわりとしていた五十嵐と正反対の真っ黒。短めな髪の毛の長さが、よけい童顔に輪をかけている気がする。

 見た目だけだと、大学生にみられなくもない。

 勝手に比べて勝手に落ち込んで。それでも、表情に出すわけにはいかないので、捺は困り果てている利久に手を差し伸べた。傷つくのは自分自身だとしても、困っているのを見捨ててはおけない。

「それじゃ、交換条件でもいい?」

「条件?」

「そう。最近告白されている人がいるんだけど、正直困ってるんだよね。一歩間違えたらストーカーに成りかねないし、その人を諦めさせるのを手伝ってくれたら、僕も利久の片思いを手助けしてあげるよ」

「確かに捺なら、ありそうな話やな。そやったら、俺は何したらええん?」

 とっさに交換と口走ってしまったけれど、本当に頼んでいいのだろうかと悩みながら、捺はコーヒーで喉を潤した。それでも後には引けない……むしろ引きたくなかった。こんなチャンス二度とこないのだから。

(いい…よね)

 こくりと喉を鳴らす。

「……恋人の役をしてくれないかな。ほら、すでに他人のものだって思われたら諦めるかもしれないしさ」

「俺と捺が?」

「そう。そうしたら、僕がこの人…五十嵐さんの好みを利久に教えてもらって、それをどう生かしたらいいか教えてあげるから」

 今度はこっちが頼み事をする番になる。さっきとは正反対の構図で捺が利久に手を合わせてみる。明るめの声のトーンにしたのは、本気さを隠すためだ。

捺は「この通り」と頼み込む。

「自分がええんやったら、協力したるけど。でもほんまにストーカーやったら、警察に行くんやで。一人が嫌やったら俺もついていったるし」

 本気で心配する利久に内心謝りつつ、捺は大丈夫だからと小さく首を振る。とにかく交換条件をのんでくれればそれでいい。嘘をついてまで繋ぎ止めておきたい本心を隠し、利久が仕事に戻る直前に二人はお互いに協力するのを約束して別れた。

「ほんと、馬鹿かもね」

 カフェを出て地下鉄へ向かう道のりを歩きながら、ぽつりと呟く。

 相手の幸せを応援するなんて、自ら失恋を決定づけさせるだけで何の得にもならない。むしろ自虐的なだけの行為に、捺は微苦笑を浮かべた。

 友達としてならずっと一緒にいられる。このポジションを失くしてしまう方が恐怖なのだと自覚し、気持ちを切り替えていった。

 それに、一時的でも恋人同士という関係になれる。偽りの関係だとしても、確かにその時は幸せな気分を味わえるかもしれないと、捺は自分に言い聞かせた。






 捺がアルバイトしているカフェ「ミスルト」に、従兄の仁科治が姿を見せたのは、十時を少し過ぎた時間だった。捺の雇い主でもある橘修二と軽く挨拶を交わした後、すぐに捺のもとにやってくる。

 クローズの看板を出していても気にしないのは、橘と仁科が大学から十年弱の付き合いがある友人でもあるからだ。

 スツールに座り、用件を訪ねた相手に捺は数日前の出来事を掻い摘んで話す。

「それで、その役を俺にしてくれってわけか。でも、それで本当にいいのか?」

 聞き終わった後、数瞬の間を置き、涼やかな目元を困ったと微かに下げながら、やめておいた方がいいと言外に滲ませた。

 自分でも厄介な頼みをしていると思う。それでも、その間だけは利久が一緒にいてくれるのだ。

「仁科、もっと言ってやれ」

 橘がグラスを拭きながら、鳶色の瞳を向け容赦なく呆れた声を出す。さっきも似た様な事を言われ、捺は橘に噛みつくように言い返した。

「いいじゃん別にっ。だって、とっさに言っちゃった事はもう取り消せないんだしさ」

「はいはい。それはもう聞きましたよ。お前が本当にそれでいいなら構わないけど、顔には後悔してるってしっかり書いてあるのに、じゃあそうしろって助言する奴がどこにいるんだよ」

「別に、シュウに背中押してもらわなくてもいい」

「押す気もないけどな」

 終わりのない掛け合いを切ったのは仁科で、改めて構わないのかと確認される。偽りとはいえ利久と恋人同士という関係性を持てるのは今しかない。だから、その時間が欲しいんだと告げれば、仁科はただ分かったと頷いて承諾してくれた。

「いいのか?」

 橘が心配するのも理解出来る。

「捺は一度決めたら、最後まで突き通すからなあ。それは小さい頃から知ってるし、今更、条件取り消せないだろ」

「だよね。だから、この通りお願いします」

 幼い頃から自分に甘い従兄は、詳しい内容をもっと教えて欲しいと椅子に座りなおした。捺が男しか好きになれないんだというのも伝えてあるので、想い人が男性だというのは理解済みだろう。

 仁科は自分の性癖を知っても、態度を変えなかった数少ない親類だ。

 利久から預かったタウンガイドのページを開く。なるべく見たくない、一方的な恋敵の姿に胸をチクリと痛めつつ、捺は雑誌を仁科に差し出した。改めて見ても、朗らかな柔らかい雰囲気を醸し出している。

実際に会って話した利久が惹かれるのも無理ないだろう。

 簡易なインタビューも掲載されていたが、その答え方から性格もなんとなくだが想像出来てしまう。温和だけど頭の回転が速く、きちんと適格な仕事をこなす。きっとあまり外れてはいないだろう。

 そうでないと、若干三十歳弱で事務所の所長なんて勤まらない。

「これが、捺が好きな奴が好きになった人…か。年齢が離れてるけど、それでも構わないんだ」

「高野利久。それが僕の好きな人の名前。…利久にとっては、性別も年齢も関係ないみたいだよ。僕も純粋にすごい人だって、これ読んで思ったし」

 捺は再度、五十嵐咲哉と名前を刻みこむ。普通男同士というだけでもハードルが高いのに、それすらも考えられないくらい惚れたのだろう。利久も悩んだ結果、捺に相談しにきたというのは容易に想像がついた。

(応えたくないけど、力になってやりたいって言ったら、またシュウや治兄は呆れるかな)

 捺は苦しさを殺しながら、これからの事を仁科に話し始めていった。



  ◇ ◇ ◇



「あの人がストーカー?」

 こそりと話し掛けてきた利久に、捺はこくりと頷いた。

 今日は土曜日の夜。明日が休日というのもあり、ミスルトは満員に近い状態だったけれど、閉店間際にはようやくまばらになり、休憩がとれたのが少し前。

 それでも、片付けが残っているのでこの後が更に忙しいんだろうと思いながら、カウンターテーブルに粒のチョコレートが三つ乗った小さな皿を差し出す。

 キューブ型をしたミルクチョコレート。ミスルトが食後に出すちょっとしたサービスだ。甘いものは人の心を癒す。この食後のサービスが気に入っている女性客が結構多くて、毎回差し出す度に常連客からはお礼の言葉を頂いている。

 提案をしたのは捺だが、すぐさま取り入れる橘は、やはり客商売に向いているのかもしれない。

 捺がそっと視線を投げかけた相手は、にこりと表情を和らげながらコーヒーに手をつけた。利久の存在をきっぱり無視しているのは、あえてそうしてくれと頼んだからだ。

 改めてみると、利久とはタイプが違うが、仁科もかなり女性にうけるディテールをしている。すっきりと涼やかな目元に笑みを乗せるだけで安心感を与える。

さっきから女性からチラチラと視線を浴びているのに本人も気が付いているに違いない。

「仕事が終わるまで待ってるんだって。ほんとに困ってるんだよね。だから利久、今日はマンションまで僕を送って行ってね」

「俺がか?」

「だって、やってくれるんでしょ。恋人役」

 それが条件だと突きつけてみる。その代りに、どうやったら五十嵐の興味を惹くかを考えてあげるからと続ければ、かまへんでと二つ返事だった。

少し待って貰う事になると告げて捺は仕事に戻っていく。

 客が利久と仁科だけになり、閉店時間もあるのでクローズの看板を出そうとドアに近づけば、仁科が捺に話しかけてきた。

「今日、このまま待っていってもいいかな」

「困ります」

 にっこりと愛想よくしているけれど、きっぱりと拒否する。うっかり気を抜くとすぐに身内感覚に戻ってしまうので、あえて敬語で接すると決めたのだ。

「僕を待ってくれてる人もいるので、仁科さんが居たとしてもしょうがないですから」

「それってあの彼かな。さっきから心配そうにこっちみてるけど。あ、手でも振ってみようか」

 有言実行で、相手を煽る様にひらひらと楽しげに軽く振ってみる仁科に多少驚きつつ、ちらりと利久の反応を伺った。彼氏役を引き受けてくれると頼んでいたが、本当に実行してくれるのだろうか。

 自分たちの掛け合いに、スツールから腰をあげた利久がこちらに向かってくる。営業用のスマイルを浮かべているのは、穏便に済ませたいのと捺との約束があるから。その後すぐにすっと利久の手が捺の肩に回る。

(…え、手がっ)

 咄嗟の状況に身構えてしまう。恋人同士という設定とはいえ、まさか、利久がいきなり本当に行動に移してくるとは正直考えていなかった。

(……でも、ちょっと期待してたのかも)

