乳房が張る
ああ……。痛いな。
宮本 彩海は乳房の張りを感じながら夜の街を歩いている。断続的に降り続き、道に積もった雪に足跡を残しながら。
人気はない。それでも確かに彩海以外の足跡もあり、彩海は恐ろしくなる。
今、誰かに出会ったら――
それはまともな人間なんだろうか。
警察なんか当てに出来ない。
彩海の手にはミネラルウォーターとポテトチップス。忍び込んだ民家で見つけた物。最近盗った物の中では「当たり」だろう。
あれが起きたのは数週間前か、数ヶ月前か。それさえ彩海には、はっきりしない。
あの日、全ての人類の意識に装備された。
自分の命のスイッチが。
そのスイッチを「切りたい」と強く願えば、その人は切れた。他人にスイッチを再度入れる事は出来ない。
まず、自殺願望に囚われていた人間たちが大量に切った。
ロープも不要。
ナイフも不要。
クスリも不要。
ただ、思うだけで終わりに出来る。彼らにとって、こんなにありがたいスイッチはなかった。
次は子供たち。「このまま大人になっても……」と未来に希望を感じられない子供たちが切っていった。すると大切な友人を失った悲しみ、子供特有の残酷な同調圧力などにより更に子供たちは切っていく。
ここまでくるともう、順番も何もなくなっていた。
子供を失った親たち。
自分の介護が負担になっていると感じていた老人たち。
同じ毎日の繰り返しにうんざりしていた若者たち。
もはや、「将来を悲観して」「辛い現状に耐えられなくて」などではなく「なんかめんどくさい」が充分な理由になってしまっていた。
雪が降る闇の街を彩海は歩く。
白い息を吐きながら。
――最後に人と話したのはいつだったっけ? たしか先週、家に突然来た悠香と話した。
学生の頃から友人だった悠香。
スイッチが装備される前に恋人と婚約していた悠香。
「彩海、あいつ……、切っちゃったよ。なんでかな……? 私と生きるの嫌になったのかな?」
そう言うと、悠香も切った。彩海の目の前で。話の途中で。
悠香の死体は今もリビングに転がっている。
「猫だって、人の目につかないトコで死ぬって言うのに……」
彩海が不満を零したとき、自宅アパートが見えた。周囲に人は見えないが、知らない足跡が数種類。
今まで以上に慎重に歩を進める。凄まじい緊張感に「私も切ってしまえば……」と甘い誘惑が浮かぶ。
彩海は自室がある二階への屋外階段に足跡がないことを確認し、階段を上がる。自室の鍵を開け、一度振り返る。
――誰にも尾けられていない。
自室に入り、鍵を掛けた彩海は玄関に座り込んだ。
極限まで張り詰めていた神経が緩んでいくのを感じる。
入れ替わるように、張り詰めている乳房の痛みを感じる。
「ふっ……、ふぎゃ……、ふぎゃ」
その声に彩海は立ち上がり、奥の和室へ向かう。
リビングには悠香の死体、そして和室には夫の死体。
「ごめんね。お腹空いたねえ」
二つの死体を跨ぎ、ベビーベッドに辿り着いた彩海は上着を捲りあげる。
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