二十六話 人が故に
「母上! それじゃあ、明日はまずここに行く?」
「どこへ行くんだ?」
ヴィータとふたり、明日の予定を立てていると、ようやくヴァルクが戻ってきた。
「父上! 父上も行く??
母上が街を案内してくれるんだって」
「街を? アメリアが?」
街の地図を掲げて嬉しそうに尋ねるヴィータを見て、不審そうにするヴァルクに、アメリアは苦笑いして答えた。
「シンシアも一緒よ。あなたは忙しいでしょう?」
「……明日も陛下と打ち合わせがあるが、どこかで合流できるようにしよう」
「やったぁー! 聞いた? 母上!」
「ええ、楽しみね。さ、あなたは明日に備えて、もう寝ましょう」
「はあーい!」
ローラがヴィータを子ども部屋に連れて行くのを見送ると、ヴァルクは大きなため息を吐き、椅子に腰掛けた。
持ち帰った書類の束を、睨みつけるように読み続けている。
「お父様は……とても確信に満ちていらっしゃったわね」
「……どういう意味だ?」
「私が王位を継ぐことが、この国をより発展させるとお思いなのでしょうか」
「それは……そうだろう。君のノルディアでの行いは、すべてこの国の領主たちの耳に入っている。誰もが君を真似ようと必死なのも……」
ヴァルクは知らない。
私が、前世で立ち直っていくこの国を知っていることを。
ここから先、五十年の未来を知っているのだ。
今はまだ存在しない技術も、知識も、私の中にはある。
たかが一市民であっても、その記憶があるだけで、私は先の世界を作れる。
だけど、それだけだということを、誰も知らないから――
そんなことが言える。
「……ねえ、ヴァルク」
いつまでも書類から目を離さないヴァルクに耐えきれず、アメリアは呼びかけた。
「あなたは、どう思っているの?」
「どう、とは?」
それでも下を向いたままのヴァルクに、胸の奥がちくりと痛む。
「私が王になるべきだと、本当に思っているのかって聞いているの」
その言葉に、ようやくヴァルクは顔を上げた。
「当然だろう」
迷いのない即答だった。
「君ほど、この国の未来を考え、行動できる者はいない。王位を継ぐにふさわしい」
「……私が王位を継げば、自動的にあなたは宰相になるのでしょう。そうなれば、ノルディアは他人に任せ、ここで暮らすことになるわよ。騎士団も同じ……」
「それが与えられる任なら、全うするまでだ。
もともと、すべて陛下より与えられたものだ」
その一言で、何かがぷつりと切れた。
「じゃあ、あなたは何を望んでいるの?
あなたは私が決めることだと言うけど、あなたは何も決めないの?
ただ、与えられるものを受け入れるだけなの?」
「そうは言っていない」
「言っているのと同じよ!」
思わず声を荒らげて、アメリアは立ち上がった。
「私には、平気で選べと言うくせに。
そういえば、婚約した時もそうだったわね……。あなたは、自分の望みは決して言わなかった。
私に選ばせたわ……! 自分を選んでほしいと……結婚してほしいと、一言も言わなかった!!」
「……それは、今関係ない話だ」
ヴァルクの低い声が、部屋に落ちた。
「……関係ない?」
「あの時は……君が選ぶべきことだった。
今もそうだ……君が選ぶことだ」
その瞬間、アメリアの目に宿ったのは、怒りよりも深い失望だった。
「あなたはそう言うけど、私に与えられている道は、女王になるか王妃になるかの二択で、それはどちらも大差ないわ」
「アメリア」
それ以上言うなと言うような彼の呼びかけに、決して止めることなく続ける。
「それに……私は……ヴィータに、弟か妹だって作ってあげたい」
「……なのに、あなたはこの五年……私に気づかれないように、子どもができないようにしてきたわよね」
ずっと心の隅に堕ちていた闇を、白日の下に晒すように、アメリアはヴァルクを睨んだ。
その事実に気づいた時、どれほど傷ついたか……。それでも、いつかは幸運が舞い降りるかもしれない、ヴァルクが考えを変えるかもしれないと、祈り続けた。
何も言わない彼を、追及もせず……。
アメリアの瞳に揺れる焔に、ヴァルクは言葉を失った。
それは、何ひとつ言い訳ができないと、自白しているかのようだった。
沈黙が、二人の間に重く落ちる。
ヴァルクは一瞬、何かを言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
「……今日は、ここまでにしよう」
そう言って視線を逸らした彼に、アメリアは背を向けた。
胸の奥が、じくじくと痛む。
「……今日は、ヴィータと眠るわ」
ヴァルクのこと、わかっていると思っていた。
彼は、いつだって正直な人だったから。
なにひとつ、嘘偽りを言わない。
誰にも言えなかった過去さえ、打ち明けてくれた。
己の過去の残酷な行為さえ、懺悔できる人だ。
だけど、今日、わからなくなった。
いや、わかっていたけど、わからないふりをしていたのかもしれない。
前世で彼は、今にも分裂し、他国に侵略されそうな、沈没しかけのこの国を守り抜いた。
それは、他の誰かに命じられたわけではなかったはずだ。
だから彼は、いつだって決断し続けた人だと思っていた。
それは……勝手な期待だったのだろうか。
彼が子どもを作ることから逃げていたことも、決断を誰かに委ねることも、彼の弱さなのだろうか。




