「魔王を産んだ女など国に置けん」と追放されましたんで、魔王城で息子を正座させたります ~転生した大阪のおばちゃんやけど、攻めてきた勇者もうちの次男やったんや~
「魔王を産んだ女など、国に置けん」
大司教にそう言われて、村の食堂の女将のうちは追い出された。おかみを三十年、子供の喧嘩を見てきても、うちの子のことは便り頼みや。
月初、一日目の朝。カンネの食堂前には、朝飯待ちの村人と、朝日に槍を光らせる護衛が並んどる。自分の六十の祝いの説教を終えたばかりの大司教グレゴールは馬車へ戻り、代わりに護衛が言う。
「橋を見回る魔王の素顔は上の息子さんだと、前線帰りの兵が村で広めました。王の追放権を預かった猊下の命です。魔王軍が攻めてくる前に、国境外へ。城は丘の上です」
十年前に家を飛び出した長男が、いつのまにか魔王になっとったらしい。
追放ちゅう物騒な言葉より先に、あの子のこけた頬が頭に浮かぶ。
「分かりました。ほな、あの子に会いに行ってきますわ」
「おかみさん、本当に行っちまうのかい!」
「店は頼んだで。鍋、焦がしたらあかんよ」
使い慣れた籠を取る。
前の世は大阪の天満でコロッケを揚げとって、店の看板が頭に落ちてきて、気ぃついたらこっちの赤ん坊やった。
天満のフミ子、『コロッケのフミちゃん』。今はカンネのミルダ、五十二歳や。
魔王軍と七か国の戦争で、大陸の半分が前線っちゅう暮らしや。
コロッケを籠へ詰めて向かう城までは十六キロ、半日の道や。荷車道の橋はひと月前から落ちたままで、村の荷車も行き場をなくしとる。裾をからげて浅瀬へ入ると、秋の水が靴の中へ染みて、足の指まできゅうっと縮む。
川を上がれば、右には聖王国の槍が光り、左には魔王軍の牙が並んどる。
「と、止まれ! ここは前線だぞ!」
「おかみの味やで。食べるなら道あけや!」
「……いい匂いがする」
牙の列から腹の底で鳴るような声が漏れ、槍の側からも、ごくりと喉を鳴らす音がする。
「た、食べていいのか?」
「食べてから考え」
うちはコロッケを紙に包んで差し出した。
評判を知る両側の兵が頬をふくらませると、槍が下がり、牙の列もすんなり割れる。
「美味いもんには勝てへんのや!」
昼過ぎ、うちは城門を叩く。
「何者だ!」
「おかんや」
門番が目を丸うして、うちの顔と籠を二度見する。
「……誰の?」
「いちばん大きい子のや。ほれ、おまけや。見張りも腹減るやろ」
一個足すと、門番は慌てて槍と包みを持ち替える。
「お、お母様、どうぞ!」
通された玉座の間は薄暗うて、石の床の冷えが濡れた靴底からじわじわ上がってくる。階段の上、黒い椅子におるんはクルトや。二十七、角まで生やして(くっつけて?)、肩幅は戸口ほどもある。
玉座の上で、大陸を震わせる魔王が青ざめた。
「お、おかん……!?」
臣下のざわめきが、遠い雨音みたいに耳の端を流れる。十年分の文句が喉までせり上がるのに、顔を見たら、結局ひとことに縮んでまう。
「正座!」
息子の大きな体が、玉座の上でぎくりと折れる。伸びた脚の置き場がなくて、膝だけ窮屈そうにくっついとる。
「何しに来たんだよぉ!?」
「あんたが何しとんねん!」
「お、俺は魔王だぞ!」
「おかんはおかんや! 正座!」
臣下を睨む目だけは、まだ偉そうや。大きな肩の上で、耳だけが昔と同じに赤うなっとる。
「でも、皆が見てるだろ……」
「見とるんやったら、手本になりぃ!」
