(65)
イザベルは女官のあとに続き、応接室へと向かう。けれど、途中で違和感を覚えた。応接室には数回行ったことがあるが、今いる場所に全く見覚えがなかったのだ。
「ねえ。応接室ってこっちだったかしら?」
イザベルが話し掛けると、女官は振り返る。
「はい。さようでございますが」
自信満々に言い切られると、自分が間違っているような気がしてくる。イザベルはきっと記憶違いをしていたのだと自分に言い聞かせ、女官のあとを追った。
「ねえ、やっぱり違うと思うの」
イザベルは再び女官に声を掛ける。
応接室どころか、王宮の裏門に来てしまっていた。
「あなた、新人なの? 応接室は絶対にこっちじゃないわ」
自分の記憶を頼りにしたほうがまだ正確そうだと判断したイザベルは、立ち止まって再び女官に声を掛ける。振り返った彼女を見たイザベルは背筋が冷えるのを感じた。
(何?)
憎悪にも似た視線を投げかけられ、イザベルはゾッとする。
「新人ですって? 私の顔に、見覚えはないの?」
「え?」
イザベルは女官の顔を見つめる。しかし、全く記憶になかった。
「あなたって、さんざん人を傷付けておきながら、相手の顔すら覚えていないのね。私の双子の妹はね、あなたに給仕した際に難癖をつけられて、鞭打ちにされたのよ。理由は出されたクッキーが好みの味じゃない、だったかしら?」
冷ややかな声で告げられ、イザベルは言葉に詰まる。
彼女──正確に言うと彼女と瓜二つであろう双子の妹のことは全く記憶にない。
ただ、記憶を取り戻す前のイザベルは至る所でトラブルを起こしては鞭を振り回していたので、目の前の女性を鞭打ちしたのだと言われればそうなのかもしれないと思った。
「そのせいで私の妹の背中には醜い傷跡が残ってしまった。ショックを受けた妹は塞ぎ込んでしまって、お嫁に行くこともできないと実家で泣いている。それなのに、あなたは自分がしでかしたことなんてすっかり忘れて呑気に侯爵夫人面して、挙句に王妃様とミゲル殿下にまで取り入っている」
「それは──」
なんて言っていいのかわからず、イザベルは言葉を詰まらせる。きっと謝ったとしても、彼女の怒りは収まらないだろう。
「わたくしをどうするつもり?」
イザベルは女官と距離を保ったまま、彼女を睨む。
「どうしようかしら? 顔に向かって鞭を下ろして、その綺麗な顔を血まみれにするのはどう?」
さも名案が思い付いたとばかりにそう言われ、イザベルは背筋が冷たくなるのを感じた。
(この人、本気だわ)
一刻も早く逃げなければ。けれど、いざとなると体が動かない。
不幸中の幸いは、この女官の狙いがルイスやアレックスではなく、イザベルであったことだ。
イザベルはくるっと体の向きを変えて走り出す。しかし、足が縺れてすぐに転んだ。
「このっ」
髪の毛を引っ張られ、何本か抜ける痛みがした。
「離して!」
イザベルは自分の頭を両手で覆う。
そのとき、すぐ近くで足音がした。
「おやおや、アンドレウ夫人。こんなところに寝転んで無様ですな」
聞き覚えのある、嘲笑混じりの声。うつ伏せになったまま頭だけ向きを変えてそちらを見ると、そこには予想通りの人物──ルーン子爵がいた。
ルーン子爵は冷ややかな目でイザベルを見下ろしている。
「あなたっ! さてはあなたの仕業ね!?」
女官が一人でこんな大それたことを企むとは考えにくい。きっと仲間がいるはずだとは思ったが、まさかルーン子爵だったとは。
「口煩くて下品な女だ。人が来たら厄介だから馬車に運ぼう」
ルーン子爵がイザベルの口もとに、何かを押し当てる。独特の刺激臭がして、イザベルの意識は闇に呑まれた。
◇ ◇ ◇
遊具で遊んでいたルイスが、ふと何かに気付いたようにジェシカのもとに歩み寄る。
「ねえねえ、おかあさまは?」
「イザベル様は、少し外しているわ。おばあ様が急用でここまでいらしているんですって」
「おばあさま?」
ルイスは少し考えるように黙り込むと、首をかしげる。
「おばあさま、いないよ?」
「え?」
ジェシカは聞き返す。
「おばあさまのけはいをさがしたけど、ここにはいない」
ルイスに訴えられ、ジェシカは困惑する。
「ぼく、おかあさまさがしにいく!」
ルイスはばっとその場を離れて走り出す。
「ちょっと、ルイス! ひとりで行ってはだめ!」
ジェシカは慌てて声を掛ける。
「ルイスー! ぼくもいく!」
ルイスがどこかに行こうとしていたのに気付いたレオンが叫び、遊具から飛び降りるとルイスを追いかけて走り出す。
「レオンもだめー!」
ジェシカが必死に止めようとするのを完全に無視して、レオンはルイスを追って走り去ったのだった。




