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レクイエムの魔法使い  作者: Liew


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【第三章】北の悪魔たち

 アリスの影が家々の間に消えた。しばらく宿の窓を眺めていた……また現れるかもしれないと、半ば期待しながら。だが、姿は戻らない。私は振り返り、エレンドに顎で合図して、その場を離れた。


 街灯がともり始め、その光が月明かりと混じり合い、どこか妙な雰囲気を作っていた。首筋の毛が、なんとなくざわりと逆立つ。東へ進むにつれ、オークヘイヴンで嗅ぎ慣れた松脂の香りがないことに気づいた。


 片眉を上げたが、とりあえず気にしないことにした。街も住民も、以前とは別物になっている。空気が変わっていても、不思議はない。


 閉ざされた窓、絶えた声……どれも同じことを告げていた。歩きながら周囲を観察するうちに、確信は少しずつ形を取っていく。アリスは何かを隠している。それでも、問題にするには証拠が必要だった。あの娘の祖父への、最低限の義理として。


 四十分ほど歩くと、舗装路は土の獣道へと変わった。両側からジェキチバーとイムビーアの木が迫り出し、月が十分に高くなって幹の間に長い影を落とす頃には、数歩ごとに低い枝を避けるようになっていた。


 何を探しているのか、と自問する。わからない。それでも、立ち止まっているよりは、歩き続けている方がましだった。


「何を探しているのか、見当はついているんですか。それに、なぜ東の村へ?」


 後ろから、エレンドが問いかけてきた。


「悪魔たちが、こんなすぐ近くまで戻ってきたなんて、信じたくはない。でも……もし戻っているなら、汚染されたマナの痕跡が見つかるはずだ。街でも、わずかに感じた。だから、あそこだけの問題なのか、それとも周辺一帯に広がっているのかを確かめに行く。人狼かどうかは……現場に着けばわかる」


 枝をもう一本避けたとき、ざらついた樹皮が肩をかすめた。


 エレンドは黙ったままだった。肩越しに振り返ると、じっとこちらの背中を見つめている。


「……もう知っていたんでしょう。だから、皇帝が大森林へ行っている間に、わざわざ追いかけてきた」


 問いというより、確認だった。


 答えは返ってこない。否定もない。思わず、鼻から短く笑いが漏れた。


 獣道へと視線を戻す。じりじりと積もっていた苛立ちが、ついに抑えきれなくなった。本気で、わからないとでも思ったのか。


「『北の悪魔たち』……未生者の言い換えにしては、ずいぶん気が利いている。賭けてもいいけど、あんたがわたしのところに来た本当の理由は……北の結界が、まだ機能しているか確かめに来たんでしょう」


「存在しない可能性は?」


 エレンドが問い返す。


 肩越しに、視線が合った。


「……やっぱりね。わたしが張った結界と封印の中には、まだ長く保つものもある。少なくとも、あんたの孫が今のあんたと同じ年になる頃までは。もちろん、もう限界に近いものもあるけど……その時が来れば、わかる」


 エレンドは唇を噛んだ。空き地を抜ける風が、その髪を揺らす。ふと足を止めると、つられて彼も立ち止まった。


「アバテウエバの酒場を出てから、ずっと黙ってるね、エレンドさん。秘密を守りたかったなら……やり方が下手すぎる」


「レディ・ザラ……」


 一度視線を上げかけて、すぐに伏せた。


「悪魔たちが……あなたが大陸各地に封印した将軍たちを、解放しようとしていると思いますか?」


 深く息を吸い、月を仰ぐ。あいつらなら、やりかねない。


「つまり……もう知ってるってこと? 奴らが、北から何らかの方法で降りてきたって」


 エレンドは、地面を見つめたまま黙っていた。小さく溜息をつき、近くの幹へ歩み寄って、体を預ける。


「言えないのはわかってる……でも、シリーとわたしは、とっくに気づいてた。二十六王国のあちこちで魔獣が増え続けてるし、依頼がこんなに殺到したのも初めて。何かがおかしくなってる。だから心配しなくていい――話したところで、首が飛ぶわけじゃない」