やがて足を伸ばしかけた息子が、しびれて玉座からころん。床の上でも、慌てて膝を揃え直しよる。赤い髪の大男が、なぜか窓へすっ飛んでいく。炎の将軍やという。
「陛下が座っておられるのに、立っていられるか!? 全軍、座れ!」
将兵が声を継ぐたびに、号令が石の壁に響いて、丘を下っていく。うちも窓へ寄って、下を覗く。
その日、前線の魔物が一斉に座った。
牙の列が端から順に腰を下ろすと、向かいの兵まで釣られて膝を折りかける。夕方、伝令が息を切らして駆け込んでくる。
「大司教が陣で『魔王軍が攻めてくる』と説くのに、向こうの兵が、攻めてこないではないかと言い返していました!」
「口より先に、みんな座りよったなあ」
「……大司教の奴、明日にはまた何か言ってくるぞ」
「言わしとき! 明日の分も揚げたるわ」
玉座へ戻った息子は、まだ膝まできちんと揃えとる。近うで見れば、便りでは分からんかったほど頬がこけとるやないの。あんなに肩が広なったのに、その頬にはちゃんと昔のあの子が残っとる。角も肩幅も、その細さを隠してはくれへん。
「あんた、ちゃんとご飯食べとるんか?」
◇
その日の夕食は、玉座前に敷物を広げて食べることにする。隣の台所へ入ると、冷えた油の匂いが鼻につく。鍋を覗けば、底が真っ黒や。
「うわ、何やこの鍋! 焦げが層になっとるやん!」
「……料理番は、ずっと前に逃げた」
「ほな今日から、おかんが料理番や。……塩まで湿気っとるやないの!」
大鍋に油を張り、コロッケを揚げ直す。ぱちぱちと衣が鳴るにつれて、冷えきった台所に香ばしい匂いが満ちていく。皿を並べる手も、ようやくいつもの調子や。
「座り!」
クルトがすぐに腰を下ろす横で、炎の将軍だけは鉄の靴を踏ん張っとる。
「靴!」
「脱げば足の火が床を焦がすのであるぞ!」
靴の縁から、小さい炎がちろちろ覗く。なるほど、脱がれたら床の方が困るんやな。
「ほな靴のままでええ。その布の上に座り」
「我輩に、床へ座れと申すか!?」
敷物の端に古布を敷かせて、うちは床を指す。返事を待つあいだにも、皿の湯気はどんどん細うなる。
「正座!」
四天王も正座。靴を脱がない炎の将軍も正座。
「……我輩の、威厳が」
「威厳は食べられへんで。ご飯、冷めるやろ!」
「……いただきます!」
頬張った将軍の、いかつい眉がふっとほどける。せやけどうちは、自分の皿とにらみ合いや。
「ソースだけが、どうしてもこっちで作られへんねん!」
「……うまい、うまいではないか!」
「当たり前や! 二つの世界で揚げとんねん」
毛むくじゃらの将は、大きな手で皿を包みこむみたいに持って、匂いばっかり嗅いどる。
「あんたも手ぇ合わせや」
「む、むう」
熊みたいな手が、皿の前できちんと揃う。隣では、青緑の鱗に湯気を受けた竜人の将が、ひと口食べたまま止まっとる。
「自分は……母を知らずに育ちました」
「ここでは、遠慮なんかせんでええんやで」
「母上……」
金色の目から、涙がぽろぽろこぼれる。青緑の鱗を伝って光るから、うちまで目のやり場に困るわ。
「泣くんやったら食べてからにしぃ。ほれ、おまけの一個や」
涙は増えても、皿はきっちり水平や。そこは抜かりないんやな。
「俺のおかんだぞ!」
「拗ねんの! あんたの分も揚げとる」
クルトが唇を尖らせると、城の上だけに雷雲が浮かぶ。窓の外が、そこだけ薄暗い。ええ年して、雲まで拗ねさせんでええねん。
「皿は自分で下げるんやで」