 二人に気づかれないようにふるりと、ほんの微かに頭を振る。密着している利久には、動揺しているのが仁科の存在に捺が緊張しているんだと誤解されたらしく、小さな声で耳元に大丈夫だからと囁かれた。

 だから、黙って二人のやり取りを見つめ続ける。

「今日は俺と帰る約束してるんですよ。えっと…」

「仁科です。病院で整形外科医を。そちらは佐倉井君とどういう関係だって聞いてもいいかな」

 仁科の口元が微かにあげられる。状況を楽しめるまでの神経は持ち合わせていないので内心ハラハラしていると、利久も笑みを浮かべながらはっきりと、付き合っていますからと答えてくれた。思わずトクリと鼓動が跳ねてしまう。偽りの関係だとしても、こうやって言葉にされると重みが違うんだと実感させられた。

「でも、俺諦め悪いんだよ。付け入る隙がないのなら、作ってしまう主義だからさ。今日は帰るけど、また来るよ。じゃあ、佐倉井君」

 利久に軽く視線を向けてから、レジを済ませに行く仁科を眺めた後、揺さ振りをかけるのも上手い従兄の演技力に感嘆しつつ、隣に立つ利久に視線を投げかける。

 橘がレジ打ち終え、カランとドアが閉まるのを確認すると、ふっと利久の腕から力が抜けるのが分かって捺は微苦笑した。それでもまだ離されない手から伝導してくる熱に、どんどん高鳴りそうな鼓動をぎゅっとこぶしを握って宥めさせた。

「なんか牽制かけられてるって感じやったな。けど、あの人ほんまに捺の事好きなんやな、思いっきり見てたし」

 出て行ったドアを未だ見つめながら利久が呟く。

 それは従兄だから当たり前。きっと、今頃捺の提案に改めて呆れているに違いない。しかも、かなりに。

「捺、今日はもう帰っていいぞ。高野君待たせる事になるし」

「え、でも片付けが…」

「一人でも大丈夫だから。その分、明日に頑張って貰うからな」

 いいからと、もう一度橘に念を押されて、私服に着替えた後すぐに店を出る。そのまま利久を送りに駅へ向かおうとしたのだが、利久が捺の得意なケーキを食べたいと言い出したので、結局二人揃って捺のマンションまでの道のりを歩いていた。

「今から作るし時間かかるよ。それでもいいの?」

「かまへん。その間仕事の資料整理してるし。最近忙しいから、ちょっと休憩したかってん」

 葉桜が新緑になる季節。この時期になると新入社員の指導から少し解放されるが、四月から止めていた企画を急いで進めないといけないらしく、ここ暫くは休日返上で出社していたらしい。

 街を歩き、新規の店があると直接営業をかける、一つの会社や店をピックアップして掘り下げて記事にする。利久が担当しているのはその二つで、新規の店を開拓するのを新人と組んで取り組んでいたのが四月初旬。ピックアップの企画は、ここ一年ばかり任されているみたいだった。

 それならばと、近くのスーパーで材料を買い、マンションに戻ると捺は適当に過ごしていいからと言い残してキッチンへ向う。

 デザインの仕事はしばらく不安定で、決まった依頼もない。

 フリーのデザイナーになってからまだ一年目。会社を辞めてからあっという間だった気がする。まだまだ学びたい事も沢山あったが、それでも未練はなかった。

(さてと、作りますか)

 思い出しそうになった過去に蓋をして、気持ちを切り替え材料を計測していく。

 薄力粉にベーキングパウダー。砂糖に、卵。

 それに、利久が好きな甘さの濃いチョコレートパウダーを入れるのが今回作るシフォンケーキであり、利久が特別気に入っているお菓子だった。

 材料を混ぜ合わせ、慣れた順序で手を進めていく。こうやっている時は、ただ作る事に没頭出来るから好きかもしれない。何の感情も動かずに、出来上がっていくのを待つ作業だけど、オーブンに入れて冷ます時間になると現実に意識が引き戻されていった。

「後は待つだけ、と」

 焼きあがった香りと出来栄えに満足して、利久が作業している部屋に戻れば、相手は横になって寝ていた。作って欲しいと頼みながら、食べる本人はすっかり夢の中だ。

 机の上に散らばった資料を手早くまとめて端に寄せる。

 床にも何枚か落ちていた紙を拾い、それも資料の上に乗せた。

 捺は膝をついて、そっと利久の顔を覗き込む。少しだけ眼の下にクマを見つけ、本当に疲れていたんだなと実感させられた。なのに、こうやって条件を受けてくれた事に感謝しつつ、同時にこれからの事を考えると、どうしようかと悩んだりもしてしまう。

 成就するのかどうかは、五十嵐の性的志向にもよるし、好みにも寄るだろう。恋愛ばっかりは、性別という壁がつきまとってしまうから。

「……でも、もし付き合うことになったら、どうするんだろうね」

 ぽつりと落としたのは、自分に対してなのか利久に対してなのか。

 答えが出ないまま、それでも出した条件をちゃんとこちらも返していかないといけない。

 気持ち良さそうに眠っているのを起こすのが躊躇われて、もう少しだけ寝顔を見つめる。そっと指先を伸ばし、癖のある赤みがかった髪の毛を軽くひと房つまんで唇を寄せていく。けれど次の瞬間、一瞬だけ身じろいだ体にぴくりと動きを止める。

「…ん、出来たんか?」

「あ、うん。あんまり気持ち良さそうにしてるから、起こすかどうしようかと思ってたんだよね。ここに寝ぐせとかついてるし…」

 それは、ちょっとした言い訳。

「そっか。悪かったなあ。最近全然睡眠時間足りんくて。けど、やっぱり捺の傍やと安心するんやな、気が緩んでまう」

「それは良かったよ。ケーキ出来たけどすぐ食べる?」

「もちろんや。それを楽しみで来たんやからな。やっぱり捺が作るシフォンが一番美味いって思うわ。この前、会社で貰ったやつ食べたんやけど、ぼそぼそしてて美味くなかってん」

 思い出したのか、利久が微かに苦笑いをした。

 それに比べて捺が作るのはしっとりとしていて、甘みのある味。それが利久には好評らしく、すぐに用意するからと言えば、いそいそと資料を鞄にしまう。

 それを眺めながら微苦笑を浮かべ、捺はほっと一息ついた。

(もう少しだけ、この時間に浸らせて貰ってもいいよね)



  ◇ ◇ ◇



 仁科と利久が初めて接触してから、週末の度に利久はきっちりとミスルトに顔を出す様になった。

 相変わらず仁科の演技は続いていて、最近は手を握ったり腰を抱かれたりしているので、さすがにやりすぎなんじゃないかと言ったばかりなので、今日は大人しくしていた。スキンシップの度合いが激しくなってくる度に利久を挑発しているのは明らかで、そこまでしなくてもいいのにと嘆息してしまう。

(だから、こうやって毎週来てくれるんだけどね)

 平日はさすがに仕事があるからと、しきりに謝ってくる利久に、ツキッと胸が痛む。そろそろ本当に力にならなくてはと、捺はコーヒーを飲みつつ、仕事をしながら捺が終わるのを待っている利久の傍に寄り、エプロンから取り出した二枚のチケットをテーブルの上に差し出した。

「これ、よかったら使ってよ。知り合いから貰ったんだけど、五十嵐さん興味ありそうじゃないかな。最初は個展とか美術館とか、そういった所がいいんじゃないかなって思ったんだけど、デザイン事務所っていっても、あの人代表なんでしょ。だったら毎日が忙しそうだし、それだったら植物園とかでゆっくりさせてあげるのもいいんじゃない? それに、ここでちょっとした生け花展があるから、何かのアイデアのヒントになるかもしれないしさ」

「けど、これ捺に来て欲しいからくれたチケットやろ。俺が使うわけには…」

「いいんだよ。ここのバイトもあるし、仕事も一件入ったから、ほんとに行ける時間がとれないし、それじゃチケットが可哀想でしょ。それに、誘うきっかけ作ってあげてるんだよ、僕は」

 急遽、大学時代の知り合いから頼まれた会社のパンフレットの表紙の納期が結構短い為、時間がとれないのも事実だった。

「そうやな。そやったらありがたく使わせてもらうわ」

「よしよし、それでいいんだよ」

 念押しすると、ようやく納得した利久がチケットを受け取る。

 誘う相手を思い出しているのか、利久の眦が微かに下がっていく。

「あんまりしまりのない顔してると、五十嵐さんに呆れられるよ」

「そんなに、にやけた顔しとった?」

「僕が呆れるくらいにはね。さて、今日は仁科さんも帰ったし、利久も疲れてるなら帰ってゆっくりした方がいいと思うよ」

 さすがにかなり無理させているのは自覚している。カフェは憩いの場所なのに、その場所にまで仕事を持ち込みさせてしまってるのだから。

「なあ、そやったら捺はどこに行きたい? お礼にってわけじゃないけど、こうやって約束守ってくれとるし」

「え、でも十分してもらってるよ。今日もだけど、いつも仁科さんから助けてくれてるでしょ。だから、それで十分だよ」

「けど、それやったら俺が納得いかんねん。なあ、なんか欲しいもんとかないか?」

 突然言われても特に浮かんでこない。別にそういうつもりで渡したものじゃないので、どう返していいのか悩んでしまう。

(欲しいものって、急にそんな事……)