 その沈黙が、何よりも雄弁だった。鼻から音が漏れる。笑いとも、ため息ともつかない。


「まだわからないのは、どうして来た理由を言わないのかってこと。これは皇帝が赤の外套に与えるような任務じゃない……ましてや、黄金の銅鑼の紋章を持つ者にしては」


 黄金の銅鑼を見るのは久しぶりだった。あの小さな金属の徽章が示すのは、赤の外套の中でも最高位。分隊全体を指揮し、侯爵以下の貴族にすら命令できる立場だ。


 それなのに、今目の前にいるのは一人の男だけ。兵も連れず、暗い獣道を黙ってついてくる。ますます奇妙だった。


「皇帝に派遣されたわけじゃない……命令に従っているのは確かだが、ここにいるのは、あいつが俺を送り込んだからじゃない」


 エレンドが顔を上げた。


 私は目を細める。


「赤の外套に命令できる人間は、もう一人しかいない。でも、その人があんたをわたしの後ろに送るなんて、ありえない」


「なぜ旅を続けるんですか? 北での出来事については、いろんな話が広まっていますが、多くの民があなたに感謝しています。それなのに、なぜこの帝国の一部になることを断り続けるんですか。どうして旅人のままでいるんですか」


 その声には、純粋な好奇心が混じっていた。


「エレンド……悪魔と人間の本当の違いって、何だと思う?」


 彼は瞬きをし、明らかに不意を突かれたような顔をした。


「悪魔たちは、厳密には魔獣とは違います。知性と理性を持つ存在ですから。かといって、人間とも言えない……明らかな理由で」


 エレンドは肩をすくめた。


「実際のところ、大して違いはない。あの奇妙な見た目を除けば……悪魔は進化が早いし、人間と同じで、何を考えているのか正確には読めない。でも、本当の違いを探すなら……人間は臆病で、狭量で、感情に振り回される生き物だということだ。愛は同時に、最大の力であり、最大の業でもある」


 一拍置き、視線をエレンドへと戻した。


「悪魔たちが糧とするのは、強欲と嫉妬だけ。生き延びて、支配して、壊すことしか頭にない、冷たい抜け殻にすぎない……でも考えてみれば、それほど人間と変わらないんじゃない? あんたの知ってる貴族や領主の中に、ぴったり当てはまる奴が何人いる?」


「エアリン様の言い方とは、だいぶ違いますね」


「そう。姉にとって悪魔たちは、何があっても滅ぼすべき存在。たとえ大陸の半分を……潰すことになっても」


 しばらく沈黙が落ちてから、もう一度彼を見た。


「少なくとも、あんたが本当に姉に送られてきたのはわかった」


 かすかな揺らぎだったが、見逃さなかった。エレンドも気づいたはずだ――会話の流れで、エアリンのことをほとんど自白してしまったと。抜け目のない男だ。


 意地の悪い笑みが浮かぶのを、そのままにしておく。月を見上げて待っていると、エレンドはしばらく黙り、考えを整理するように視線を遠くへ向けた。


「では……あの巨大な北の結界は、そのために。ずっと不思議だったんです。あなたは、北にまだ生きている罪のない人たちを、自分の魔法で殺したくなかった。だから選んだのが、大陸ごと隔離するという方法だったんですね」


 独り言のように、エレンドがつぶやく。


 足元の石を蹴ると、道を転がって倒木に当たり、乾いた音を立てた。


「本気で、わたしが姉と同じくらい強くて、あの戦争に勝てたと思ってる?」


 エレンドは頷いた。それだけで、思わず乾いた笑いが漏れた。


「五百年ほど前までは、魔法は攻撃には使われなかった。姉はずっと、師匠に悪魔への攻撃魔法を認めさせようとしていた。でも――エアリンが師匠の跡を継いで、エルシーの時代が終わった時から、魔法は戦いのための道具になった」


 ゆっくりと手を持ち上げ、風のさざ波を呼び起こす。


 マナが静脈を焼く。指先がじんと痺れる。大陸北部に使った封印魔法の反動で、まだ経路が細すぎる。


 薔薇の花びらが数枚、ふわりと舞い上がり、二人の間を漂う。エレンドが手のひらを差し出すと、そのうちの一枚が、そっと降りた。


「では、本当にあの将軍たちを倒す力がなかったと?」


「当時は、まだうまく使いこなせていなかった……でも正直に言えば、今では“基本攻撃魔法”と呼ばれているものが、影の君主の将軍の一人の手から生まれたというのは……なんとも皮肉な話だと思う」