無口な将がうなずいて、重ねた皿を台所へ運ぶ。息子の使った器を洗うんは、十年ぶりや。指に当たる器のふちも、お湯のぬくさも、変によう分かる。どれだけ食べたか、もう便りの短い言葉から思い描かんでええ。空になった皿が、今ここにある。
二日目の朝。橋は城から四キロ、一時間や。息子の前へ靴を置くと、乾ききらん革の冷たさが指に残る。
「この靴、まだ乾いてへんで」
「……浅瀬を、歩いてきたのか?」
息子の眉が、角とは逆に情けなく下がる。
「橋落としたん、あんたの軍か?」
「先月の決闘で、弾いた岩が……。聖王国側だから、直しに行けば侵攻だと言われて」
「ほな村の荷車、どこ通れっちゅうねん!?」
「余が直す。……俺が、謝る」
炎の将軍が、ぎょっと目をむく。
「陛下が御自ら!?」
「あんたも手伝うんやで」
「我輩が土木作業を!?」
「将軍やろ! 橋くらい架けれるわ」
クルトが太い橋桁を肩に担ぎ、魔王軍が板を張っていく。川音に木を打つ音が重なって、橋が架かると、うちは国境外の岸で待つ。昼前、真新しい板の上へ、村の荷車がおそるおそる乗り出してくる。
「おかみさん! 無事だったのかい!」
「無事どころか、橋まで連れてきたで」
「ま、魔王が後ろに!」
息子が前へ出て、深う頭を下げる。あの肩幅が低うなると、後ろにおるうちの目にも、川向こうがよう見える。
「橋を落として、すまなかった」
「じゃあ、この荷車を押してくれるかい?」
「……押せば、許してくれるのか?」
「押してから考えるよ」
下げた角が、手すりにこつんと当たる。聖王国側の橋詰では、あの大司教が村人を呼び止め、川音に負けじと声を張っとる。
「魔王軍の罠だ」
「罠でも橋は橋だよ、大司教様」
その前を、荷車の車輪がごとごと通る。押しとるんは、角を手すりに二度ぶつけた魔王や。渡りきった息子の頭を、うちは角ごと撫でる。硬うて邪魔なもんが増えて、手の収まりはようない。けど、その根元に指を入れたら、ちゃんとあの子の髪に触れるんや。
「ええ子や、ようやった」
◇
城へ戻った正午、勇者軍が前庭にずらりと並んで止まる。毎月二日の定例決闘やと、将が教えてくれる。銀の鎧を鳴らして玉座の間へ踏み込んできた英雄が、兜を脱ぐ。現れたんは茶色の短い髪、その下には兄と同じ蜂蜜色の目や。兜の後ろには、あの銀髪の大司教までおる。戦果を広めるために付いてくるらしいと、将が言う。
「兄貴ぃ! 今日こそ……へっ!? お、おかん!?」
あんたフリッツやないの! 兜の下に隠れとった顔まで、うちの子や。見比べるまでもなく、兄弟の足元を指す。
「正座!」
敷物へ、揃って膝が落ちる。弟の方だけ、鎧ががちゃがちゃ余計に鳴る。
「だって兄貴が」
同じ眉を寄せて、同じように口を尖らせ、兄が返す。
「だってこいつが」
「兄貴が悪い!」
「お前が先に!」
うちは黙って、床を指したままや。
「二人とも!」
うちはしゃがんで、顔を伏せたクルトと目の高さを合わせる。
「何を取り合うとるん?」
「……それは、言いたくない」
「フリッツ、あんたはどないや?」
「兄貴が言わないなら、僕も言わない!」
そっぽを向く角度まで同じや。十年前の食卓でも、都合が悪うなるとこんな顔しとった。横を向いた頬から子供の丸みは薄れても、口をきゅっと結ぶ癖は残っとる。叱っとる最中やのに、うちの目は、まだ小さかった頃のあの子らを探してまう。
「なんで、そこまで取り合うねん?」
「……おかんを、守りたかったんや」