 物というより、出来れば時間と場所が欲しいと急に思い浮かぶ。けれど、それを口にしてもいいのか迷っていると、もう一度利久が訪ねてきた。それに背中を押される様に、最近行きたいと思っていた場所を伝えれば、利久の顔が一瞬ぽかんとする。やっぱり言わない方が良かったかと後悔したけれど、次の瞬間「かまへんで」とくすくす笑いながら返された。

「けど、遊園地ってこの年で聞くとは思わへんかったわ。捺って、アクションや絶叫系好きなタイプやったっけ」

「違うよ。今、期間限定で『音楽と空間』っていうイベントがやってるんだ。それが見たいなーって思ってたんだけど、ああいった場所に一人で行くのって空しいでしょ」

「せやな。確かに一人でってのもさみしいしな。で、そのイベントっていつまでやってるん?」

「今月末までだったかな。店の出勤だけど、シュウに頼み込んでみるから、来週の日曜とかいい?」

「かまへんで。詳しい事は橘さんとの交渉が終わってから、また言ってくれたらええし」

「うん、ありがと」

 休憩時間が終わり、再び接客の仕事に戻ったけれど、どこか浮足立っているのは気のせいじゃないだろう。橘に休みが欲しいと頼んだ時も、よほど必死だったのか微苦笑されてしまうぐらいだった。

 行きたいのも本当で、お互い社会に出てから一緒に外で行動する事が難しくなっていたので、余計に嬉しさが募ってしまう。

(利久と見たいのも本当だけど、もう一つ確かめたいんだよね)

 あれから数か月。自分の手から離れていったものが、どういった形になっているのか知りたいという気持ちが芽を出していく。

 捺は、そっと息をつくと心の中で日曜日までの日にちを数えていった。






 朝から晴天に恵まれた日曜日に、捺は思いっきり背伸びをして深呼吸をする。

 行楽地として定番になっている場所でもあるので、駅についた途端、人の波にはさすがに辟易してしまったけれど、ゲートに着く頃には楽しみの方が勝っていた。親子連れやカップルが多い中、男二人というのもどうだろうかと最初は懸念したが、よくよく見れば自分たちと似たり寄ったりな二人組も結構歩いていた。

 利久も久々にアトラクションを見て、乗りたそうにしている。日曜日もたまにスーツを着ていたが、今日は完璧にオフモードになっている為に軽装なので、捺も利久も開放的な気分になっているのかもしれない。

 ゲートをくぐって賑やかな場所へ足を進める。

 ポップコーン売り場からしてくる甘い香り。街中の喧噪とは違い、心地よい賑やかさ。

「晴れて良かったなあ。やっぱり遊ぶ時は天気も良い方がええし」

「そうだね。結構早く着いたから、アトラクションも一時間待ちくらいでいけそうだよ。利久の乗りたいやつがあったんじゃないの?」

「けど、自分行きたい所あるんやろ?」

「そっちは暗くならなかったら大丈夫だから、先に思いっきり遊ぼうよ。貴重な休みを満喫しないとね」

 入口に置いてあった地図を広げて、二人で回るルートを決めていく。絶叫系は外せないやろと楽しそうに話す利久に、捺は小さく微笑んだ。大学時代でも、遊園地で遊んだ記憶はない。ここ数週間の間にぐっと縮んだ距離に最初は戸惑っていたけれど、今ではこの関係が心地よかった。

 今は朝の九時。これから利久が一番行きたがったアトラクションに向かい、その後は待ち時間があまりなさそうなアトラクションものから攻めていくと決め、利久が地図を片手に歩きだした。

「ほんと、子供みたい」

「ええやろ、別に。大人が楽しんだら悪いって法律、ここにはないんやし」

「まあね」

 一つ、また一つと乗っては並んで、並んでは乗るのを繰り返す。意外にも落下するものに弱いんだと、捺は自分で初めて知る事になったのだが、にやりと笑う相手にバカにされたくなくて二度も同じアトラクションに挑んだりもした。

 待ち時間に話すのは、最近観た映画や雑誌。雑誌に掲載されている常連の話で盛り上がったりもした。

「さすがに、乗り物三個連チャンはきつかったか。飲み物買うてきてやるし、そこで座って休んどき」

「うー…なさけない」

「まあまあ、そういう事もあるて。じゃ、ちょっと待っといてな」

 すっかりベンチにへばった捺に対し、利久が優しく声を掛ける。近場にあるフードショップに歩いて行く後姿を眺めながら、今日ここに来て本当に良かったとつくづく実感した。利久自身は自覚していないからいいけれど、ミスルトに通っている間に利久を気に入った女性客がちらほらいるのを捺は気づいていたから。

 もともと目立つ容姿をしているのだ。すぐに気づいて、勝手に妬いたりした時も少しだけある。

(自覚がないのは良い事だって、ね。…でも、五十嵐さんはどうなんだろう)

 年下で同性とはいえ。性格も大らかで気が利いて、そして男としても魅力はあると思う。仕事に対しても真面目だし、柔軟性があるから営業としてもやっていけるのだ。

 一見温和に見られるけれど、性格は直情型の自分と違いすぎていて。

「ほら、これ飲んで休み」

 冷たいスポーツドリンクを手渡され、こくりと喉を潤す。

 この後どこに行くと訪ねた利久に対し、イベント会場と答える。遊園地に設けられた一角に、数週間から数か月と不定期な催し物が開催されるのだが、今回の目的でもある『音と空間』には見たい作品があるんだと話す。

「そういえば、利久には会社辞めた理由話してなかったよね」

「何や、唐突に」

「うん、ちょっと話したくなっちゃった。今から行く場所にある作品の中に、僕がデザインしたやつがあるんだ。……でも、名前は違う人で登録されてるんだけど」

「それって……」

 すぐに分かったのか、盗作かと尋ねられた。実際にはそうなんだろう、会社内でコンペをしていたが、まったく同じデザインを考え付くなんて不可能だ。捺は小さく頷いて、カップを両手で包みこむように持つ。

 相手は数年先輩だったが、捺と感性が似ていて入社当時は可愛がってもらっていた。同じものを作る仲間という事もあり深夜まで色々な討論を交わしたりもして、頼もしい相手に信頼を寄せていたのだが、それが裏切られたのが、作品のデザインを見せられた時だった。

 その企画から内部まで、すべて捺が考えたものと酷似していたから。先に出したのが向こうだったので、同じものを提出する事が出来なく、そのコンペを捺は辞退した。

「ねえ、行こうか」

 先にベンチから立ち上がり、捺はにこりと微笑んだ。

 悔しいという気持ちは徐々に収まり、空しいという感情にすり替わっていったのはいつだっただろうか。そして、今はどんな風に自分がデザインしたものが完成されているのかを確かめたかった。

 会場に向かう人は疎らだが、興味がある者が楽しげ小さなコンテナがいくつか備え付けてある場所へと足を運んでいた。

 緑に囲まれた一角。

 そこの中央には細かい細工が施されたカラクリ時計が立っていた。一時間ごとに音楽で時を刻むのだろうと推測する。

 捺はグランドピアノが置いてある場所へと足を進め、その隣にある木琴の形をしたものに手を伸ばした。素材は特殊なガラスで作ってある為に、実際見た目は鉄琴に近いかもしれない。形は曲線をモチーフにしているので、柔らかい印象を与えるそれに、少しだけ胸が熱くなる。

「それって、どうやって音鳴らすん?」

「触れると鳴る様にちゃんと細工してあるんだよ。音階もきちんとつけてあるだろうし」

 そして、押したところがライトで光るという特色もちゃんと生かされていた。

 全部自分が考えた通りに作られているのに嬉しくて、そしてどこか寂しくもあった。提供者の名前は自分の元同僚であり、尊敬していた相手だから尚更かもしれない。

「こういう楽器って、小学校とか中学校なら珍しくなくて、あんまり触ろうとしないんだけど、どうしてか大人になったら触りたくなるんだよね。響く澄んだ音が心地よくてさ、そんな風に小さい頃は感じなかったなーって」

 ポン、と音を鳴らす。

「俺、楽器とかあんまり縁なかってんけど、木琴とかはむやみに叩いたりしとったな。あの高い音が好きやってん」

 隣に並んで、利久もポンと音を響かせた。

 そのまま何度か鳴らして、

「これは、お前の作品や」

 と、呟きが落とされた。

「…利久?」

「ちゃんと考えて、音で人がどうやって楽しめるか考えたんやろ。その為に寝てなかったりしたんちゃうんか?」

 確かにそうだ。

初めて自分で必死に考えて、アイデアを出すために費やした時間だってある。それこそ、今考えると力が入りすぎていたんだなと思えるくらい、あの時は自分に出来る精一杯の力を出していた。

「ここにある名前は確かにお前やない。けど、俺はこれが捺の作品やってちゃんと認識したで。そういう奴が一人でもいたら、ええんちゃうか」

「…そうだね」

 思わず目頭が熱くなって、捺は唇をきゅっと噛みしめた。

 誰かに楽しんで欲しい、そう願いながら費やした日々が無駄じゃないと肯定された様で。そして、それが利久で良かったと心から感謝した。

 隣には同じ型のものがもう一つあり、そっちは高さが二分の一くらいだった。きっと、子供にも楽しめるように配慮されたものだろう。これは自分じゃなくて、先輩だった彼のアイデアかもしれない。

