ノベル1巻発売記念SS イザベルの手作りクッキー
いつもより早めに屋敷に戻ると、普段なら出迎えてくれるイザベルの姿が見えなかった。
「イザベルは?」
アレックスは家令のドールに尋ねる。
「奥様はお坊ちゃまとの庭遊びで体が汚れたとのことで、入浴中でございます」
「そうか」
アレックスは上着を脱いでドールに手渡す。そのとき、どこからか甘い香りがした気がして、鼻をすんと鳴らす。
「甘い香りがするが、なんの匂いだ?」
「今日の日中、奥様がクッキーを焼かれたので、その匂いでしょう」
「クッキー?」
「はい。お坊ちゃまのために、定期的に焼かれています」
ドールはにこりと微笑んで頷く。
(へえ。イザベルはクッキーを焼けるのか)
正直、意外に思った。
貴族令嬢がチャリティバザーのために菓子を焼くのはよくあることだが、大抵は屋敷の料理人にほとんどをやらせてしまう。
これまでのイザベルの悪評を考えると当然彼女もそうだと思っていたのだ。
(ルイスのために作っているのだろうな)
ルイスは甘いものが大好きでなんでもよく食べるが、その中でもクッキーが大好物だ。
イザベルが手作りクッキーを作っている理由がルイスのためであることは、想像に難くない。
「奥様のクッキーはどれも見た目も味も素晴らしく、使用人達の間でも評判なんですよ。次はいつ焼いてくださるのかと楽しみにしている者もいるくらいです」
アレックスはふと動きを止める。
「彼女は使用人達にもクッキーを配っているのか?」
「はい。クッキーを焼かれた日は、いつも使用人の皆にもお裾分けくださいます」
朗らかに微笑んで頷くドールの言葉に、アレックスは衝撃を受けた。
(貰っていないぞ)
クッキーを特別好きなわけではないが、イザベルが作った手作りクッキーとなると話は別だ。
しかも、使用人たちまで食べたことがあるというのに夫である自分が一度も食べたことがないとは、由々
しき問題である。
(今日焼いたと言っていたな。ということは、一枚くらい残っているはずだ。もしかしたら、今日は貰えるかもしれない)
自分で言うのもなんだが、イザベルとの関係性は結婚当初よりとてもよくなった。アレックスはほのかな期待を胸に、食事の時間を楽しみにすることにした。
◇◇◇
今日のアレックスはどこか様子がおかしい。
夕食のときからちらちらとイザベルのほうを見てくるくせに、イザベルがアレックスを見返すとぱっと目を逸らされてしまうのだ。
(何かあったのかしら?)
ルイスの外遊びに付き合っていたら体に泥が付いてしまったので早めに風呂に入っており、出迎えはできなかった。そのせいかと思い夕食の際に謝罪したが、「ああ、構わない」と全く気にしている様子はなかった。
それなのに、相変わらずアレックスの様子がおかしい。
原因が職場にあるのか、屋敷にあるのかが全くわからなかった。
(悩んでても仕方ないし、聞いてみるのが一番よね)
イザベルは意を決してアレックスを見つめる。
「旦那様」
「ああ、なんだ?」
待っていたかのように返事したアレックスの表情はどことなく嬉しそうだ。
「今日、何かあったのですか?」
「いや、いつも通りだが?」
「そうですか」
会話が終わる。アレックスはどこかがっかりしたような表情を見せた。
(なんで急に落ち込んでいるの? それに、帰ってきてから、なんでちらちら見てくるの⁉)
イザベルは考える。もしかして、イザベルの化粧がおかしくてがっかりしたのだろうか。
風呂を出たあと、夕食までに時間があまりなかったので実はいつもの半分の時間で仕上げてもらった。
だが、もしそうであれば話しかけたときに嬉しそうな顔をした理由がわからない。
(全然わからないわ)
夫婦とは言葉がなくてもお互いに察することができるとどこかで聞いたことがあるが、残念ながら全く察することができない。
アレックスはごほんと咳払いをした。
「……イザベルは日中、何をして過ごしたんだ?」
「日中? ルイスと遊んでいました」
「何をして?」
「えーっと、屋外の遊び場で遊ぶのを見守ってましたね。あとは、一緒に砂のお城を作りました」
「そうか。今日作ったのはそれだけか?」
「はい、そうです」
「本当に?」
「本当です」
「……そうか」
アレックスは黙り込む。
(本当に、どうしたのかしら?)
誘導尋問されている気分だ。だが、イザベルが日中したことといえばルイスと遊んだことくらいだ。
「イザベル。何か食べたくないか?」
「夕食が足りませんでしたか?」
「夕食は足りた。ただ、甘いものを食べたくないか?」
「フルーツでも切って持ってこさせましょうか?」
「いや、フルーツじゃないんだ。もっとずっしりと甘い──」
「砂糖菓子にしましょうか?」
「それは甘すぎるな」
「…………」
誘導尋問の次は、謎解きをしている気分だ。
「うーん……あっ、そうだわ。今日の日中にクッキーを焼いたので召し上がりますか?」
明日のおやつ用に取っておいたものが数枚残っていたことを思い出したイザベルは、アレックスに尋ねる。
「そうだな。それをいただこう」
アレックスの顔が途端に明るくなる。
イザベルが使用人に言付けて残っていたクッキーを何枚か持ってこさせると、アレックスはそれをじっくり見つめてから口元に運んだ。
「これはきみが作ったのか?」
「はい」
「サクサクしていて美味しいな」
「お口に合うようでよかったです」
イザベルはクッキーを頬張るアレックスの横顔を窺う。どことなく嬉しそうだ。
(ルイスがクッキーを好きなのは、アレックス様に似たのかしら?)
喜んで食べる姿が、ルイスのそれと重なる。
「……今度から、クッキーを作った際には旦那様にもご用意しますね」
「ありがとう」
アレックスは顔を上げ、ふわっと笑う。
(やっぱりルイスに似ているわ)
イザベルも釣られるように微笑んだ。
ノベル1巻がフェアリーキス様より発売されました。
第2部も準備中ですので、引き続き応援よろしくお願いします!