(63)
ルイスがミゲルの側近に選ばれて一カ月が経った。
「今日もミゲル殿下の元に?」
出勤を見送りに玄関まで来たイザベルに、アレックスが尋ねる。
「はい。王妃様より週に二回は顔を合わせるようにしてほしいと言われておりますので」
イザベルは笑顔で頷く。
とは言っても、ミゲルはまだ六歳で学校にも行っていない。だから側近といっても定期的にミゲルの元に通って遊んだり、ミゲルが受ける家庭教師の授業に同席したり、ときに剣の稽古の相手をしたりしているのだ。
そしてこの日も、イザベルはルイスを連れて王宮に行くことになっていた。
「そうか。天候が怪しいから、もし雨が降ったら迎えに行こう」
「本当ですか? ありがとうございます」
アレックスの言う通り、今日は朝から曇天だった。
雨が降ると道がぬかるんで馬車が脱輪などのトラブルに遭いやすいので、転移魔法が使えるアレックスに迎えに来てもらえるのはとても助かる。
「構わない。大事な妻と息子が事故にでも巻き込まれたら大変だからな」
アレックスはふっと微笑んで、顔を寄せる。頬に柔らかなものが触れた。
(え?)
イザベルの胸がどきんと跳ねる。
「あー、ずるい! ぼくも! ぼくも!」
横でじーっとふたりのやりとりを見ていたルイスが頬を膨らませる。
アレックスは笑ってしゃがむと、ルイスの頬にもキスをする。
嬉しそうなルイスはアレックスの真似をして彼の頬にキスをすると、次はイザベルの頬にもキスをした。
「ふふっ。ありがとう」
イザベルはルイスの頬にお返しのキスをする。すると、ルイスは不思議そうに首を傾げた。
「おかあさまからおとうさまへは?」
「え?」
「おかあさまからおとうさまへはおかえししないの?」
無垢な瞳でじーっと見つめられ、イザベルは狼狽える。
(だって仮面夫婦だし! でも、ルイスの目の前だから仲良くすべき?)
最近は特にアレックスと仲が悪いわけでもないので一体仮面夫婦の定義がなんなのかイザベルも分からなくなりかけているが、当初の約束で『ふたりは仮面夫婦だけれどルイスの前だけでは夫婦円満を装う』ということになっていた。
アレックスもその約束に従い、先ほどのようなパフォーマンスを見せたのだ。
(わたくしが言い出しっぺなんだから、きちんとしないとよね)
イザベルはぎゅっとこぶしを握って気合を入れると、アレックスを見上げる。
アレックスに一歩近づくと、彼のクラバットを右手で少し引っ張った。背伸びをしてようやく、ぎりぎり頬に届く距離なのだ。
まさかイザベルが来るとは思っていなかったようで、アレックスの目が丸くなる。
イザベルは勢いに任せてアレックスの頬に唇を寄せる。
ふにっと柔らかく、でもルイスのそれよりは明らかに固く大人の男性の肌だった。
妙に気恥しく、自分の頬が赤くなるのを感じた。
「さあ、行ってらっしゃいませ!」
イザベルはすぐにアレックスから一歩離れると、彼の向きを無理やり変えて背中をぐいぐいと押す。こんな赤い顔を見られたくないから、一刻も早く出勤してほしい。
一方のアレックスはイザベルからキスされた頬に片手で触れる。彼が馬車に乗り込む際に、ばっちり目が合った。アレックスはふっと表情を緩める。
「行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
「いってらっしゃーい!」
遠ざかる馬車に、ルイスは大きく腕を振る。イザベルも片手を小さく振った。
(なんだか最近、アレックス様がやけに甘いような……)
最初の塩対応が嘘のようだ。
(流石は攻略者の父だわ……)
こんなに熱のこもった演技を四六時中されると、危うく彼が自分に恋愛的な好意を持っていると勘違いしてしまいそうになる。
しっかりと気を引き締めなければ。
一方のルイスは、馬車が角を曲がって見えなくなると、イザベルを見上げた。
「おとうさまとおかあさまなかよしだね」
「え? まあ、そうね」
にこにこしながら言われ、つい視線が泳いでしまう。
そう見えるように振る舞う約束だったのだからルイスが〝両親がなかよし〟と感じてくれているならとても嬉しいことなのだが、なんとなく後ろめたい気もする。
「ミゲルのおうちもなかよしなんだって」
「まあ、素敵ね」
ミゲルの両親とは即ちここスランの国王夫妻であり、国王夫妻が夫婦円満なのは国民にとっても喜ばしいことだ。
「うん。なかよしだからもうすぐいもうとがうまれるの。ぼくもいもうとできる?」
「げほっ!」
思わず咳き込んでしまった。
「妹? 王女様が生まれるってこと?」
「うん。まほうのしんだんでそういわれたって」
「そ、そうなのね……」
さらりと言ったが、それはまだ国家機密ではないだろうか。