 アイデアなどをトレースされた時、もっと食いかかっていたら、今も会社をやめていなかったのだろうか。そして、その相手と喧嘩をしていたのだろうか。

 今は全てがもしも…という仮定でしかないけれど、もしかしたら向こうも焦っていたのかもしれないと、ふと思い浮かんだ。社員全員の企画が通らないから、社内でコンペが開かれたわけであり、いわば周りの全員がライバルという事になる。実績もそれなりに積んでいた先輩だったので上からの期待もあっただろうし、下から追い抜かれるというプレッシャーもあったのかもしれない。

 だからといって、やってはいけない手段に出たのは、やはり相手の心が弱かったのだろう。そのせいで捺は傷ついて会社を辞めたが、それもまた弱さだったんだと今なら素直に認められる。

 それはきっと、隣にいる彼の言葉に救われたからだ。

(知っているのが一人でもいればいいんだ)

 頑張ったなと、優しく見つめられ小さく頷いた。

「ねえ、お兄ちゃん。これ、さわってもいい?」

 下から聞こえた声に目線を下げれば、四、五歳くらいの女の子がわくわくしながら話し掛けてきた。

 指しているのは、小さい方だ。

 捺はしゃがんで目線を合わせにっこりと微笑むと、いいよと伝える。

 その途端、ふわりと女の子が笑って、ポンポンと楽しげに音を出していく。

「楽しいか?」

 訪ねた利久に対し、相手はうんと笑って、いろいろ叩いて音楽を奏でた。自分たちでも知っている童謡を弾いているのに、自然と頬が綻んでいった。

 誰かが楽しんでくれたらいい。そのコンセプトが達成されているのを目の当たりにして、捺は実現してくれた同僚に感謝を心の中で述べる。「大人が楽しむ」という目線でしか考えていなかった捺に対し、もう一つのエッセンスである「子供の目線」を加えられたのは向こうの企画力だから。自分では、この子に笑顔をあげる事は出来なかっただろう。

 他にもある音楽楽器を触ったり、楽しんだりしているうちに、気がつけば陽が大分傾いて、空がほんのりと赤く染まりだしていた。

「ねえ、今から観覧車に乗らない?」

「男二人でか? なんや空しいなー」

「いいじゃん別に。あれだけ乗りまくったんだし、最後にはゆっくりとした乗り物でもさ」

 幸いあまり混んでいなく、思ったよりも早く乗る事が出来た。ゆっくりと上昇していくのに窓の外を眺め下を向くと、だんだんと人物や建物が小さく見え始める。視線をさっきまでいた場所に向け、あの女の子は満足して帰っただろうかと考えた。

 だんだんと濃い赤に染まっていくグラデーションの空。あと数時間もしたら、今日が終わっていく。

「今日はありがと、利久。正直見るまでは、どんな風に受け止めたらいいんだろうって思ってたから」

 ぽつりと落としたのは、ずっと胸に抱えていたものだった

「ああ、さっきのデザインの奴?」

「うん。でも、来てよかった。今ならあの人の気持ちが少し理解できたからさ。どこの業界もそうなんだろうけど、仕事をしている限り下にいつか追い越されるかもしれない怖さってあるんだなって。あと、仕事があるかないかっていうのもね。クライアントの要望に応えられなければ、その時点で他の誰かに仕事が回されてしまうでしょ。それって、一種の恐怖なんだよね。……きっと、あの人も一生懸命だったんだって。あ、でもだからといって全部が許されるとは、全く思ってないから」

 捺にした行為は、許されるものじゃない。

 きっと、それを一番理解しているのは、やってしまった本人だろう。

「そやな、ちっとばかし阿保やったわけや」

「だね。でも、やっぱり先輩だって思ったよ。辞めた今でも、ちゃんと僕に教えてくれたから」

 いろんな角度から視点を変えて、見つけたり拾ったりしたアイデアを取り入れる。

「もっと色んなものを見て、聞いて、勉強しないと」

「そうやな。その意気込みがあったら、前に進めるで」

 違う会社を探すという選択肢もあるけれど、捺が選んだのはフリーという仕事の道だった。足場も不安定だし、正直、人脈だってあまりない。それでも、年月をかけて自分なりのデザイン力を磨けていけたらと……切に思う。

(…五十嵐さんも、そうだったのかな)

 立ち上げた事務所を成長させる為に、必死になったりしたのだろうか。斬新だったり、周りに溶け込むようなシックなものだったり。場所によって、しっくりとくるデザインされた作品を生み出す彼も、年月を重ねながら試行錯誤して今の地位を築いたのだとしたら、想像以上の苦労をしただろう。

「そろそろ下についてしまうな」

「十五分って結構短いんだね。あー、でも今日は本当によかった。帰りだけど、ご飯食べて帰る?」

「ちょうど晩飯にはええ時間やし、そうするか」

 もう少しだけ一緒にいたいという想いを抱きながら、捺は利久に笑いかけた。



  ◇ ◇ ◇



 締め切りよりも数日早く仕上がったと捺が知人に電話で伝えると、会社まで持ってきて欲しいと頼まれた。

 橘には、閉店までには戻るからと告げ店を抜けて地下鉄に乗る。渡すだけなので、すぐに用事が終わり、ミスルトに戻ろうと駅に向かう途中、ここが植物園の最寄り駅だったなと、ふと気づいた。

(すぐに帰る方がいいんだけど、ちょっとだけなら)

 いいよねと、地下鉄の出入り口を通り過ぎ捺は植物園へ足を向けていく。チケットを渡したとはいえ、興味があったのは本当なので、覗くだけ覗いてみようと決めて園内地図を探す。今の季節はちょうど緑が映えるので、周りは新緑の色が鮮やかに空間を彩っていた。

 仕事もひと段落つき、捺は両手を上に伸ばして軽く深呼吸をする。

 こんな風に、一人でゆっくりとした時間を過ごすのは数週間ぶりだった。いつもは、利久や仕事関係で頭が多少オーバーワーク気味だったので、心が疲れていたのかもしれないと自覚する。

「こんな事なら、デジカメ持ってくれば良かったかも」

 デザインや仕事に関して新しい刺激があるかもしれない。それを残す事が出来ないのを少しだけ残念に思う。

 捺は園内の案内図に書いてある丁寧な順路通りに回ろうと決め、傍に置いてあったパンフレットを手にとった。

 土曜日で、しかも今日は陽があるので暖かいのか、園内には楽しげに植物を鑑賞している団体やグループがそれなりにいて、不意に一人でいるのがほんの少しだけ寂しくなる。それはきっと遊園地の件があるからだろう、あの時は隣に利久がいてくれたから。

「さて、行きますか」

 中央にある森林公園で、捺がチケットを貰ったイベントがやっていたので、それは最後に行くと決める。

 植物園にくると、日々見かける木々や花にも名前があるんだと、当り前の事に気づかされる。どこの国からきたものか、どの季節に一番見ごろなのか、一つ一つの看板を読みながら名前の由来、色の種類を眺めていると、だんだんと心が穏やかに静まっていく。

 温室を出た所で腕時計を見て時間を確認すると、入ってから一時間以上経っている。そろそろ戻らないと、夜のディナーの時間の仕込みに間に合わないだろうと思い、捺は慌てて森林公園に足を向けた。

 森林公園の一角に大きな白いテントが張られており、その中で生け花展がやっているみたいだった。

 生け花といっても、床の間に飾られている様なものではなく、もっと大きくダイナミックなものが多く、テント内に入った途端目に飛び込んできた大きな花瓶と、それに活けられた花の瑞々しい鮮やかさに目を奪われる。赤を基調とした場所、黄色を基調とした場所と、色別に分けられているので、統一感があり見やすくなっていた。

 さすがに週末というのもあり、客の入りは繁盛しているらしく、人の波は多い。

(ほんとに撮りたかったなー…)

 この斬新さを残しておきたい衝動に駆られる。歴史のある華道とは違う、また新しい形。それを見た感動を切り取っておけたらと少しだけ後悔したが、来週半ばまでこの展覧会はやっているみたいなので、店の定休日にもう一度足を運んでみようと心に誓う。

 足早にいろいろ眺めていると、ふと聞きなれた声を耳が拾った。

(……まさか、ね)

 そんな偶然あるわけない。

 ちょっと前に考えていたから、似た声に反応しているだけだと思いつつも、そっと数メートル先に視線を向けた。

 捺の思い過ごしだという期待はあっさりと裏切られ、楽しげに笑いあっている二人が瞳に映し出される。それなりに距離があり人の壁もあるので、微かに笑いあっている声ぐらいしか耳に届かないけれど、楽しげな雰囲気なのは察する事が出来た。利久が作品に添えられている説明書きを指しながら、何かを伝えているのに、相手はうなずきながら微笑んでいた。

(あれが五十嵐さん、だよね)

