六話 覚悟
悪阻が少し収まったことで、アメリアは久しぶりに庭園で穏やかな時間を過ごしていた。
いまだに毎夜見る悪夢は終わらない。
けれど、すでに身体は――これは前世の記憶なのだと覚えてしまったかのように、あの苦痛を痛みとして感じなくなりつつあった。
刻一刻と迫る最後の瞬間に怯えながらも、日ごとに確実に衰弱していく感覚だけが、現実として残り続けている。
「アメリア様」
「あら、ワトソンじゃない」
声をかけてきたのは、アメリアの宮殿に仕える庭師の一人、ワトソンだった。
彼は前世では、シーリーンと結婚した男である。
シーリーンをノルディアへ連れて行ったことを思い出し、胸の奥がわずかに痛んだ。
「お久しぶりでございます。暫くこちらに滞在されると伺いましたが、お加減はいかがでしょうか。
アメリア様のお好きなダリアも、ちょうど満開でございます」
「そうね……本当に美しいわ。
この庭は、一年経っても変わらないのね」
「良かったです。この場所は、いつまでもアメリア様の庭として残すと伺っております」
アメリアはその言葉を聞き、改めて色とりどりに咲き誇る花々を見つめた。
変わらない場所があるということは、アメリアにとって、とても大切なことのように感じられた。
「……その、シーリーンは元気にしていますか?」
「え? ええ、もちろんよ。どうして?」
「あ、いえ。その……彼女には、弟のように可愛がっていただいたので……」
ワトソンが真っ赤になる様子を見て、彼の真意は手に取るように分かった。
前世では、彼らが夫婦になるのはまだ先の未来だった。
だが少なくとも、ワトソンはずっと昔からシーリーンに想いを寄せていたのだ。
「あなた……ノルディアに来るつもりはない?」
ワトソンは一瞬言葉を失い、再び庭園を見つめた。
「……行っても、よろしいのですか?」
「もちろんよ。
ストーン城はとても綺麗に整備されているのだけれど、庭だけはほとんど手つかずなの。
ちょうど良い庭師を探していたところなのよ」
ワトソンの頬が高揚し、目に力が宿るように輝いた。
「そ、その……親方に聞いてみます。
今は多くの仕事を任せていただいていますし……
それに、両親も……別の土地におりますので」
言葉は落ち着かないものの、彼の決意はすでに固まっているように見えた。
彼をノルディアに呼べば、シーリーンもきっと喜ぶだろう。
前世とは状況が違うため、二人が結ばれるかどうかは分からない。
それでも――少なくとも、自分の中に残る罪悪感は、少しだけ薄れる気がした。
「待っているわ。
もし来てもらえるなら、手紙をちょうだい。正式に庭師として雇い入れる手続きを取るから」
ワトソンが去ると、アメリアは前世の記憶を掘り起こすように、そっと目を閉じた。
アメリア王女と、カリナ――
ふたりのことを。
アメリア王女はアレクサンダーを婚約者に決めた後、できる限りこの国を見て回りたいと言った。
一緒に行こうと誘われ、当たり前のように旅支度をした日のことを、今も覚えている。
港町では市場を覗き、魚料理を食べた。
街では友人のように腕を組み、ふたりで歩いた。
空気の澄んだ山際の土地では、馬に乗るアメリア王女の姿を眺め、その自由で楽しそうな様子は鮮明に思い出せる。
アメリア王女は、ユーラシアへ行けば帰って来られなくなる可能性も、きっと考えていたのだろう。
もちろん、あの残酷な結末を予見していたわけではない。
だが、かつて敵国だったロキアとユーラシアが婚姻によって新たな関係を結んだとしても、国の将来までは誰にも分からない。
「あの日……どうして私を連れて行かなかったの……」
呟いた言葉は、蝶たちが羽ばたく庭園の中へと溶けていった。
王宮にあがってから、どこへ行くにも共に過ごした。共に笑い、共に泣いた。
カリナにとって、最も大切な人は、間違いなくアメリアだった。
『あなたは連れて行けない。だから、家に帰りなさい』
『そこに、きっとあなたの幸せがあるわ』
――嫌です。どうしてですか?
どこへでも付いていくと、申し上げたではありませんか。
傍から見れば、侍女が王女に物申すなど許されないことだ。
それでも縋り付くしかなかった。
カリナにとって、あの方がすべてだったのだから。
『他国に行けば、何が起きるか分からない。
あなたのことを守れるかどうかも分からないわ。
あなたの幸せは、きっと……この国にあるはずよ』
結果的に、その言葉は正しかった。
家に戻ったカリナは、用意された結婚によって家庭を得た。
国が失われるという試練も家族と共に乗り越え、最期まで小さな幸せを積み重ねた人生だった。
だからこそ、アメリア王女と別れたあの日の後悔は、いつまでも消えない。
今もなお、あの人を幸せにしたいという想いは、確かに胸に残っている。
目を閉じると、あの日の別れの光景が、はっきりと思い出された。
――覚悟を決めよう。
あの人を地獄から救い、幸せにするために、私は転生したのだから。
ふと、優しく包み込むような低い声が、脳裏を掠めた。
けれど、その声が本当の名を呼ぶ日は、永遠に訪れない。
それこそが、何よりの答えなのだ。
アメリア王女とヴァルク・ストーン伯爵を幸せにすること。
それが――侍女としての、最後の仕事だ。




