十九話 帰る場所
目を開けると……ぼんやりとした視界の先に、うっすらと天蓋が見えた。
その見慣れた光景に、戻ってきたのだと気づく。
けれど、身体はうまく動かなかった。
まるで固まってしまったかのように重く、今にもギシギシと音を立てそうだ。
手を動かそうとして、その掌が誰かに握られていることに気づいた。
ゆっくりと首を傾けると、そこには手を握ったまま眠るヴァルクの姿があった。
――アレクサンダーから救い出された時も、彼は朝まで手を握ってくれていた。
あの時は椅子にもたれて眠っていたけれど、今は椅子に腰掛けたまま、アメリアに寄り添うように手を握りしめ、顔を伏せて眠っている。
「ヴァルク……」
小さく呟いた瞬間、彼は弾かれたように目を覚ました。
起き上がり、アメリアを見るその瞳が、驚愕と畏れに揺れた――そう感じた次の瞬間、覆いかぶさるように抱きしめられる。
「良かった……目を覚ましてくれて」
「いつ帰ってきたの? びっくりしたわ。まだ暫く――」
「いつ帰ってきた、だって? 驚いたのはこっちだ。
君が倒れて目を覚さないと聞かされて……どれほど心配したと思っている」
一息つき、ヴァルクは続けた。
「もう十日も、寝たきりだったんだぞ」
「と……おか……」
「……赤ちゃんは?!」
慌てて起き上がろうと腕の中で身じろぎすると、ヴァルクは慌てず、そっと身体を起こしてくれた。そして彼女の手を取り、腹部へと導く。
すると――まるで返事をするかのように、はっきりとした胎動が伝わってきた。
「大丈夫だ。理由は分からないが、君は飲まず食わずでも衰弱せず、赤子も元気に動いていた。心拍も、しっかりしている」
「そ、そう……」
(さすがに“アメリア様と初代国王様のいる場所へ行っていました”なんて、言えないわ)
「シーリーン! アメリアが目を覚ました! 医者を呼んでくれ!」
その声を合図に、静まり返っていた部屋が一気に慌ただしくなる。
駆け込んできたシーリーンは不安そうな表情を浮かべていたが、アメリアの顔を見ると、ぱっと安堵の色に変わった。
「アメリアさまぁぁ……! よかった……本当によかったです。
こちら、お白湯をお持ちしました。ゆっくり飲んでくださいね」
「心配かけてごめんなさい。身体は少し怠いけど……元気よ」
白湯を口に含むと、温もりが身体の奥へと染み渡っていく。
医者の診察でも問題なしと告げられ、柔らかく煮込まれた料理が次々と運ばれてきた。
「さすがに、こんなに食べられないわ」
「いけません。出産も間近ですし、長く何も召し上がっていなかったのですから。赤ちゃんも、お腹を空かせているはずです」
「あまり急に食べるのも良くない。食べられる分だけでいい」
心配性なシーリーンをヴァルクがたしなめ、笑い返しながら、消化の良さそうなものから少しずつ口に運ぶ。
その様子をじっと見守る二人の視線が気恥ずかしく、どこかへ行ってほしいと内心思ったが――これほど心配をかけたのだ。とても言えなかった。
「……はあ。お腹いっぱい。すごく美味しかったわ」
「料理長が、毎日“アメリア様が目覚めた時のため”に用意していたのです。きっと喜びます。伝えておきますね」
シーリーンが食事を片付けて部屋を出ると、久しぶりにヴァルクと二人きりになった。
もう、何も遠慮する必要はない。
彼のそばにいられる――それだけで、胸の鼓動が早まる。
いつもなら心地よい沈黙が、今は心臓の音が聞こえてしまわないか不安になるほどだった。
「アメリア……」
「は、はい」
「……もう、怒っていないか?」
「え?」
(そういえば……ずいぶん、手紙を無視していたんだった……)
「そ、それはこちらの台詞です。返事を出さずにごめんなさい。
あなたは職務を全うしただけなのに……ヴァルクこそ、怒っていないのですか?」
「何を怒るんだ? それに……君が言ったじゃないか」
「……何か言いましたっけ?」
「また忘れたのか。自分の言葉なのに、本当によく忘れるな」
呆れたように笑いながら、ヴァルクはアメリアの手を取り、優しく撫でる。
「婚約の儀の前に、言っただろう」
困ったように、続けた。
「何があっても裏切らない。
自分が変わってしまったとしても、信じてほしい……と」
その言葉に、思わず声を上げる。
「い、言いました。でも……もう何年も前のことでしたから……」
言い訳するように顔を背けると、顎を取られ、こちらを向かされる。
「忘れていたのか……俺は、君が言ったとおりになってしまったのだと思っていたがな」
「ごっ、ごめんなさぁい……」
頬を押さえられてうまく話せずにいると、ヴァルクは吹き出すように笑った。
その様子に手を払いのけ、「もうっ!」と反抗する。
ヴァルクは、逃げるように逸らしたアメリアの顔を、そっと覗き込んだ。
「……怒っているふりをする余裕があるなら、大丈夫そうだな」
「それ、どういう意味ですか」
「君が無事で、本当に良かったという意味だ」
そう言って、彼は額にそっと口づける。
深くも長くもない、確かめるような口づけだった。
胸の奥がじんわりと温かくなり、アメリアは思わず目を閉じる。
「……どこに行かれても、待っています。だから必ず帰ってきてください」
「俺はもう二度と、こんな思いはごめんだ。できる限り、そばにいるよ」
言いたくて、言えなかった「待っている」という言葉。
それを口にできたことで、ようやく心から安堵した――その瞬間だった。
「……っ」
腹の奥が、きゅっと締めつけられるように痛んだ。
「……あれ?」
最初は気のせいだと思った。
けれど、波のように引いた痛みが、少し間を置いて、また押し寄せてくる。
「アメリア?」
「……ヴァルク、ちょっと……お腹が……」
今度は、はっきりとわかる痛みだった。
思わずシーツを握りしめると、ヴァルクの表情が一変する。
「……まさか」
「う、うん……たぶん……」
「シー――」
「あ、大丈夫よ。まだ」
「よ、呼ばなくていいのか? 産婆も……」
「これから、長い戦いになるからね」
珍しく狼狽えるヴァルクに、アメリアは小さく笑みを返した。