 人に安心感を与えるような柔らかい笑み。

 ずきりと胸が痛んで、捺は右手で左胸のあたりを掴んだ。立ち止まっている捺と、次へと進んでいく二人との距離はどんどん離れていく。

 やがて見えなくなっても、しばらくその場から動けなくて、捺はぎゅっと唇を噛む。

 まさか会うなんて思わなかった。不意を突かれてしまい、動揺した気持ちはなかなか収まってくれなくて、それまで浮足立っていた気分が一瞬にして沈んでしまう。

「……とにかく帰らなくちゃ」

 小さく呟きを落とす。

 帰って橘に遅くなった事を謝って、それからいつもの様に働いて。

 現実に見た二人を頭から追い出したくて、これからの行動を胸の中で反芻しながら、捺はようやくゆっくりと一歩を踏み出していった。






 あれから一週間。

 今でも捺の出した条件をきっちりと守っている利久は自分の休日返上でミスルトを訪れていた。

 客が利久しかいないという事で、橘も捺が利久と話しているのを黙認してくれている。

 あの光景を見る前なら毎週日曜日を楽しみにしていただろうと、捺は相手に気づかれないようにそっと息をついた。

「でな、やっぱり仕事人間やなって思ってん。持参してきたデジカメで興味ある被写体を次から次へとバシバシ撮って、資料に出来るかもしれんからやて。もちろん、今日は楽しむ為に来たって言うてくれてんけど、結局最後には仕事がらみの話になってもうて」

 五十嵐さんらしくて、結構尊敬したんだと利久の表情が和らぐ。

(なんだよ、その顔……。まったくしまりがないんだから)

 そうなんだと、思わず声のトーンが少しだけ低くなってしまう。

 嫉妬してるなんて馬鹿な話だ。きっかけを作ったのは自分なのだから……。

「けど、きっと捺も同じ事するんやろうなて、あの時に思たな。前に、いろんなもの見て勉強せなって言うてたやろ。なんでか分からんけど、五十嵐さんと捺て少し似てるかもしれへん」

 自分の名前を出されて驚いてしまう。

「僕とあの人が?」

「そうや。向上心の強さとか、そういう徹底したいっていう姿勢が、なんとなくやけどな」

 優しげに笑う利久の表情が、あの日と重なって見えて。

 きっと思い出しているのは先週の出来事だろう、相手の口元が綻んでいるのが分かって、捺の心に僅かに苦味が差す。それでも、同じ事をすると思われた事で少しだけ嬉しくなってしまうのも事実で、それだけ利久が自分の性格を理解してくれているのが、どこかくすぐったかった。

「ああ、それでな悪いねんけど来週はちょっと、ここに来れんかもしれんねん」

 両手を合わせて謝ってくる相手に、どきりとした。

 利久から日曜日に行けないと伝えられ、もしかしたらその日は五十嵐と一緒に過ごすのかもしれないと、ついつい邪推してしまう。

 お互い社会人で、時間を合わせるとしたら休みを調節するしかない。だから、その貴重な休日を好きな相手に使うのは、普通の思考だろう。

「この前の植物園のお礼に、今度は五十嵐さんからの誘いがあって、それが日曜日と重なってな」

「…へえ、どこに行くの?」

「隣の市にある美術館。そこで一年ほど続いている企画の『季節をモチーフにしたギャラリー』があるらしいけど、それが好評になって結構それ目当てに来る客も多いらしいねんて。ちなみに、そこに五十嵐さんの事務所の新入社員が毎回出品し続けているんで、こっそり見に行って評価してあげようとかって」

 推測は確実なものへと変化していく。

 それでも、次の日曜日にはちゃんと守るからと付け足してくれる相手の優しさに、まだ縋りつこうとしている自分が本気で情けなかった。仁科への牽制といっても、仁科だって毎週暇じゃない。最近は二週間に一度のペースになっていたので、ついつい条件だという事を忘れてしまいがちなのは捺の方だった。

「別にいいよ。それに、向こうも忙しいみたいで、今日だって来てないしさ。だから、利久も僕の事は気にしないで、五十嵐さんとの時間を楽しんできなよ」

 嘘つき。本当は、気にして欲しいくせに。

 笑顔の下に隠した本音。それでも、幸せな相手の気持ちを壊したくないというのも、捺のもう一方で育っている本音でもあった。どうしても思いどおりにならなくて、ままならないのが感情というものらしい。

 利久はコーヒーを飲み乾すと、ジャケットを羽織って鞄にパソコンを仕舞う。そろそろクローズの時間が近づいているのに気づき、捺も仕事に戻ろうと意識を切り替える。これから表に出している看板を仕舞い、軽く店内を掃除して、明日の準備を確認する。それが日々のルーチンワークだ。

「ほな、あの人に何かされたら、ちゃんと連絡いれるんやで」

「大丈夫だって。だから、気にせずにね」

 念押しをして利久がミスルトから出ていく。その後姿を眺めた後に一瞬で消える笑み。さっきまでの明るさもすっかり潜めてしまい、ついつい溜息がこぼれてしまった。

 その後、自分がする用事を済ませると、キッチンから声がかかる。

「どこまで我慢するつもりなんだ、お前は。自分で自分をとことん傷つけてどうするんだよ」

 まったくと呆れつつ、気づけばカウンターにハーブティーが置かれていた。ほんのりと甘いハーブの香りに、強張っていた心がほっと安らいでいく。

 店内の掃除はそれを飲んでからでいいと、捺を手招きすると橘はスツールに座らせた。

 向かい合う形になり、心配を掛けてしまっている事態を素直に謝れば、今更だよと軽口で返された。それでも、こうやって気遣ってくれる相手に感謝する。

 一口飲んだお茶は、香りがもたらしている通りに甘みがあり、沈んでいた心を癒してくれた。あたたかい飲み物は、暗く冷えた気分を浮上させてくれるとどこかで聞いたことがあるけれど、それは事実かもしれないと捺はゆっくりと味わってハーブティーを飲んでいく。

「……ねえ、僕って馬鹿な事してるって思う?」

「だから、最初からそう言ってただろ。後悔するって。でもやめなかったのは捺だよな」

「そう…だね。だって、ちょっとでもあいつの傍にいたかったんだもん」

「ま、好きな相手と一緒にいたいって気持ちは分かるけどな。でも、これで本当に向こうが好きな相手とくっついたらどうするんだよ、本当に」

「……どうするんだろうね」

 カップを両手で包み込む様に持つ。

 じわりとした温かさが心の芯にまで沁みて、思わず涙腺が緩みそうになった。

 きっと笑って、よかったとか言うんだろう。……でも、成就してしまった後に、平常心で二人を見る事がはたして出来るのだろうか。

 もし、ぎこちなくなってしまったら、利久が訝しがる。追及されてしまったら、それこそどうしたらいいか分からなかった。

(先に何が起こるかなんて、まだ知らないのに想像でこれだもんなー…)

 捺は、もう一度、

「ほんと、どうするんだろ……」

 と呟き、唇を微かに震わせて俯いた。



  ◇ ◇ ◇



 日曜が近づく度に気が漫ろになってしまい、カップを一つ割ってしまった。

 他にも接客中に多少案内が遅れたり、注文を危うく間違えそうになったり。

 さすがに、これでは仕事にならないからと、橘から強制的に二日間の休みを言い渡されて今は自宅で何をするわけでもなく、ただごろごろと寝ている状態だった。

 ちょうど日曜日も休みにしてくれていたので、ちゃんと気分を切り替えてくる様に言い渡されている。自己管理をするのも働く者にとっては大事な事だ。だからといって、心のコンディションを簡単に立て直すのは難しいのも理解している橘だから、こうやって休暇を与えてくれている。

(…甘えさせてもらってるよね)

 今日は土曜日。

 明日が休みという客にとって、夜のディナーを楽しみにしている者が多いので、きっとこれからの時間帯は忙しいだろう。いっそ働いていた方が忘れられていいかもしれないと思い直し、携帯を鞄から取り出した途端着信音が鳴る。

 とれば、慌てた様子の利久からだった。

『なあ、そっちに俺が持っていった資料とか残ってへんか?』

 唐突なものに、捺は首を傾げた。

「資料…、仕事してたのって結構前だよね?」

『そうなんやけど、急に使う事になって……、家や会社探しても見当たらんかったし、今日ミスルト行っても橘さんは見かけてないって言うしで、もしかしたらそっちに置きっぱなしのまま違ごたかなって思って……、そやっ』

 耳元で大声を出されて、思わず携帯を耳から放してしまう。

「…なんだよ、いきなり」

『ミスルト行ったら、今日休みやって言われて、体調でも崩したんちゃうかって心配しとってん』

「……ちょっと風邪気味だっただけ。季節の変わり目で油断してたんだ。ほらカフェって客商売でしょ、マスクして接客するのもどうかってシュウに言われて、早めに治す様に休まされただけだよ」

『なんや、そっか。それやったらゆっくり寝ときや。あ、でも少し寄らせてもらうけど、ええやろか…』

 すまなそうな声に、よほど困っているという様子が汲み取れた。

 絶対に必要なものだろう。捺が来ていいからと告げると、改めて謝られた。とりあえず、通話が終わると部屋の机の上や横を探してみる。雑多に積んである建物の雑誌や情報誌。デザインソフトの専門書など、それらは全部捺の仕事関係だ。

 自分のものじゃないのを探すのは簡単な様で、結構大変かもしれない。

 捺もつい先日までネットで資料集めをして、かなりの紙を使用している。もしその中に紛れ込んでいたら、と数枚見た所で明らかに自分に関係ない資料が挟まっていて、多分これが探し物だろうと見当をつけた。

(分かりやすい所に置いておこう)

