(68)
イザベルはチラッとルイスとレオンの様子を窺う。ふたりとも動かないので、気を失っているのだろう。
「サラさん、落ち着いて。子供達を元の場所に戻して。ルイスにもしものことがあったら、アレックスが悲しむわ」
イザベルは努めて冷静に、サラの説得を試みる。
「あら、大丈夫よ。すぐに私がアレックスとの赤ちゃんを産むもの。あんな他に男を作った女の子供のことなんて、すぐに忘れるわ」
うっとりしたようにサラは言う。
「何を言っているの? そんなわけないでしょう! ルイスはアレックス様の子供よ。他に代わりなんてない!」
次の瞬間、バシンと音がして左頬に痛みを感じた。サラに引っぱたかれたのだ。
口の中が切れたようで、血の味が広がった。
「私に口出ししないで。あなた、状況が理解できていないようね。私の機嫌を損ねたらどうなるかわかってるの?」
「……っ!」
「アンドレウ侯爵家で、アレックスと私は幸せに暮らすの。だから、消えてくれる?」
サラはイザベルの顔を覗き込むと、にたりと笑う。その瞳は、ここにはないどこか空想の世界を見ているようにすら見えた。
(アレックス様、助けて──)
イザベルは心の中で呼びかける。
なぜか脳裏に蘇るのは、アレックスの顔だった。
「ねえ、仕返ししなくていいの?」
サラは背後のドアのほうを見ると、誰かに呼びかける。
「あなた……」
その声に応じて部屋に入ってきた女性を見て、イザベルは驚愕した。それは、王宮でイザベルを連れ去る手引きをした女官だった。
「ちょっと綺麗な顔しているからっていい気になっているから、わからせてあげて」
サラは馬に使う鞭を彼女に手渡すと「きゃははっ。いい気味」と笑う。
「血が飛んだらドレスが汚れちゃうから部屋から出てるわ。じゃあね」
サラは冷酷な笑みを浮かべイザベルを見つめ、ひらひらと手を振って部屋を出て行った。
(嘘でしょ!?)
馬用の鞭で打たれたら、イザベルの肌などひとたまりもないだろう。間違いなく肌は裂け、肉が引き裂かれて血が止まらなくなるだろう。鼻は折れ、目は失明するかもしれない。
「やめ──」
(アレックス様!)
真っ青になったイザベルは来たる痛みに恐怖してぎゅっと目を瞑り歯を食いしばる。ヒュンという音がした。
「きゃあ!」
部屋に悲鳴が響く。
(ん? わたくしの声じゃないわ)
イザベルは恐る恐る目を開け、驚いた。
鞭を持った女は床にころがり、レオンがその上に馬乗りになっている。
「ルイス! なわを」
「うん! えいっ!」
レオンに促され、ルイスが女に向かって縄を投げる。縄はひとりでにしゅるしゅると女に巻き付き、あっという間に彼女を縛り上げた。女は気を失っているようだ。
「あなたたち、どういうことなの?」
イザベルは呆然としてレオンとルイスを見つめる。さっきまで、ふたりとも気を失っていたのに。
「おかあさまがつれさられるのをみて、たすけようとおもってレオンとばしゃにしのびこんだの。ばしゃのなかでそうだんして、わざとつかまってゆだんさせようって」
「なんですって!?」
イザベルはてっきりふたりも誘拐されたのだと思っていたが、まさか自ら進んでこの状況に飛び込んでいたとは。イザベルはふたりが気を失っていると思っていたが、実際は気を失っているふりをしていただけなのだろう。
「縄はどうやって外したの? 縛られていたわよね?」
「あんなおそまつなしばり方、しばるうちに入らないよ。父上のしどうのほうがひゃくばいきついもん」
レオンはなんてことないように言う。
(え? 騎士団長って息子を縛って自力で脱出させる訓練をしているの!?)
たしかに職務的にはそういう状況に遭遇しないとも限らないが、まだ五歳の我が子にまでそんな技を教え込んでいるとは。
「ぼくはちちうえにかぜをナイフみたいにするまほうおしえてもらった」
ルイスは得意げに、魔法で切断したロープを見せる。
「まあ……」
そんな魔法を使えるようになっているだなんて、全く知らなかった。
「あ、おかあさま。なわきってあげるね」
ルイスはイザベルがまだ縛られたままであることに気付くと、紐を魔法で切ってくれた。
「ありがとう。ルイス、レオン!」
あとは、なんとかしてここから逃げ出さなければならない。ドアの向こうには、ルイス達を運び込んだ大男とサラの少なくともふたりはいるはずだ。もしかしたら、ルーン子爵もいるかもしれない。
そのとき、ドアの向こうで何か言い争いをしている声が聞こえてきた。
(何かしら。仲違い?)
イザベルはドアに耳をぴったりとくっつけ、耳を澄ます。
「なんてことを! あの子はルーン子爵家で引き取る大事な子だぞ! すぐに元の場所に──」
「はあ? 何言っているのよ! 今さら元の場所になんて戻せるわけないでしょ!」
「私はルイスを誘拐しろなど命じていない! あの邪魔な女をアンドレウ卿から奪って心に傷を負わせた上で、ルイスを引き取ってだな──」
「勘違いしないで。あの女が消えたところでアレックスは何も心に傷なんて負わないわよ。だって、私がいるもの」
イザベルは眉を顰める。
どうやら、ルーン子爵とサラが言い争っているようだった。