月光のオルゴール
少し幻想的で切ない物語です。
祖母が亡くなったのは、春の雨が静かに降る日だった。
訃報を受けて十年ぶりに訪れた祖母の家は、かつてとほとんど変わっていなかった。古びた木造の平屋には、あの頃の匂い——少し湿った畳と、お茶の残り香がまだ漂っていた。
仏間に通され、祖母の写真に手を合わせたあと、ふと隣の和室に目をやると、押し入れの奥にある古い箪笥が目に入った。子どもの頃、「そこには絶対に入っちゃだめ」と言われていた箪笥だ。
その禁じられた言葉に、逆に強く惹かれていたことを思い出す。
供養の手伝いを終えたその夜、私は一人で和室に入り、懐中電灯の明かりを頼りに、そっとその箪笥を開けてみた。
引き出しの中には、いくつかの古びた封筒と、ひとつの木製の小箱があった。手のひらほどの大きさの小箱には、「レナへ」と筆ペンで書かれた紙が貼られていた。レナ、それは私の母の名前だ。
「これ、母さん宛て……?」
恐る恐る箱を開けると、そこには小さなオルゴールが入っていた。銀色の細工が施された繊細な作りで、月と星の模様が浮き彫りになっている。ゼンマイを巻いてみると、静かな音色が部屋に広がった。
♪〜ラララ… ラララ…
どこか懐かしいような、けれど聞いたことのない旋律だった。
その瞬間、空気が一変した。畳の上に月の光が差し込んできたかと思うと、まるで時が止まったような静寂が辺りを包んだ。
「やっぱり、来たのね」
振り向くと、そこに立っていたのは——少女だった。
十歳くらいだろうか。白いワンピースを着て、長い髪を揺らしながら、にこりと笑った。その顔には、見覚えがあった。いや、見覚えがあるはずがなかった。ただ、なぜか彼女の名前を私は知っていた。
「……アヤ?」
「うん。レナが来ると思ったけど、あなたが来たのね。久しぶり」
アヤは静かに微笑んだ。
「どうして私、あなたの名前を知ってるの?」
「オルゴールの旋律は、記憶をつなぐの」
彼女の言葉は謎めいていたが、なぜか納得してしまった。
「このオルゴールは、かつておばあちゃんが作ったの。あなたの母さんのために。でも、その前に——私のために」
彼女は語り始めた。昭和の終わり頃、祖母には一人の親友がいた。その名はアヤ。幼い頃から病弱で、学校にも通えない日々が続いていた。
二人はよく、祖母の家で過ごしたらしい。祖母は木工が得意で、アヤのためにオルゴールを作った。それが、この「月光のオルゴール」だった。
「でも、私は……この世を離れなければならなかったの」
アヤの声が少しだけ震えた。
「最後の願いはね、『もう一度だけ、大切な人に会いたい』ってことだったの」
彼女はふと、月の光に手を伸ばした。
「オルゴールの旋律には、不思議な力があるの。記憶の奥深く、心のなかに眠る思い出を呼び起こして、時を超える扉を開く。ほんの短い間だけどね」
私は何も言えなかった。ただ、その存在の儚さに心を奪われていた。
「あなたに会えてよかった。これで、もう本当に……行ける気がする」
「待って。あなたは、もう……」
「うん。でも、あなたが来てくれたから、もう寂しくない」
アヤの姿は、少しずつ薄れていった。まるで霧のように、光の中に溶けていく。
「ありがとう。そして——さよなら」
最後の言葉とともに、オルゴールの音色が静かに止んだ。
部屋に戻った空気は、もとの現実の世界だった。畳の上には、月明かりだけが差し込んでいた。
オルゴールを抱きしめながら、私はそっと呟いた。
「おばあちゃん、あなたは……本当にすごい人だったんだね」
その夜、夢のなかで、もう一度だけアヤに会った気がした。
彼女は、今度は手を振って——笑っていた。
読んでいただきありがとうございました。