 改めて散らかった部屋を眺め、小さな溜息が洩れてしまう。

心が疲れていると、片付けるという行為すらだんだんと面倒くさくなるらしい。

 とりあえず、自分の分はきちんと分類していこうとテーブルの上にある紙の束に手をつけようとした時、来客を告げるチャイムが響いた。

「え? もう?」

 携帯からだったので、すぐ近くから電話をしていたのかもしれない。

 もう一度鳴らされたチャイムに捺がドアを開けると、立っていたのは利久ではなく、仁科だった。相手は、すっと捺の目の前に箱を差し出す。

「これ、橘からの見舞い。っていっても、体は元気なんだろうな。たまには作る側じゃなくて、食べる側にまわってもいいんじゃないかってさ」

 手渡されたのは、最近人気があるケーキショップのものだった。

「今は『仁科』じゃなくて、『治兄』として、部屋にあがらせてもらうからな」

 にっと笑い、お邪魔しますと部屋に入っていく。部屋の惨状を見て仕事中だったのかと聞かれ、ついこないだまでねと答えた。従兄弟とはいえ兄弟みたいな接し方をしているせいか、仁科の前では気楽でいられる。だから、ついついほっとしてしまい、迷惑をかけている事を改めて謝った。

「気を使わせてばっかりでごめんね。シュウにも、治兄にも沢山迷惑かけちゃって。……あ、一緒に食べるよねこれ。今、紅茶でも……」

 テーブルに箱を置き、キッチンへ向かおうとすれば、強く腕を引かれてぎゅっと抱きすくめられた。

 抱擁の優しさ。腕の暖かさに……どうしてだか泣きたくなった。涙腺が刺激され、目頭が熱くなってしまう。

「全部、橘から聞いた。……我慢しなくていいから」

 堪え切れなくなった涙が頬を伝い落ち、唇が微かに震えた。

 利久の想いの矛先が五十嵐に向かっている以上、捺に希望はない。友人という位置で我慢出来たらどんなに良かっただろう。ずっと保ってきた均衡を崩したのは自分自身で、一度崩れたものを元に戻すのは、もう不可能だった。

 好きという感情を吐き出したい衝動に駆られる。けれど、それは絶対にしてはいけない。

(でないと、利久に会えなくなる……っ)

 消したい感情。殺してしまいたい想い。

「何してんねん……」

「とし…ひさ……?」

 低い声にはっと意識が現実に引き戻される。

 ついさっき電話をしていたのを、すっかり失念していた。玄関が開く音にすら気付かなかった己の散漫さを、内心で叱咤する。

 気まずい雰囲気が流れる中、仁科の腕がぎゅっと捺を抱きしめる腕に力を込める。

「悪いけど、佐倉井君は俺と付き合う事にしたから」

 ぎくりと体が強張ったけれど、今、口を開けば泣いていたことが利久にばれてしまう。

(尚兄、なんで……)

「……冗談言うなや。捺はあんたに付きまとわれて困っとってんぞ」

「でも、現に今は違う。こうやって腕の中にいてくれる。そうだよね、佐倉井君」

 いっそ楽になった方がいいのだろうかと一瞬で考え、捺は思わずこくりと頷いて、利久に仁科の告白を受け入れたと誤解させた。……いや、その方がこの胸の痛みから解放されるかもしれないと、現実から逃げたのかもしれない。

 その後に生まれた沈黙が短いのか長いのか。

 しばらく続いた静寂を破ったのは利久の低い声だった。

「別に……捺がええんやったら、それでかまへん。…とりあえず、資料取りに入らせてもらうし」

 自分たちの脇を利久が素通りする。

机にあったものを鞄にしまい、また玄関に戻ってきたが、何も声をかけられなかった。無言のまま出て行った利久を目で追ってしまいそうになり、捺はぎゅっと目蓋を閉じる。

「……これで良かったのか?」

「別にいい……」

「ますます拗れさせたけど、それでもいいんだな、お前は」

 まあ、けし掛けたのは俺だけどなと、仁科が苦笑しながらくしゃりと捺の頭を撫でた。

 仁科としっかりと抱き合っていたのを見られてしまった。

 誤解したまま呆れられて。そして、いっそ振り回すだけ振り回した自分の事を見放してくれたら……どんなにいいだろうか。五十嵐に見せていた笑顔を思い出す度に、苦しい想いをするのはもう疲れてしまった。

 どうして利久の好きな相手が女性じゃなかったんだろうか。それなら、ノーマルだというので諦められる。いや……諦めようと、ずっとずっと努力出来たのに。

 今まで友人としていられたのは、異性しか対象じゃないと思っていたからだ。なのに、五十嵐は同性。だったら自分にも可能性があるかもしれないと錯覚して、あの遊園地の件でますます意識するようになった。

「本当にいいんだな」

「……」

「だったら、俺がこのまま捺にキスしても構わない……?」

「……え?」

 今、なんて……?

 仁科のセリフにぴくりと肩が揺れる。慌てて体を離そうとしても、腰にまわされた手ががっちりと捺を拘束して動けなかった。

「一度も考えなかったんだろうな、捺は。どうして俺がストーカー役を承諾したのか、毎週ミスルトに通っていたのか。高野君に仕事がある様に、俺にだって仕事はある。その間にある貴重な休みを使ってまで協力したのは、……お前が好きだからだ」

 ずっと前からだったんだけどなと続けられて、ただ動揺するしか出来ない。

「治兄…」

「だから、この機会は利用させて貰うからな」

 首筋に唇がそっと落とされる。肌に冷たい唇の感触がして、身をふるりと震わせた。

 抵抗したくても、体に力が入らなくて出来ない。

 自分の鈍感さから、二人を傷つけてしまったという罪悪感。そして、従兄弟だと思っていた相手からの告白に思考が思うように動いてくれなくて……再び視界がぼやけてしまう。

(何やってんだよ……僕は)

 利久の純粋な気持ちを利用して、仁科の好意にただ甘えて。

「……ッ」

 涙が後から後からぽろぽろと溢れてきてしまう。

「泣くほど嫌なのか? それとも、彼の事まだ諦められない……?」

 もうどうでもいいと投げやりになっていたくせに、図星を言われてますます涙腺が壊れていく。ひくりと嗚咽が漏れて止められないでいると、さっきまできつく抱きしめられていた腕が、今度は柔らかく捺を包み込んだ。宥める様にぽんぽんと背中を軽くたたきながら、仁科が髪に唇をそっと寄せる。

 さっきとは違う、優しい雰囲気にただ慰められる。

「俺の方に気持ちを向けさせてみせるって、強気でいけたらいいんだけどな」

「…ごめ……、治兄……」

 自分の心なのに、全然コントロールが出来ない。

「とりあえず、落ち着くまではいるから、……泣くだけ泣いていいぞ」

 利久も、仁科も。どちらも、結局傷つけてしまっている。困っているからと手を差し伸べてくれた友人の好意を無駄にして、告白してくれた仁科の気持ちを拒絶して。

 どうにか呼吸が落ち着いた頃、とにかく顔洗ってこいという仁科の言うとおり洗面所に向う。

「そのまま風呂入って、今日はもう寝た方がいいな。…それと、悪かった」

「……謝るのは僕の方だ。治兄…ごめんね」

「まだ返事は聞かない事にするから、よく考えてくれよ。でないと、俺が可哀想だからな」

 明るく返されて、少しだけ気持ちが浮上する。仁科の優しさに感謝しながらも、未だに心は揺れ動いたままだった。これからの利久との関係や仁科との関係を真剣に考えないと。

 それが捺に出来る精一杯の償いだった。






 次の日の日曜日。捺はミスルトで仕事を始めていた。

 橘には、もう一日休んでもよかったんだけどと言われたが、何かに集中している方が気が紛れるからと、積極的に仕事に専念する。いつも通りに過ごす方が気分的にも落ち着く気がするから。

 けれど視線がどうしても、いつも利久が座っている席に向かってしまう。それはここ一か月ちょっとでついた癖だった。

(…今日は来ないのに)

 きっと今日は、五十嵐と美術鑑賞を楽しんだに違いない。

「と、集中しなくちゃ」

 常に人が出入りしている店にも「穴」という時間がある。ディナーの時間が終わり閉店までの時間がそうなのだろう。さっき女性客二人が出て行ってから、店内には橘と捺しかいなかった。

なので、ちょっとした瞬間に気が緩んでしまいがちになる。

 あと三十分もすればクローズの時間なので、それまでにテーブルの上にある備品チェックでもしようかと思った時、ドアが開くベルの音がして、捺は接客用スマイルを浮かべた。

「いらっしゃいま…」

「いつものコーヒー一つ」

「…かしこまりました」

 昨日の今日なので、心の準備が出来ていない。

 それでも仁科は客としてここに来ているのだ。店員としてはちゃんと仕事をしなくては。

 橘が慣れた手つきで淹れたコーヒーを、捺が仁科のテーブルに置くと、「耳かして」と手招きされた。

「あの後、メールで高野君にばらしたぞ、お前の計画」

 どうして今になってと……どうにか問いかけようとすれば。

「捺には悪いと思うけど、俺も本気だから。ストーカーとしてじゃなく、ちゃんと認識してもらわないとな。…彼にも」

 仁科は運ばれたコーヒーに口をつけ、にこりと笑む。

「捺、今日はもうあがっていいぞ。それから、仁科もギリギリに来て俺の仕事増やすなよな」

「カフェに客が来て何が悪いんだよ」

「まあ、それもそうなんだけどな。とにかく、あんまり捺をいじめるなよ」

「いじめてるんじゃなくて、可愛がってるんだ。まったく、口うるさいのは学生の時から変わらないんだから」

 助け船を出してくれた橘に感謝し、捺は足早にスタッフルームに向う。

(……どうしよう)

