十三話 回顧録 -愛-
「ねえ……こんな路地裏に来て大丈夫なの?」
公務以外で城下町に降りることすらないのに、フィリップに連れられて来たのは人気のない裏通りだった。すぐそばに護衛も連れてはいるが、不安になってフィリップの腕を掴む。
「安心して。ほら、すぐそこだよ」
指を指した先にあったのは、ずいぶん古びた建物だった。一階には何か店が入っているのか、看板が立てかけられている。
フィリップが窓から中を確認し、そっとアメリアを前に出した。
そこから見えたのは、ヴァルク・ストーン伯爵が店主らしい男と話している姿だった。
「ちょっ……ストーン伯爵じゃないの?!」
慌ててフィリップを掴み、身を低くしてしゃがみこみ、小声で続ける。
「どういうこと?!」
「彼が王都に来るたび、この店に出入りしているのは知っている?」
「知るわけないでしょ。今日来ていることだって、今知ったわよ!」
「もう少し見てみなよ。面白いものが見えるからさ」
「だめよ! 気付かれたらどうするの!」
小声でもこちらの怒りが伝わったのか、フィリップは口を尖らせた。
「つまらないな。せっかくここまで来たから、見てもらいたかったのに」
「だから、なにを――」
カランッ
店の扉が開くベルの音がして、慌てて裏手へと身を隠す。
「お忙しい中、持って来ていただいてありがとうございます!」
「いや、この剣を任せられるのは親父さんしかいないからな」
「父にとっても、ヴァルク様の剣を磨けるのは名誉なことですから」
ストーン伯爵と並んで店を出て来たのは、店主の娘だろう。
赤茶色の癖っ毛の髪に大きな目、そしてヴァルクよりも一回り小さい、ふっくらとした体つき。
声の感じからして、それほど年も変わらないように見える。
明るい笑顔でそう語る彼女に、無愛想なはずの伯爵が穏やかな表情で頷いた。
「それじゃあ、すまないが、明日の夜には取りに来る。仕上げておいてくれ」
「承知しました。
あの……もしかして今日は、王女様にお会いになりに行かれるのですか?」
「いや……どうだろうな」
「ヴァルク様がお忙しいのは存じていますが、アメリア王女はここ最近、体調を崩されて伏せっておいでだそうです。
ぜひお見舞いに行って、喜ばせて差し上げてください」
目を瞬かせ、まるで恋愛教授でもするかのように、伯爵にはっきりと物を言う彼女が、とても羨ましかった。
同時に、なぜこんな町娘が、騎士であり伯爵位を持つ人に、こんなことを言えるのかと苛立ちも覚える。
「殿下は…俺を待ちはしない」
「どうして、そんなことがわかるのですか? ヴァルク様をお慕いしない方など、おりませんのに」
「殿下は、この国でもっとも高貴なお方だ。彼女はいずれ……いや…やめておこう。
それより、街の食堂で働き始めたと聞いたが、うまくいっているか?」
「はいっ! 私……食べるのが大好きなので、毎日お客さんの美味しそうに食べる姿を見ていると、幸せな気分になれますから。
でも、自分のお腹が鳴りすぎて困ります」
「ははっ…それは良かった。今度、団員たちを連れて行くよ」
「本当ですか?! 氷狼騎士団が食べに来たってなったら、きっと評判になります!!」
楽しげな会話。
ヴァルクが時折笑い声を上げ、目を細める。
――そんな姿を、見たことがあっただろうか。
思い返してみても、彼との思い出など一片もない。
知っているのは、王宮で無愛想に立つ姿だけ。舞踏会が開かれても、壁の装飾のように佇んでいる様子くらいしか思い出せない。
彼は、こんなにも楽しそうに女性と笑い合えるのか。
彼女だから?
それとも、私以外には気さくな男なのだろうか。
呆然とその様子を盗み見ていると、耳元でフィリップが囁いた。
「ヴァルク・ストーン伯爵は、王女殿下に会いにも行かず、街の鍛冶屋の娘にお熱だって噂……本当だったみたいだね。
君と年も、そんなに変わらないのに……。
どこからどう見ても、アメリアとは比べ物にならない子だけど……ああいう子が好みなのかな?」
言葉とは裏腹に、フィリップの瞳は輝いていた。
まるで新しい玩具を手に入れた子どものように、喜びを抑えきれず笑っている。
その瞳を見て、彼がとても酷い人間だと――心のどこかでは、わかってしまった。
それでも、腰に手を回され、首元に顔を埋められると、それを振り解くよりも、爽やかな柑橘の香りに包まれたいと思ってしまう。
「僕なら、あんな子より……迷いなくアメリアを選ぶのにな」
「……他の女と遊ぶのなら、同じでしょ」
「違うよ……僕の心を手に入れられるのは、一人だけだ」
絡みつくようなフィリップの視線。
ゆっくりと近づいてくる彼から、目を離せなかった。
近くにいるヴァルク・ストーンの存在など、もはやどうでもよかった。
唇が触れた瞬間、フィリップの首に腕を巻きつける。
深く――
深く――
落ちていく。
その先が地獄だと、まだわかっていなかった。
フィリップの真意も、自分の愚かさも、そして……ヴァルク・ストーンがこの国にとって、どれほど重要で必要な人間かも――
何ひとつ頭にないまま、ようやく愛を手に入れたのだと、愚かにも信じていた。