 苛立ちが込み上げ、月を仰いで舌打ちをした。


「数十年のうちに、人間は悪魔たちのマナの扱い方を、ほとんどそのまま学び取った。北を封じたあと……あれだけの血と犠牲の末に、ようやく平和の時代が来ると――そう信じた。残っていた力のすべてを賭けて、信じた」


「ですが、人間同士の戦争は続いた……それで、あなたへの責任論というのは、実際にはその後の戦争への参加を拒んだことに対するもの、ということですか?」


 エレンドが言葉を継いだ。


 私は頷く。


「わたしを専属の魔術師や側女にしようとした皇帝が何人いたか、もう覚えていない。姉が誤りに気づいた時には、すでに手遅れだった。だから魔術師協会は、魔術師が人間同士の戦争に関わることを禁じた」


 エレンドはしばらく私を見つめていたが、やがて何かが繋がったように、その目に理解の色が浮かぶ。


「だから旅を続けているんですね……一人で。帝国を、あなた自身から守るために。そして、エアリン様のような宮廷の駆け引きに巻き込まれないために。姉君が宮廷で帝国を守り、あなたが旅の中で守り、そして俺の師匠が赤の外套の騎士たちを鍛えた」


 静かに、そうつぶやいた。


 思わず、本物の笑みが浮かぶ。姉がこの男を信頼している理由が、ようやくわかった気がした。軽く首を傾け、その顔を見つめていると、彼の視線が一瞬だけ、私の唇に落ちた。


 笑みをわざと意地の悪いものに変え、先へ進むよう顎で示す。


 沈黙こそが、唯一の正直な答えだった。エレンドにはそれで十分だったらしい。


 獣道はさらに細くなり、ジェキチバーの梢が触れ合いそうなほどに迫る。やがて木々が途切れ、その先に村が現れた――あるいは、その成れの果てが。


 家々は名もない一本道に沿って並び、扉は半開きのまま、柵は傾いている。かつて庭だった場所は、すでに草に呑み込まれていた。


 メインストリートの中央に立ち、まず地面を確かめてから、家々へと視線を移した。乾いた泥には、百を超える足跡が刻まれている。どれも北を向いていた。荷馬車の轍と、二本の深い溝。


 知覚を広げる。しかし、おかしな揺らぎはひとつも感じられない。汚染されたマナ特有の不快感も、眩暈のような感覚もない。思わず舌打ちが漏れた。


 最初の家に近づき、足で扉を押し開ける。中には、テーブルに二人分の食器が並んでいた。スプーンは整然と置かれ、椀の縁には干からびたスープが張りついている。居間、台所、寝室と順に確かめ、最後に地下室の扉へ――それは開いたままだった。


 閂は壊れていない。なぜ地下壕を使わなかったのか。眉をひそめ、人狼の襲撃の痕を探す。だが、ここに残っているのは、人々が消えたという事実だけ――アリスの言った通りに。


「本当に……襲われた場所には見えません。外の痕跡からすると、荷馬車が一台、それに馬車を三台連れた兵士たちが来ていたようです」


 背後から、エレンドの声。


「そう……遠吠えを聞いていたなら、家族は地下壕に集めていたはず。でも扉は開いたままで、閂も無傷だった」


 エレンドが隣に来て中を覗き、すぐに振り返る。


「じゃあ、自分たちで出て行ったのか? それとも安全な場所に移されたから、アリスさんはここで誰も見つけられなかった、とか」


 肩をすくめて家を出る。裏手に回り、足跡を改めて追った。轍はすべて、同じ方向へと深く刻まれている。村の外れを越え、その先の一点へと続いていた。


「可能性は二つある」


「一つ目は……シリー様がアリスさんとの会話で感じた“嘘”に関係していますか?」


 エレンドが先に言った。


 頷く。頭の回る人間は嫌いじゃない。エレンドの場合、鍛えられた体と整った顔の奥に、きちんと考えるものがある。


「二つ目は、わかる?」


 その顔に答えを探すように見たが、やがて彼は諦めたように首を振った。


「北東の人間は、こういう状況でどう動けばいいか、よくわかっている……誰かがそれを利用して、全員を別の場所へ連れ出した。アリスでないなら、平民を従わせられるだけの力を持つ誰かが」