十七で家を出た日の声に戻っとる。あの頃より低うなったはずやのに、うちの耳には、あの日のままや。今度は、最後まで聞く。顔だけ、ヒョウ柄のエプロンで覆う。染みついた油の匂いが鼻先にこもって、目の奥がじわりと熱うなる。
「大きなって……」
布の中で三度、ゆっくり息を吸う。喉のつかえを息ごと押し込んで、顔を上げる。ここだけは、聞き違えんといてもらわなあかん。
「うちの身ぐらい、うちで守れるわ!」
兄弟が同時に腰を浮かせる。こういうときだけ、目配せも合図も要らんのや。
「おかんの茶は、俺が淹れる!」
「僕が淹れる!」
台所へ先を争って向かう、でっかい背中が並ぶ。うちはその真ん中めがけて声を投げる。
「行かんでええ! 魔王でも勇者でも、うちの子や。正座しとり!」
膝が元の場所へ戻る。クルトが膝の上へ目を落として、小さい声で言う。
「……じゃあ、何をすればいい?」
「壊したもんは、二人で直して回り!」
「僕の軍には、『人に手を出すな』って言ってたんだ」
「俺もだ。約束破ったら晩ご飯抜きだろ?」
弟も横から、負けじと口を挟む。
「決闘も、剣を弾くだけにしてたんだ」
「弾くだけで橋が落ちるんかいな!」
十年続いた世界大戦の正体は、うちの兄弟げんかやった。
「俺は十七で家を出て、気がついたら魔物に王だと担がれてたんだ」
「僕は十四で聖騎士見習いになって、その年のうちに勇者って呼ばれてたんだ」
「こっちじゃ、ヴァルゼオンって名乗ってる」
「なんやそれ。舌噛みそうやな」
「僕は兜で顔を隠して……便りに書いたら、おかん、来ちゃうだろ」
便りにあるんは、元気と飯と、仕事の後に帰る、そればっかりや。大きな肩も、重そうな鎧も、肝心なとこはすっぽり抜けとる。こんなに近うで顔を見られるのに、鼻の奥がつんとして、よう見えんようになる。
「あんたら、十年も……」
「……ごめん」
「……俺も、ごめん」
謝る声まで揃うとる。そこだけは、昔より少し低い。聞き慣れへん低さの底に、聞き間違えようのない、うちの子の声がある。
「僕がおかんの隣!」
「そこは俺の席だぞ!」
膝で押し合う間を、ぴしっと指す。敷物がよれるほど大きなって、やることは昔のまんまや。
「二人とも、そこ座り!」
大司教が弟へ身を乗り出し、杖で石の床をかつんと打つ。
「勇者様、その女に騙されるな」
フリッツは剣を外して、床へ置く。銀の鎧から離れた剣が、石の上で小さく鳴る。うちはその音が消えるまで、弟の手元を見とる。
「僕のおかんです」
「おかん……? お母様ということ……?」
大司教は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、うちを見る。
「申し訳ないですが。おかんの言うことには逆らえません」
「ゆ、勇者様……。ま、魔王軍を討伐しなければ我々は……」
「何と言われようとも、おかんは絶対です」
「くっ!」
大司教はものすごい形相で帰陣を告げて去っていく――。
その目の前で兄弟は隣り合い、四天王も同じ敷物に並ぶ。さっきまで広かった玉座の間が、急に狭う見えるわ。見渡せば、食べさせる口ばっかりや。
「取り合わんでも、二つに割ったる」
コロッケに伸びる手がぶつかる前に、うちがさくりと割って分ける。
◇
三日目の夕方。赤い光の差す玉座の窓へ、門前の声が響いてくる。陣地へ戻った大司教が、今度は白い鎧の聖騎士団を連れて丘を登ってきたんや。鎧が夕日をはじいて、妙に眩しい。
「母親は魔王の人質だ、救い出せ」
「母上、自分がお守りします!」