 仁科が本当にばらしたのなら、捺が利久の事を好きだというのを伝えたのも同然だ。今までの嘘や、協力すると言っていた自分を相手はどう思うだろうか。

 着替えながら、利久と会ったらどうしようとか、そんな事をつらつら考えていたけれど、今は会うのが怖くてしょうがなかった。恋人役だと条件を出した自分に何度も後悔してしまう。

 ノックの音がして、橘がスタッフルームのドアを開ける。

「大丈夫か。顔色悪いけど、仁科が何かしたのなら俺に相談しろよ。あいつ、コーヒー飲むだけ飲んですぐに帰ったけど、何かあったのか?」

「別になんでもない。それより、店閉めたんだ。手伝えなくてごめんね」

 これ以上橘に心配掛けさせないよう、捺は明るめの声を出す。

「いや、それは構わないけど……。今、仁科と入れ違いに高野君がお前に用事があるって来てるけど……どうする?」

 聡い橘の事だ。内容を知らなくても、三人の間で何かあったのかだけは雰囲気で察したのだろう。

「利久が……」

 今日は、立て続けに心が揺さ振られる。

 逃げたかったけれど、それじゃ何も解決にならない。

 捺は震える手をぎゅっと握りしめると、会うから待って貰っていてと橘に伝えた。






 店内で話す内容じゃないからと、無言のまま腕を引かれる。沈黙が重いと感じ、何か話しかけようとしても利久の不満そうな表情見ると口が自然と閉じてしまう。

 電車に乗っている間も二人で流れる景色を車窓からただ眺めるだけで、会話は一切ない。それでも繋がれた腕だけは離れなくて、それだけで胸が疼いて痛くなる。

(騙す結果になったんだから…怒るのは当たり前だよね)

 この沿線なら利久のマンションがある駅になる。いったい何を話すのか怖くて、友情で満足していればよかったと後悔した。悔やんでもいいと思ったけれど、やっぱり離れるのは身を切る痛さを伴うのだと痛感して、滲みそうになる視界を慌てて手の甲で擦る。

「降りるで」

 はっと気づけば、やはり利久のマンションがある最寄り駅で。

 これから自分たちの関係はどうなるんだろうかと心が竦む。

「ほら、さっさとせんとドア閉まるやろ」

 苦笑。ようやく声が聞けた安堵感が胸に広がっていく。それだけで緊張していたのが少しだけ和らいだ気がした。

「あ、うん……」

 慌ててついていき、そのままマンションまではまた無言になる。

 エントランスを過ぎ、エレベーターに乗り、ようやく付いた部屋に入って玄関の明かりをつけるなり、利久の腕が捺を引き寄せていく。行動の意味と小さく落とされる「ごめんな」という謝罪に、いったい何が起こったのか捺の思考回路が一瞬止まってしまう。

「…利久……?」

「なあ、小学校の時の話してもええ?」

 唐突に飛躍する会話に戸惑いつつも、こくりと捺は頷いた。

「別にいいけど……」

「俺が転校してきて、クラスの皆から注目されとった時…確か、外国人なんてやつはいない。俺、その会話から捺との関係が始まった気がすんねん」

 利久の腕にぎゅっと力が込められる。どんな表情をしているのだろうか、見たくても力強い抱擁で身動きがとれなかった。観念して肩口に顔をうずめ、耳に届く声に意識を傾けていく。

「言葉が通じて、話せるだろって。髪の色も目の色も、違うってだけで騒ぐなんてバカだって、あの時お前言いきっとったしな」

 小学生にしては、やけに落ち着いている、その言葉が印象的だったと続けられた。

 まだ好奇心旺盛な年頃で、しかも転校生に興味があって当たり前。そしてその相手がハーフだとしたら注目されるのは当然で、利久自身も内心少しだけ身構えていたらしい。それが、捺の一言で騒がしかったのが収まったのだから、たいしたものだと微苦笑されてしまう。

 くく…と体を通して振動してくるものに、あの日初めて出会った日を思い出していく。

 最初に目に留まったのは印象的なグレイの瞳。純日本人の捺にとっては、ちょっとした衝撃だった。けれど、緊張している中でも相手の余裕さが僅かに伺えて興味が出たのだ。

 友人になりたいと、すぐに声をかけようとしたが、興味を持ったクラスメートに先を越されて面白くなかった。そして、興味や好奇心というよりも、それ以上に奇異な眼差しを向けているのが分かって、無性に腹が立ったのだ。

「…当たり前だろ。そんな事で騒ぐなんて……」

「馬鹿じゃないの、やろ」

 捺のセリフを利久が引き継ぐ。

「それって、もう口癖になってるみたいやけど、そうやって言う時はいつも俺を心配してくれてる時やねんな」

「……」

「…五十嵐さんに言われてん。本当は誰が好きなんか、ちゃんと気づいた方がいいって。きちんと会ったんて、これで二回目やのに、あの人は的確に俺の心の痛い場所を衝いてきて、ちょお面食らったわ」

 ぴくりと肩が跳ねる。動揺しているのを悟られたくないのに、一度牙城が崩れてしまった心は体裁を保つことが出来なくて、ダイレクトに精神と体を結びつけさせてしまう。

(利久が好きな相手……)

 期待してもいいのだろうか。このぬくもりを享受しても構わないのだろうか。

「今日な五十嵐さんと別れた後、仁科さんと付き合うって捺が認め時にどうしてムカついたんやろとか、ショック受けたんやろうかって改めて考えたんや。捺はどんな事があっても、ずっと俺の隣に居てくれるもんやって、勝手に思い込んで……。そんで、辛い時には慰めてくれるんやろうなって、いっつも甘えて。……ほんま、阿保やろ、俺」

「……」

 それは捺だって同じだった。

 友人から片思いの相手へとなった後も、利久の隣にいられると当り前の様に受け止めていたから。

 けれど、それは絶対的なものじゃなかったんだと、今回の事で痛感させられた。

「ねえ…利久が本当に好きな相手って……」

「この状況で分からへん方がおかしいで」

 囁かれる苦笑に甘さが含まれていて。

 だから、と勇気を振り絞って僅かに震える唇で答えを返す。

「僕で…いいの?」

「男とか、そんなん考えるよりも、捺以外は考えられへん。……けど、ようやく気付いた鈍い奴でごめんな。ヒントは目の前に転がってたのに、俺は全然掴めへんかった。そのまま素通りして流れていったものも沢山あるやろうけど、シフォンケーキでやっと気づけた」

 それは捺の得意なものだ。

 利久が落ち込んでいる時、元気になりたい時は甘いものを欲しがる。その度に、捺に焼いて欲しいと頼んでいたのが、どうしてヒントになるのだろう。理解しがたくて、ようやく緩んだ腕に体を少しだけ離し相手を見つめた。

「捺が好きなのはプレーン。けど、得意なんはチョコレートやって前に言ってたやろ。しかも、ちょっと甘めの」

「確かにそうだけど」

 それがどうして捺の気持ちを知るきっかけになったのだろうか。

「俺がチョコレートでも甘いのが好きやって知ってて、俺が色々へこんだ時にはいつもあのカフェや捺の部屋で、ケーキを出してくれてた。他にも沢山種類はあるのに、決まっていつもな」

 仕事が上手くいかない時、気分が落ち込んだ時。その度に利久は捺にチョコレートシフォンをねだっていた。それがいつの間にか当り前になっていて、だから相手を少しでも元気にしたくて作り続けていたのだ。

 相手が少しでも喜んでくれたらいい。

 けれど、それは利久限定だった。

 捺が癒して大切にしたい相手は他にも沢山いる。けれど、その特別な核の部分に存在し続けているのは、この男だけだから。

「ねえ、今度は僕の話聞いてくれるかな……」

「かまへんで」

 捺は小さく一呼吸置いて、乱れそうになる鼓動を落ち着けた。

「……まだ小さい頃だったかな、母さんが作ってくれたのがきっかけだったんだ。泣いてる僕に作ってくれたお菓子がケーキだった。その中でも、シフォンは得意でさ…それが好きで、わざと拗ねたりしてたな。疲れた時とか落ち着きたい時って妙に甘いものが欲しくなったりするでしょ。それと同じ原理なのかは分からないけど、少なくとも食べた後は笑顔になれたんだよね」

 けれど、高校の時に自分の息子がゲイだと知った途端に、露骨に嫌悪する様になった。会話もなくなり、家族円満だった家庭をぎくしゃくさせてしまったのだ。

 だから作る時には二つの感情が混ざり合う時がある。

 甘い記憶と苦い記憶。

 それでも、特別な想いが詰まったお菓子だから。やっぱりこれを食べると元気になれる。そして、その元気を利久にも分け与えたいという、自分勝手な感情があったんだと伝えれば、くしゃりと柔らかく頭を撫でられた。

「そっか。だから俺はこうやって今も元気でいれるんやな。捺が愛情をくれるから、毎日を過ごしていける」

「少しは役に立ってたかな」

 それなら、自分の作ってきたものが無駄じゃないと確信出来る。ずっと好きで、好きでたまらなくなったのは大学受験の時。毎日頑張っている相手の疲れをちょっとでも取り除けたらと、考えた時に恋を自覚した。それまでは友情だった筈なのに、いつの間に形を変えていたのだろうか。