 轍の一本に膝をつき、指先でなぞる。


「貴族か……騎士か……」


 エレンドが、自問するようにつぶやいた。


「誰であれ、遠吠えを使ってこの人たちを従わせた」


「じゃあ、ここで一体、何が起きてるんですか?」


「岐路に立ってる……文字通りね。ひとつ目の可能性は、アリスが自分で言っている人物じゃない、ということ」


 眉が寄る。


「悪魔が化けてるとか?」


「その可能性もあった。でも、シリーが何も言わなかったから……たぶん違う」


「じゃあ、何なんですか?」


「アリスは、厳密には人間じゃない。何か別の生き物……知覚を使っても、心臓の音が聞こえなかった。だから……死んでいるか、あるいは物理的な身体がないか、そのどちらか」


 轍の深いほうに手を当て、土の固さを確かめる。


「じゃあ……あの生き物を操ってるのは、彼女が……」


 エレンドが低くつぶやく。


「違う。遠吠えを上げたのはスティクス……悪魔の僕だ。アリスが本当に何らかのアンデッドだとしても、下位の怪物に操られるはずがない。理屈で言えば、どこかに悪魔がいるか……あるいは別の方法で制御されているか。でも……何かが噛み合わない」


 立ち上がり、指についた土を払う。


「どうしてアリスさんは、冒険者ギルドに依頼を出したのか……依頼書にはアヴァス家の封印があったのに、なぜ俺がここにいる理由を知らないふりをしたんでしょうね」


 エレンドが続ける前に、口を開いた。


 頷く。


「王冠が正式な調査を認可するまで、時間がかかると思ったんでしょう」


 エレンドは目を細め、地面の痕跡をもう一度見てから、視線を戻した。


「では、どうしますか?」


「聖職者と話さないと」


 私は、すでにオークヘイヴンへ向かって歩き始めていた。


「アリスを追って、本当に怪物かどうか確かめなくていいんですか?」


「いい。怪物だとしても、血を求めなかったなら……ここで何が起きているのかを、こっちに知らせたいはず。彼女の残した痕跡を追って、やるべきことをやる。それが何者であれ」


 エレンドは黙って受け止めた。肩越しに目が合うと、その視線が私の顔から街の時計塔へと移る。夜の八時を告げていた。そして、小さく頷く。


「安置所にある遺骸を調べるんですね?」


「そう。聖職者がスティクスでなければ、被害者の遺体がまだ残っているはずだから」


「それは皮肉ですか……それとも、経験からですか?」


 エレンドが眉をひそめる。


「前にスティクスを狩った時、オーロラの女神に向かって、文字通り祈ってた――今まで見た中で一番敬虔で……一番腹を空かせた信者だったよ」


 エレンドが笑い、私も堪えきれずに笑った。


 時計塔が八時四十分を指す頃、オークヘイヴンへ戻った。街はさらに静まり返っている。往来にいるわずかな人影がこちらに顔を向け、目が合うとすぐに逸らしていく。怯えているのか、それとも見覚えがあるのか……判別がつかない。


「あなたを見る人たちの反応が……俺の師匠から聞いていたものとは、だいぶ違いますね」


 歩調を合わせながら、エレンドが言う。


「その視線で、何か気になることでもあった?」


 横目で問いかける。


「怖がっているのに、どこか安心しているようにも見える……妙な反応ですね」


 眉をひそめた。


「ここで何が起きているのか、正確にはわからなくても……何かがおかしいとは感じている。怯えた人間は、いつも二つのものを探す――責める相手か、状況を救ってくれる誰か。ときには、その両方を同じ相手に求めることもある」


