3話
「大人ひとりと、こどもひとり」
「はい、おふたりで800円ですね」
提示された金額に俺はほっと息を吐いた。この子どもが水族館と言い出さなくてよかった、水族館だったら手持ちが足りなかった。
「どうぞ楽しんでください」
笑顔のお姉さんに見送られて動物園のゲートを潜った。正直動物にはあまり興味がなく、来たのは子供の頃以来だ。来たがっていたのだから子どもは喜ぶものかと思っていたのだが神妙な顔で看板を見つめていた。そこではたと思った、この子どもは「死んでしまう前に行っておきたい場所」と言っていたではないか。それではしゃぐのもどうかしている、この子どもはここへ来たらもう思い残すことはないということなのだろうか。暗い気持ちになりながら隣を歩く子どもを見る。
「ペンギンを見たいの」
「そうか」
子どもの足取りは目的を持ってしっかりしていて、ペンギンを見たいと言っていたけれど道中の動物もひとつひとつじっと眺めている、その視線の先でキリンがのんびりと草をはむ、はしゃぐわけでもなく、ただ静かに眺めるその姿に子どもらしかぬものを感じる。この小さな体にどれほどのつらいことを強いられたのだろう。俺は声をかけることをなくただ静かに子どもについていく。周りにはまだ言葉を話せない子供を抱っこして、母親が幸せな顔をしてキリンさんだよ、ゾウさんだよと話しかけている。
こうして歩いていると、小さな子ども連れの母親が多かった。もう少し大きくなれば幼稚園や保育園に行く年齢であるから、こうして平日に来る人は限られてくるのだろう。中には男ふたりで歩いている謎の姿や、カップルをもいたが。そのどれをとても楽しげで、俺と子どもだけが世界から浮いていた。無言で歩いていく中で子どもは目当てのペンギンの前へとたどり着いた。ただ静かにペンギンを眺める。
「ペンギンは、あたしの好きな動物なの。それで、パパも好きな動物なの」
「そうなんだ」
それ以外言葉が見つからなかった。
「あたしのパパはとても忙しい人だった、夜は遅くまで帰ってこないし、お休みの日もお仕事に出かけてた。でも、たまに休める日がくるとあたしを動物園に連れて行ってくれたの。見るのはペンギンばかり、あたしが他の動物を見たいって言ってもずっとペンギンを見ているの」
ペンギンに視線を向ける、数匹が水の中で悠々と泳いでいた。
「それでも外に連れて行って、一緒に遊んでくれるパパが好きだった。だけど、パパは会社の屋上から飛んだの」
「―……ぇ?」
子どもは俺の言葉が聞こえなかったかのように言葉を続けた。
「仕事がつらかったんじゃないと思うの。パパは知ってしまったの、ママがパパがお仕事でいない時になにをしていたのか」
何をしていたんだ?なんて促さなくても子どもは勝手に口を開く。
「おとこのひとを連れ込んでいたの。おうちに帰るといつも男の人がいた、ある日はおにいさんくらい、ある日はパパよりもとしうえの人。いつも違う人だったような気がするけれど…ひとりだけおにいさんくらいの人がママのお気に入りでその人だけはずっといた」
「でもその人あたしのことが大嫌いで、おうちから追い出したり、殴ったりしてきてとても怖かった」
何処にでもありふれている話だった、フィクションの世界でも散々に使い古されているもの。 だけれど、そんなチープな物語に心を痛めている子どもがいる。この子どもにとってそれは現実で、死んでしまいたいほどの出来事。俺の顔が曇る。
「パパがいなくなってからその人がおうちにいることになって、それが毎日になったの。その人のことが大好きなママにとってあたしはどんどん邪魔な存在になったの、だからママはいった、あんたなんていらない」
バシャンと音がして視線を向けるとペンギンが水の中に飛び込む音だった。
「だからあたしはパパのところに行くの」
言葉が見つからずに俺はペンギンに視線を向ける。そんなことを考えるのはよしなさい、なんて大人として子どもに説教を出来る立場ではない。なにせ俺はこれから死のうとしているのだから。
「行こう」
子どもは入り口に向かって歩きはじめた。俺は子どもを守ってやる言葉なんてなにひとつもってやしなかった。笑顔で溢れる人たちの合間を縫ってお互い沈んだ顔で来た道を戻る、甲高い鳥類の鳴き声が何処か怖かった。
車に乗り込むと子どもは黙ったままの俺をじっと見る。それを無視して車を走らせてもよかったのだが、あの話を聞いた後に無視するのはかわいそうな気持ちになってしまいなんだ?と問いかける。かわいそうってなんだ、同情なんてこの子どもは欲していないというのに。俺だって同情されても嬉しくない、
「おじさんは行きたいところはないの?」
やっぱりそうきたか。俺は思考をめぐらせることもなくひとつの場所がすんなりと思い浮かんだ。
「コスモス畑にいきたい」
口にして自分で驚いた、あのまま潔く死んでしまうつもりでいたのに。
「じゃあ、そこへ行こうよ」
「いや…俺は」
首を横に振るったが、子どもがじっとこちらに視線を向けてきここで行かなければ後悔するよと告げていた。 こんなひとまわりもふたまわりも違う子どもにこんなふうに言われるなんて、自分が情けないなと思いながらも俺はコスモス畑を目的地として車を発進させた。毎年通っていたあの場所へ。




