何も言わない男
夜の台所は、いつも静かだ。
冷蔵庫の低い音と、換気扇に残る気配だけがある。
彼女が帰ってくるのは遅い。
コートを脱ぎ、鞄を置き、ため息をひとつつく。
それから、棚の前に立つ。
そこに、彼はいる。
何も言わない男だ。
彼はいつも同じ場所にいて、
呼ばれるまで動かない。
引き出され、開かれる。
それだけで、彼女には分かる。
今日は、これを作るのだと。
彼は多くを示さない。
余計なことは書いていない。
必要な手順だけが、静かに並んでいる。
彼女は無言で包丁を取り、野菜を切る。
フライパンに火を入れるのは、彼女の役目だ。
彼は火を使わない。
最初の頃、彼女はよく失敗した。
味が濃すぎたり、火を入れすぎたり。
それでも彼は、何も言わなかった。
責めることも、慰めることもない。
ただ、そこにあるだけだった。
棚には、他にも男たちがいる。
写真が綺麗で、流行りの料理ばかり載った、新しい男たち。
彼らは明るく、分かりやすい。
でも、疲れた夜には選ばれない。
選ばれるのは、決まって彼だった。
彼の身体には、染みがある。
跳ねた油の跡。
零した調味料の影。
角は少し折れていて、
頁の端は、何度も触れられた柔らかさを持っている。
今日は失敗できない、と思った夜ほど、
彼女は彼を呼ぶ。
同じ味を、何も考えずに作りたい夜。
彼は応える。
言葉ではなく、配置と順番で。
料理が出来上がる頃には、
彼女の肩の力は抜けている。
特別な味ではない。
けれど、覚えている味だ。
食べ終えた後、彼女は彼の頁を拭く。
丁寧に、汚れを落とす。
そして、棚に戻す。
彼はそこから動かない。
夜が終わり、台所の灯りが消える。
彼女は眠り、明日が始まる。
彼は知っている。
また呼ばれることを。
火を使うことはない。
声を出すこともない。
それでも彼は、
誰かの夜を支えるために、
今日も棚に戻される。
――何も言わない男として。




