(8)
先ほどまで楽しそうだった彼女たちの顔から、笑みは完全に消え去っていた。代わりに現れたのは、恐怖と焦燥の感情だ。
「も、申し訳ございません!」
ひとりがそう言って頭を下げると、他のふたりも慌てたように頭を下げる。
(え? 何?)
その反応に、イザベルは驚いた。
「少しだけ休憩していただけなんです。けっしてさぼっていたわけでは──」
あたふたしながらも、彼女は弁解する。その顔は気の毒なほど真っ青で、肩は小刻みに震えていた。
(え? もしかしてわたくし、怖がられているの?)
ごきげんようと挨拶しただけなのに!
(どんだけ危険人物だと思われているのよ?)
まるで恐怖の大魔王でも現れたかのような恐がられ方に、割とショックを受けた。
だが、そのメイドの顔を改めて見たとき、ふと彼女の顔に見覚えがあることに気付いた。
(あら? この方って──)
すっかり忘れていた記憶が蘇る。
イザベルがこの屋敷にやってきた初日に、何か気に入らないことがありメイドをむち打ちにしようとしてアレックスに止められるというトラブルがあった。
今イザベルと向き合って震えているメイドは、その場に居合わせたひとりだった気がする。
もちろん、これは記憶が蘇る前の出来事だ。
実を言うと、あんなに怒り狂った割には何が気に入らなかったのかもう覚えていない。きっと、どうでもいいような些細なことに違いない。
(ああー、本当にごめんなさい!)
イザベルは心の中で平身低頭謝罪する。
本人も覚えていないような些細な出来事でぶち切れて鞭打ちしようとする女主人なんて、彼女からしたら恐怖の対象でしかないだろう
(たった一度の接触でここまでメイドに恐怖心を植え付けるなんて、悪虐継母イザベル恐るべし!)
自分のことなのに、他人事のように感心してしまう。
イザベルはコホンと咳払いする。とにかく今のこの状況──まるで凶暴な猛獣と遭遇して恐怖に震えている子羊たちのような構図をなんとかしたい。
「ええ。もちろん、あなた達がさぼっているわけではないことはわかっているわ。わたくし実は、今日は皆さんと少しお話ししたいと思ってここに来たの」
イザベルは努めて穏やかな口調で、なるべく怖がらせないように彼女達に話しかける。
「……お話し、ですか?」
ひとりが困惑したように聞き返してきた。
「ええ。わたくしはまだアンドレウ侯爵家について何も知らないから、皆さんから教えていただきたいと思って」
メイド達はお互いに探り合う様に目配せする。
どう返事をするのが正解なのかわからず、考えあぐねいているようだ。
(うー、お願い!)
返事を待ちながらも、イザベルは祈るような気持ちだった。彼女達に『ノー』と言われると、別のメイドを捜さなければならなくなる。
そして、その別のメイドにもきっと避けられるだろう。
数十秒の沈黙ののちに、メイドのひとりが「あ!」と声を上げる。
「──あの、私やり忘れていたことを思い出したので失礼します!」
メイドのひとりが立ち上がり、がばっと頭を下げる。
「え?」
呆気にとられるイザベルをしり目に、彼女はそそくさと部屋を出て行った。
その直後、別のメイドが「そうだわ!」と言った。
「そういえば、旦那様からの頼まれごとが──」
そのメイドはそう言いながら、いそいそと部屋を出て行く。イザベルはその後姿を呆然と見送った。
(に、逃げられたわ!)
好かれていないことは知っていたけれど、実際に面と向かってここまで露骨に避けられると傷つく。
(やっぱり悪役がメイドと仲良くなるなんて、無理なのかしら)
諦めかけたそのとき、唯一残っていたメイドが「あの……」と遠慮がちに口を開いた。
「私はあと五分ほどで休憩時間が終わるのですが、それまででもよければ」
イザベルはパッと表情を明るくする。
「本当? もちろんよ。あなたに迷惑をかけるつもりはないわ」
正直、三人目のメイドにも断られると思っていた。
少し機嫌を損ねただけで鞭打ちすると騒ぎ立てるような女主人とお茶をしたいメイドなど、いるわけがないのだから。少なくとも、自分だったら絶対に同席したくない。
(きっと、この子は気立てが優しい子なのね)
彼女は少しだけ低めな鼻とくりっとした大きな目が相まって、可愛らしい印象を受けるメイドだった。
赤茶色の髪の毛は肩、前髪は眉毛の少し上で切り揃えてあり、年齢はイザベルと同じ二十代前半に見える。
「それで、奥様は一体アンドレウ侯爵家について何を知りたいのですか?」
「色々よ! まずは、あなたのお名前は?」
イザベルは目をきらきらさせて問いかける。
よい関係を築くために、まずは彼女自身について知りたいと思ったのだ。
「私の名前ですか? エマと申します」
「そう。よろしくね、エマ。ここのお屋敷で働き始めて長いの?」
「そろそろ三年になります」
「まあ、そうなのね」
相槌を打ちながらも、イザベルは目まぐるしく頭を回転させる。
(三年前ということはルイスが一歳のときだから、まだ前妻が生きていた頃のはずよね)
前妻がどんな人だったのかもとても気になるが、まずは今の屋敷のことを把握したい。