 閉ざされた窓を眺めながら歩き、ふとエレンドを見る。苦もなく、わたしの歩調に合わせている。一瞬、アラリックのことが頭をよぎり……すぐに振り払った。


「師匠に、ずいぶん鍛えられたみたいね……」


 腕を組み、その足取りに目をやる。


 エレンドは一度、自分の足元を見てから、わたしを見た。明らかに驚いている。


「気づいていたんですか」


「当然。着いてからずっと、わたしに歩幅を合わせている。相当きつい訓練だったんでしょう」


「ええ。俺たちの世代の赤の外套は、全員鍛えられました。あなたに会った時に役立てるように、と。でも正直、今回は偶然で……神様に感謝したくなるくらいの巡り合わせでしたよ」


 薄く笑いながら言う。


「どうして?」


「レクイエムの魔女の話は、ずっと聞いてきました。師匠からも、他の人たちからも。帝都には、あなたに関する都市伝説がいくつもあります」


「どんな話? 帝都港には、もう百年くらい行ってないけど」


 眉をひそめる。


「親の言うことを聞かない子どもの足を引っ張りに来るとか。鏡の前で三回名前を呼ぶと現れるとか。願い事があるなら、十字路の角に食べ物を置けばいいとか」


 片眉が上がった。


「シリーならともかく、わたしは……まさかね。でも、本当に十字路に食べ物を置けば出てくると思ってる人がいるの?」


 エレンドが笑った。


「そこだけが気になったんですか?」


 肩をすくめる。


「まあ……事情はだいぶ違うけど、他の二つは実際にあったことだし」


「俺の師匠も、同じことを言ってました」


「アラリックは、他に何を?」


「伝説みたいに語ることはありませんでした。ただ、北であなたがしたことが、大陸が生き延びる唯一の方法だったと。それから、いたずらが好きで、昼寝も好きで……特に酒が好きだったとも。でも、一番幸せそうだったのは、誰かと一緒にいられた時だと」


 足元の水たまりを避けながら、エレンドが続ける。


 視線を道へ落とし、こみ上げる笑いを抑えた。アラリックは、昔からそういう男だった。


「つまり……他の人の前では綺麗に語っておいて、面と向かっては何も言えなかったってこと? ……ほんと、アラリックらしい」


 唇が、勝手に緩む。


「それと、師匠は……あなたに命を救われたことに感謝しながらも、すべてに罪悪感を抱いていたとも言っていました。北で何があったのかは教えてくれませんでしたが、自分にはあなたの隣に立つ資格がない、と。だからずっと……あの有名なレディ・ザラに会いたがっていました。“女神の子”に」


「じゃあ、師匠が作り上げたわたしの幻に惚れてるってこと?」


 軽く首を傾け、挑むように半笑いを向ける。


「幻に惚れてる? 違いますよ、レディ・ザラ。惹かれているのは――俺の師匠みたいな男を変えた女が、実は神様みたいな存在で、師匠はその無数の顔のうち、たった一つしか知らなかったってことです。正直に言えば……今のあなたの方が好きですよ。シリー様を食べさせるためなら何でも引き受ける、皮肉屋で、遠慮のない傭兵」


 ゆっくりと笑みを浮かべながら、わずかに身を傾けた。


 一瞬、言葉が出なかった。舌打ちする。


「あいつと同じくらい生意気ね。ただ……羞恥心が足りない。まさか本気で、もっと人目につかない場所に招待されたいわけ?」


 エレンドは視線を逸らさない。むしろ、わずかに強めた。


「それを決めるのは、俺じゃないでしょう……レディ・ザラ」


 低く笑い、首を振る。


「そんな目で見ないで。先に言っておく……わたしは女神でも何でもない。師匠みたいに、勝手に理想化した幻なんて作らないこと。アラリックを助けたのは、当時の皇帝が免税と終身俸給を約束したから――それだけ」


 溜息をつき、顔にかかった髪を払う。


「じゃあ……取引だったんですか?」


 片眉が上がる。


「そういうこと。わたしが問題を解決して、アラリックがわたしの問題を解決した」


 エレンドが、さりげなくもう一歩近づく。


「その特典は、今も続いているんですか?」


「一応はね……でも、あの頃の皇帝が約束したものじゃ、今はほとんど足りない。年月に合わせて調整してもらうのを忘れてたから……基本的な出費を補うために、いくつか依頼を受けないといけない」


 彼の目を見たまま、軽く首を傾ける。


 エレンドはまた笑った。さっきと同じ、自然な笑い方で。


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