「守らんでええ。鍋の火、見といて」
クルトの目が、うちの手にある籠へぴたりと止まる。
「どこへ行く?」
「あの人の前に降ろしてや」
息子がうちを抱えて、窓から飛ぶ。足の下から床が消え、お腹がふわっと浮く。夕焼けの風が頬を叩いて、エプロンの裾がばたばた鳴る。
「籠、傾けんといて! 晩ご飯やで!」
「わ、分かってるって!」
息子は腕だけそろそろと動かして、門前の石畳へうちを降ろす。靴底へ地面の硬さが戻る。先頭で胸を張っとる団長は、二十六の村の子や。立派な鎧より先に、目尻の下がり方で分かる。
「本官は聖騎士団長であります!」
「泣き虫ディーターやないか!」
「僕、喧嘩の後に食べたコロッケ、今でも覚えてます!」
「座り方は、覚えとるか?」
「おかみさんの前では、忘れません!」
団長が真っ先に正座する。張っとった胸がすっと低うなって、鎧がかちゃりと鳴る。
「だ、団長!?」
「おかみさんの前だ、座れ!」
団員も続き、背筋の伸ばし合いや。クルトはうちの横に座り、弟と四天王も階段から合流する。
「母上、火は落としてきました!」
「ようできた! 座っとき」
大司教の杖が、石畳をかつんと打つ。
「その女は魔王の人質だ!」
「人質が晩ご飯作りますかいな!」
「黙れ!」
「あんたが黙り!」
大司教がぐいと顎を上げる。けど、威勢よう見下ろした先には、団長のつむじしかあらへん。
「国の命令であるぞ!」
うちはくるりと、兄弟へ向き直る。
「あんたら焚きつけたんは、誰や?」
魔王は大司教を指さして言った。
「こいつが言ったんだ。『弟は聖王国が預かっている。母を王都へ移し、お前には会わせないと言っている』って」
「フリッツには、何て言うたん?」
「僕には、『兄は魔王になって母を狙う』って。大司教様が」
兄弟が顔を見合わせる。眉の上がり方も、半端に開いた口も、また揃う。
「僕は王都へ移すなんて言ってない!」
「俺は守るって言ったんだ!」
「二人とも、同じこと言うとるやないの!」
団長が、兜のない弟の顔をまじまじと見直す。
「勇者様がフリッツだったなんて……。僕の入団前から、兜のお姿しか知らなくて。王へ報告します!」
「頼むで。食べてから行き」
門前の石畳に兄弟、四天王、団長、その後ろに団員が並ぶ。大司教だけが立っとる横で、うちは皿を配っていく。鎧の白い胸元へ、コロッケの湯気がふわっと上がる。皿を受けた団長の口から、つい、懐かしいのがこぼれる。
「おおきに」
団長は慌てて口を押さえてから、敬礼する。隣の大司教にも、おまけの一個や。
「食べたらその眉間もほぐれるで。知らんけど」
大司教の眉間は寄ったままやけど、受け取る手にはちゃんと渡す。ディーターはコロッケを頬張ったまま、早馬へ駆けていく。
◇
使いが城と王都を往復する間も、うちの台所は休みなしや。
四日目の夜、団長の早馬が戻る。王都の王たちを、聖王国の王が招いたそうや。末の娘からクルト宛の便りも届いて、息子は読むなり懐へしまいよる。
「ほな、椅子を拭いとかなあかんな」
「……七か国分か?」
「あんたが拭くんやで」
十日目の朝、七か国の王が玉座の間へ入ってくる。城壁と畑の直しから戻った兄弟は、揃って泥だらけや。湿った土の匂いを連れて、並んで頭を下げる。
「おかえり。泥は外で落とし」
「……ただいま」
「僕も、ただいま!」
「迷惑をかけて、すまなかった」
「僕もです。これからは兄貴と仕事を分けます」
聖王国の王が、椅子からすっと立つ。