 一度象られたものは、だんだん明確さを表していく。違う大学に行っても交流が途絶えなかったのは、必死につなぎ止めておきたかったからかもしれない。

「当たり前やろ。……けど、捺はほんまに俺でええんか?」

 今度は自分が言ったセリフを利久がそのまま返してくる。

「ほんまに今更やけど、正直仁科さんに勝てるなんて思てなかったし、今日かて、改めて捺と付き合う事を伝えたいからミスルトに来いて、わざわざ人を呼びつけておいて。来てみたら本人はおらんし、いきなり捺に聞けってメールで伝えられるし。そもそも、なんであの人が俺のメアド知っとんねん」

「それは、僕の携帯を尚兄が勝手に見たから……だと思う」

 というか、十中八九そうなのだろうけれど。

「だって、あの人本気で捺の事好きなんやろ。だからメールで……。て、尚兄て、仁科さんの事か?」

「そう…だけど?」

「けど、仁科さんていつも店では呼んでたやんか。しかも他人行儀やったし」

(え…あ、もしかして利久……何も知らないって事ないよね)

 ばらしたからと、それが仁科の嘘だったとしたら。もしかしたら、自分は間違った解釈をしていたのかもしれない。だとしたら、この結果は……と再度反芻してみて、ぼっと顔が赤くなっていく。

(そんなに真剣に想ってくれてるんだ)

 嬉しい胸の痛みも有るんだと初めて知った。

 だから、ちゃんと説明しなければ。

「…少しでも利久に傍にいて欲しかったから、仁科さ……治兄に協力してもらってたんだ。あの人と僕は従兄弟なんだよ。昔からよく気にかけてくれてさ。今回も、最初は反対気味だったんだけど、最後には協力してくれたんだ」

「そやから、ストーカー役になってくれたんやな」

 捺はこくりと頷く。

「ねえ、男だけど利久を好きでいてもいいかな…」

「ええんやないか。さっきも言うたけど、俺かて男やけど捺の事好きやしな」

 お互い様やろと、利久が小さく笑みを口元に滲ませた。

「ずっとずっと好きなのは、利久だけだから」

 他の誰もいらないと、極端でもそう思う。

 利久の眼差しがレンズ越しに柔らかく綻んだのに見惚れていると、すぐさま再びきつく抱き返され、捺は抱擁された腕に自ら身を預けていった。



  ◇ ◇ ◇



「さすがにそれは厳しいんですが……」

「あれ? 誰のおかげで自分の気持ちを自覚出来たんだっけ」

 にっこりと穏やかに微笑んだ仁科に、利久がはっきりと苦笑いをしているのを見つめながら、ただ成り行きを眺めるしかない捺は、少しでも場の雰囲気が軽くなるようにと二人にケーキを差し出す。

 仁科が捺の従兄弟だと知らせてから数週間。そして、改めてきちんと仁科を利久に紹介してから、すぐに相手に頼み事をする仁科の神経の太さに、少し感心してしまう。

(いやいや、してる場合じゃないんだけど)

 けれど、ビジネス関係となると捺が口を挟む権利はない。

「カラー一ページ丸々使用してもらうのは、こちらとしてはとてもありがたいんですが、ただ、その号のピックアップを仁科さんにしてくれないかっていうのは、ちょお無理かと……。それに、こっちのスケジュールもあるので上が何て言うか…。そやからですね……」

 机の上には契約書と書類の紙が数枚。それに利久のスケジュール帳が広げられていた。

「独立開業に合わせてしてもらった方がアピール出来るだろ。それに、五十万部分のお金は払ってるんだから、契約成立じゃないかな」

「確かに広告としてはそうなんですが……」

 整形外科医なので、現金をすぐに用意出来るのはさすがとしかいいようがない。利久と会う前に捺は仁科から契約金を見せて貰っていたが、百万は軽く越えていた筈だ。

 大きなクライアントが一人でも多くなるのは、実際利益として会社にとってはありがたい。けれど、顧客が出した全部の注文を「はいはい」と軽く受けるには、利久の立場としては微妙なラインなのだろう。ピックアップの記事も時期的に次回はすでに出来ているだろうし。

 悩んでいる恋人に何もできないのが切ないと思っていると、カランとドアが開く音がした。

 慌てて接客モードに頭を切り替えてドアに向かい迎えるが、客の姿を見た途端に思考回路が一瞬停止する。

「あ、いらっしゃいませ…って」

 グラビアと、あの植物園で遠目でしか見ていない相手が目の前に現れて、とっさに対応が遅れてしまう。

「すいません。ちょっと待ち合わせをしてるんです。先に来ている筈なんですけど……」

 目的の人物を見つけたのか、五十嵐は呆れた溜息をつきながら足を進めていった。後姿を眺めていると、仁科が手をひらひらと振っていた。

「咲哉さん、こっち」

「まったく。いったい何で高野さんを困らせているのさ。また君が無理強いをしてるんだろ」

「なんで俺が悪いって決めつけるんですか。それって偏見ですよ」

「どう見たって治がいじめているとしか思えないんだけど。高野さんの都合だってあるんだから、大人としてわきまえる所はしっかりして欲しいんだけどね」

 呆れてわざと語尾を強めた相手、五十嵐咲哉に対して飄々とした態度をとっている所から、二人の仲が相当良いというのは伺えるが、接点がなさそうな二人に疑問を持ってしまう。それは利久も同じだったらしく、どうしてここにと捺が抱いていた疑問をそのまま投げかけていた。

「捺もおいで」

 仁科達だけで、あとは客がいないのをいい事に、こっちこっちと仁科が招き寄せる。

 ちらりと橘を見たが、別に構わないのか「いってこい」と返された。

 捺が三人の元に寄ると、五十嵐から先に挨拶される。差しのべられた手に応えると、ふわりと柔らかい笑みを浮かべられて、間近で見た捺は思わずどぎまぎしてしまう。

(やっぱり、綺麗だな)

 綺麗というよりどこか中性的な部分を持っているからこそ、そう思うのかもしれない。五十嵐は全体的に繊細な造作をしているのだ。

「紹介するな。俺の恋人の咲哉さんだ。咲哉さん、こっちが従兄弟の佐倉井捺です」

 それぞれに紹介されたが、その内容に驚きを隠せないでいると、微苦笑した五十嵐が次の瞬間、軽く仁科の頭をはたいた。

「いってー…。暴力反対なんですけど」

「唐突すぎるんだよ、まったく」

 ますます呆れた相手に、こうなる事は予想していたと顔に書いてある気がした。現に五十嵐は恋人だと言われても否定せずに、利久と捺にごめんねと軽く謝ってから、改めて初めましてと捺に頭を下げる。

「そうそう、勝手になんだけど、こないだ植物園でやってた展覧会の写真をCD‐ROMに焼いてきたんだけど、よかったら貰ってくれるかな。それから、君の噂は高野君から聞いてるよ。すごく大事に想われているんだね。」

 CDを受取りつつ、戸惑ってしまう。

「え、あの…その」

「ちょっと、何言うんですかいきなりっ」

 二人の声が被さるのを楽しげに見ている仁科と五十嵐の余裕に、ますます気恥ずかしくなりながら、いったいどんな事を言っていたのだろうかというのも気になるけれど、何よりも利久が捺の居場所を心の中に作ってくれていた事が嬉しくて、みるみる頬に熱が集まってくる。

「植物園でも、美術館でも。話している会話の端々に、君がいたよ。昔からの友人がって…言う高野君の顔、佐倉井君に見せてあげたかったなあ」

「五十嵐さんっ!」

「高野君が僕に抱いていたのは、憧憬とかそういう種類のものだから、佐倉井君、安心していいからね」

 それ以上は言わないでくれと、捺と同じく顔を赤くした利久に、くすくすと五十嵐が笑う。

 仁科同様、種類は違うけれど自分たちではどうやっても勝ち目のない部類に五十嵐は入るなと結論付けて、いっそ感嘆な溜息をついてしまう。仁科は二人の様子を眺めた後、捺に目を向けてにやりと笑みを浮かべた。

 捺に告白した時といい、利久にばらした事といい、全部が仁科の演技だったと知り、ただただ感心するしかない。

(…まったく、治兄は昔から僕に甘いんだから)

 ずっと焦がれて。焦がれ続けた相手に好きだと伝えられる幸福感。

 多少どころかかなり振り回された気がするが、それら全部を許してしまうくらいに、仁科にはすごく感謝している。

(今日は、うちに来てくれるかな)

 疲れた時は、決まって顔をみせる利久。

 捺は掴んだ腕の暖かさをそっと思い出し、小さく微笑んだ。

 再びドアの開く音がして捺は「いらっしゃいませ」とくるりと踵を返すと、火照った頬をさすりながら、接客モードに意識を戻し現実に足を踏み出していく。あの二人に囲まれた利久には悪いが、今は自分の仕事をするのが一番だ。

 捺は笑みを浮かべると、一歩を踏み出していった。


数年前に同人誌で発行したものです。

少しでも何かを伝えられたらなぁと思いながら書いていたなぁと。

楽しんでいただけて、また何か心に残るものがあれば嬉しく思います。

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