二十八話 暖かい背中
「夫です。声をかけて出たから、お店を閉めて来てくれたんだわ」
そう言って微笑む母親の顔は、どこか誇らしげだった。
その様子に、アメリアも小さく頷く。
フィーロを抱いてこちらへ来た男は、まず妻の姿を確かめると、ほっとしたように表情を緩めた。
「やっぱり公園だったんだな。怪我がなくて良かった」
「あなた、アメリア殿下が見つけてくださったのよ」
「アメリア……? あっ」
「お静かに。それと、“殿下”と呼ぶのもおやめください。今は公爵夫人です」
珍しく、シンシアがきっちりと従者らしい口調で制す。
それがおかしくて、アメリアとヴィータは顔を見合わせ、くすりと笑った。
「す、すいません……え、でも、どうして……?」
「偶然、息子を連れて遊びに来ていたのです。
こんなに小さいのに、たった一人でここまで来るなんて、とても利発なお嬢さまですわ」
「あ、ありがとうございます……」
視線を泳がせ、もぞもぞと礼を言う様子に、アメリアはふと思い出す。
――この人は、家族以外の相手と話すのが、あまり得意ではなかった。
相変わらずね、と内心で微笑んだそのとき、ヴィータがフィーロの前にしゃがみ込んだ。
「フィーロ! 退屈なら、僕が遊んであげるよっ」
「そ、そんな……申し訳ないです」
「遊んであげたいところだけど……そろそろお昼寝の時間じゃないかしら?
ここまで歩いて、疲れたでしょうし」
「えー。じゃあ、お店行きたい!
靴屋さんなんでしょ?」
目を輝かせるヴィータに、父親は少し照れたように笑った。
「ああ。靴のほかにも、革製品は一通り扱っています。
よければ……息子さんに、何か作って差し上げましょうか」
「まあ……よろしいんですか?」
店へ向かう道すがら、フィーロは父親の背中で、ほどなく小さな寝息を立て始めた。
規則正しく上下する背中を見つめ、母親は何度も、愛おしそうに視線を送る。
「……やっぱり、疲れてたのね」
「さっきまで、あんなに元気だったのに」
父は声を潜め、眠る我が子の温もりを確かめるように、そっと背中に手を添えた。
その光景を目にして、アメリアは小さく息を吐く。
それは――奥底に沈めていた、カリナの中の記憶と、あまりにもよく似ていた。
店は、城下の通りから一本入った、静かな場所にあった。
素朴な木の看板に刻まれた店名。扉を開けると、革の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
それは、懐かしさにも似た香りだった。
アメリアは、目を閉じるだけで、あの頃へ戻れてしまいそうな気がした。
「狭いですが……どうぞ」
奥の作業場には作業台と道具が整然と並び、壁には完成した靴や革製品が丁寧に掛けられている。
フィーロは長椅子に下ろされると、ふあぁ、と小さく声を上げ、再び眠りに落ちた。
「しばらく、寝てくれそうだな」
「ええ……本当に良かったわ」
その様子を見ていたヴィータが、作業台へ近寄り、興味深そうに覗き込む。
「ねえ、これなに?」
「革を縫うための道具だよ」
「へぇ……」
「そうだ。腕輪を作ってあげようか」
「いいの!? ほしい!」
「じゃあ、サイズを測らないとな」
ヴィータの腕に革を当て、慎重に印をつける。
ぎこちないが、ひと針ひと針に迷いはなく、とても真剣だった。
針が革を通る、小さな音。
その合間に聞こえる、フィーロの穏やかな寝息。
店の中には、柔らかな静けさが満ちていた。
少し離れた場所でその様子を眺めながら、アメリアの視線は、ふと作業場の一角に留まる。
――道具や材料の陰に、わずかな空間がある。
今は箱や端切れが無造作に積まれているが、片付ければ十分な場所を確保できそうだった。
ここに……
小さな敷物を敷いて。
木の積み木を置いて。
柔らかな布のおもちゃを並べて。
父の背中を見ながら、安心して遊べる場所があれば…。
「……あの」
気づけば、アメリアは母親に声をかけていた。
「この作業場、少し模様替えをしてもよろしいかしら」
「え……?」
「ほんの一角でいいのです。
フィーロが、ここで遊べる場所を作れたらと。
お客様がいらしている間も、あなたが目を離さずに済みますでしょう?」
母親は言葉を失い、作業場と眠る我が子を、交互に見つめた。
「そんな……そこまでしていただくわけには……」
「いいえ」
アメリアは、はっきりと、しかし穏やかに首を振る。
「子どもが、親の背中を見ながら、安心して過ごせる場所は――
とても、大切なものですわ」
その言葉に、母親の瞳が揺れた。
「……ご主人は、いかがですか?」
「えっ……はい! それは素晴らしいお考えです。ただ……その……
ありがたい申し出ですが……公爵夫人に、そんなことをさせるわけには……」
「決まりね」
アメリアは迷いなく言った。
「ヴィータ、シンシア。手伝ってちょうだい」
――ここだ。
この小さな場所からでも、変えられるものがある。
かつて、子どもたちが幼かった頃、カリナは背に負いながら店に立った。
目を離すことが怖くて、どれだけ疲れていても手を離すことができなかった日々。
けれど――
あの苦しかった日々と同じように歩むことを、あえて見過ごす必要などない。
新しい未来は、自分の手で作ればいい。