「終戦と撤兵、聖戦税の終わりを決めた。おかみの追放も取り消す」
七か国の王が、順に、はっきりと頷く。
「お母上に、感謝を」
王たちがうちへ向かって、深う頭を下げる。三十年、鍋の前に立ってきた背中が、急に落ち着かへん。鍋も皿も持ってへん手の置き場が、どうにも決まらん。
「そんな、頭上げてぇな! うちの子が、ご迷惑を」
いきなり大司教が叫んだ。
「共通の敵なしでは王はまとまらぬ! 最初の決闘を聖戦とし、各国を聖戦税で支えてきたのは、この私である!」
「今は、まとまっとるやろ」
王たちの礼を、大司教の目だけが追いかける。けど、誰も振り向かへん。
「わ、私は国のために……」
「国のために、うちの子ら十年も喧嘩させたんかいな?」
大司教の口が、開いたまま止まる。
「……」
「座り」
王の椅子の前で、兄弟が先に膝を折る。四天王と団長が続くのを見ながら、その末尾に大司教の膝が着くまで、うちは待つ。白い衣が石の床へゆっくり広がる。ようやく、みんなの顔の高さが揃う。
「食堂開けるさかい、皿洗い頼むで!」
「……私が、か」
「悪さしたら皿洗いや!」
「くぅっ……」
その日のうちに村へ帰る。大司教も皿洗いの役で連れて帰り、村人から店と道具を受け取る。馴染んだ柄を握れば、手の方が先に動く。さあ、明日の仕込みや。
十一日目の昼。再開した食堂の前で、七か国の王が順を譲り合う。
「どうぞ、お先に」
隣の王も、負けずに譲り返す。
「いやいや、そちらこそ」
三人目が、すっと手を上げる。
「では、年の順で」
言い出した王が周りを見回す。白い髭は、自分のがいちばん長い。
「ほっほっほ……わしが一番上ではないか!」
「ほな、いちばん上から食べてもろて」
後ろの両軍と村人は、地平線まで続いとる。槍も牙も、今日はコロッケ待ちの列にきちんと収まっとる。
洗い場では、大司教が白い袖をつまんだまま、皿をちょびちょび洗っとる。水音まで遠慮がちで、そんなんでは列に追いつかへん。
「こ、これは何かの修行か」
「ただの皿洗いです」
布巾を構えたフリッツが、待ちきれんように身を乗り出す。
「大司教様、次のお皿を!」
「袖が濡れるではないか!」
「袖はまくって!」
ようやく回ってきた皿へ、兄弟が揃って布巾を伸ばす。大きな肩が並ぶと、見慣れた流しがえらい狭い。邪魔やと言いたいのに、空いとった頃の広さは、もう要らんと思う。
「俺の方が早いぜ!」
「はっ! お前のは水が残ってるだろ!」
「細かいこと言うな!」
「そういうのは雑って言うんだよ!」
「なんだと、ゴラァ!」
その拍子で皿が飛び出し――――うちは手のひらで受け止める。冷たいしずくが指を伝う。割れる音の代わりに、うちの声が食堂へ飛んだ。
「なにやっとんの? 正座!」
座っても、兄弟は布巾を離さへん。まったく、これほど素直に座るくせに、張り合うんだけはやめへんのやな。
「お前のせいだ!」「お前のせいだろ?!」
「あっはっは、しゃあない子やなあ」
クルトの懐から、あの便りの角が覗いとる。隣の大陸の寺院勤めとは聞いとるけど、その後のことは、まだ聞けてへん。
「そういや、末の娘はどないしとるん?」
「……隣の大陸で、聖女をやってるらしい」
「……あの子もかいな?」
うちは空になった籠を手に取る。腕にかかる重みは軽なっても、揚げた衣のええ匂いは、持ち手にまで残っとる。便りを待つばっかりは、もう終わりや。
「ほな、あの子にもコロッケ届けに行こか!」




