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何も言わない男

作者: 花竜
掲載日:2026/01/12

夜の台所は、いつも静かだ。

 冷蔵庫の低い音と、換気扇に残る気配だけがある。

 彼女が帰ってくるのは遅い。

 コートを脱ぎ、鞄を置き、ため息をひとつつく。

 それから、棚の前に立つ。

 そこに、彼はいる。

 何も言わない男だ。

 

 彼はいつも同じ場所にいて、

 呼ばれるまで動かない。

 引き出され、開かれる。

 それだけで、彼女には分かる。

 今日は、これを作るのだと。

 

 彼は多くを示さない。

 余計なことは書いていない。

 必要な手順だけが、静かに並んでいる。

 

 彼女は無言で包丁を取り、野菜を切る。

 フライパンに火を入れるのは、彼女の役目だ。

 彼は火を使わない。

 

 最初の頃、彼女はよく失敗した。

 味が濃すぎたり、火を入れすぎたり。

 それでも彼は、何も言わなかった。

 

 責めることも、慰めることもない。

 ただ、そこにあるだけだった。

 

 棚には、他にも男たちがいる。

 写真が綺麗で、流行りの料理ばかり載った、新しい男たち。

 彼らは明るく、分かりやすい。

 でも、疲れた夜には選ばれない。

 

 選ばれるのは、決まって彼だった。

 

 彼の身体には、染みがある。

 跳ねた油の跡。

 零した調味料の影。

 角は少し折れていて、

 頁の端は、何度も触れられた柔らかさを持っている。

 

 今日は失敗できない、と思った夜ほど、

 彼女は彼を呼ぶ。

 同じ味を、何も考えずに作りたい夜。

 

 彼は応える。

 言葉ではなく、配置と順番で。

 

 料理が出来上がる頃には、

 彼女の肩の力は抜けている。

 特別な味ではない。

 けれど、覚えている味だ。

 

 食べ終えた後、彼女は彼の頁を拭く。

 丁寧に、汚れを落とす。

 そして、棚に戻す。

 

 彼はそこから動かない。

 

 夜が終わり、台所の灯りが消える。

 彼女は眠り、明日が始まる。

 

 彼は知っている。

 また呼ばれることを。

 火を使うことはない。

 声を出すこともない。

 

 それでも彼は、

 誰かの夜を支えるために、

 今日も棚に戻される。

 ――何も言わない男として。

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