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ソファーセットの向かいに座ったアレックスを、イザベルは窺う。彼はクラバットを緩め、楽な格好をしていた。
サイドボードから蒸留酒を取り出すと、自分とイザベルのグラスに注ぐ。そして、グラスに手をかざした。
「え? 氷が──」
「ちょっとした魔法だ。冷えて飲みやすくなる」
「ありがとうございます」
グラスの中には丸い氷が入っていた。まるで、前世のバーで見たウイスキーのようだ。
「アレックス様はすごいですね」
イザベルはしみじみと言う。
残念ながらイザベルには魔法が使えない。少し手をかざすだけでこんなことができてしまうなんて、素直にすごいと思った。
「そんなことはない。俺からすると、きみのほうがよっぽどすごい」
「わたくしが?」
なぜそんなことを言われるのかわからず、イザベルは首を傾げる。
「誰にも懐かなかったルイスの心を開き、あの子を笑顔にした。屋敷もきみが来てからというもの、明るくなった。それに、面白いアイデアを考えついては実現し、周りを驚かせる」
イザベルはきゅっと膝の上の手を握り締める。
「買い被りすぎです。わたくしは、何も特別なことをしておりません」
イザベルはアレックスの言うようなできた人間ではない。ただ単に、殺されるのが怖くて断罪ルートを回避しようと努力していたらこうなっていただけだ。
それも、記憶が戻ったから今のような行動をするようになっただけで、戻っていなかったら今頃ルイスを虐める最低な母親になっていたことだろう。
アレックスはふむと頷く。
「きみがそう言うなら、そういうことにしておこう」
アレックスはそこで一息置く。
「ルーン子爵とサラの件だが、ようやく決着がつきそうだ。特に、ルーン子爵が雇ったならず者の口が軽くて助かった。自分たちが最悪処刑されるかもしれないとわかったら、見聞きしたことをペラペラと証言してくれたよ」
アレックスによると、今回の事件はサラが娘のことでアレックスを恨んでいたルーン子爵を利用して、イザベルとルイスを殺そうと企んでいたということだ。
ただ、サラの計画は最も肝心な点──ルーン子爵と目指すところの擦り合わせができていなかった。
ルーン子爵はイザベルを誘拐して行方不明にすることで大切な人を失った苦しみをアレックスに味わわせた上で、ルイスを引き取ってミゲルの側近の後見人として権力を手にすることを欲した。
一方のサラはイザベルとルイスを纏めて亡き者にして、悲嘆に暮れるアレックスを慰めることで自分がアンドレウ侯爵家の夫人の座に収まろうとしていた。
だから誘拐したイザベルにルイスが付いてきてしまったと判明したとき、ルーン子爵は保護しようとし、サラは殺そうとした。
お互いに目指すところが違うのだから、上手くいくはずがない。
アレックスは淡々と話しているが、心中は穏やかでないはずだ。
幼馴染として育ち、ずっと信頼していた相手が実はとんでもないことを企んでいたと知ったのだから、当然だ。
「アレックス様。話してくださりありがとうございます」
アレックスはイザベルを見つめ、僅かに目を見開く。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「いや、礼には及ばない。きみには当然、知る権利がある。裁判が始まったら、結果も伝えよう」
「……はい」
治癒魔法を施されて一命を取り留めた彼らが果たして幸運だったのか、イザベルにはわからない。
まだ事件については捜査中だが、もし罪が確定したら、あのときに死んでいればと思うような辛い獄中生活になる可能性も否定できないからだ。
ふと、イザベルを騙して西門に連れ出した女官の姿が脳裏に浮かぶ。
「あの……、拘束された女官の方は?」
「ああ、彼女も拘留されているよ」
「……そうですか。あの……わたくし、昔彼女の家族にひどいことをしたようなんです。一言謝罪をしたくて──」
イザベルはおずおずと口を開く。
彼女がルーン子爵からの誘いに乗ったのは、双子の姉妹がイザベルに因縁を付けられて鞭打ちになったからだ。記憶が戻る前のこととはいえ、罪悪感があった。
「事情は少し聞いたが、その必要はない」
アレックスはぴしゃりと言う。
「きみは公爵令嬢で、彼女の妹はきみの世話を任されたメイドだった。そのメイドがきみの機嫌を損ねたら、きみには彼女を罰する権利がある」
「そう……ですね……」
イザベルは俯く。
前世の記憶が戻ってしまっているからだろうか。アレックスの言うことは至極まっとうなのだが、感情的についていけない。
以前のイザベルは、明らかに因縁としか思えない理由でそういう仕打ちを繰り返してきたのだから。