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このままでは、ルイスが人前でミゲルを呼び捨てにして、礼儀のなっていない子として後ろ指を指されてしまう。
イザベルはルイスの近くによると、耳元に口を寄せる。
「ルイス。ミゲルって言うのはね、限られた人だけが使える特別な呼び方なのよ」
「とくべつなよびかた?」
ルイスはイザベルの顔を見て、目をしばたたかせる。
「ええ、そう。ミゲルが特別に許可した人しか、そう呼ぶことは許されないの。だから、人前ではあまり使ってはダメよ」
イザベルは人差し指を立てて、こっそり秘密を教えるようにルイスに告げる。
「……ひみつのなまえなの?」
「ええ」
「うわー、かっこいいね!」
ルイスは途端に、目を輝かせた。
どうやら「秘密の名前」というフレーズが、ルイスの心に刺さったようだ。
「ぼく、しらないひとがいるときはミゲルのことデンカってよぶ!」
「ええ、その方がいいわ」
「ひみつだもんね」
「そうね」
イザベルが頷くと、ルイスは満足げな顔をする。
(か、可愛い……!)
こんな子供だましの理由付けをすっかり信じてくれる純真さ、まさに天使である。
イザベルは思わずぎゅっとルイスを抱きしめる。
「ルイス、可愛いわね。大好きよ」
「ぼくもおかあさまだいすき!」
ルイスもぎゅっとイザベルに抱きつく。
ふと時計を見ると、もう夜も遅い時間になっていた。
「さあ、そろそろ遅いから寝ましょうね」
「えー。もう?」
「寝ないと大きくなれないのよ。身長は寝ている間に伸びるんだから」
イザベルはふふっと笑って、頬を膨らませるルイスの頭を撫でる。
「ポーくんもいっしょにねていい?」
ルイスはイザベルを見上げる。「ポー君」とは、イザベルがルイスのために作ってあげたテディベアのことだ。とても気に入っていて、ルイスはよくそのポー君を持ち歩いている。
「もちろん。ポー君も眠いからルイスと寝たいって」
「おとうさまとおかあさまもねるまでそばにいてくれる?」
「もちろんよ。さあ、一緒に部屋に行きましょう?」
「……はあい」
ルイスは頷くと、両まぶたを手で擦る。本当は眠くてたまらないのだろう。
ふたりのやりとりを見守っていたアレックスは立ち上がると、ルイスをひょいっと抱き上げる。そして、彼を抱いたまま二階にあるルイスの私室へと向かった。
「ポーくん」
「ああ、これだな」
真っ直ぐベッドに運ばれそうになったルイスが床に向かって手を伸ばす。そこに落ちているテディベアに気付いたアレックスは、魔法でそれを引き寄せるとルイスに差し出した。
「ありがと」
ルイスは布団に入ると、ポー君を大切そうに胸に抱く。
「ポーくんはね、ぼくをまもってくれるの」
「そうか。頼もしい守護獣だな」
「うん。ぼくのこともおかあさまのこともまもってくれるよ」
ルイスは嬉しそうに笑う。
しばらくすると、スースーと規則正しい寝息を立て始めた。
「とっても疲れていたんですね」
「ああ、そうだな」
ルイスの寝顔を見つめていたアレックスは、イザベルのほうを向く。
「よっぽど楽しかったのだな」
「そうですね。レオンと遊ぶときはいつも大はしゃぎですが、今日はミゲル殿下までいたので。突然ミゲル殿下が現れたときは本当に驚きました」
「そうだろうな」
アレックスはそのときのことを想像したのか、ふっと口元を緩める。
そして、部屋の端に置かれた時計を見た。
「よければ、下に戻って少しふたりで飲まないか?」
「あら。ぜひ」
アレックスから晩酌に誘われるのは初めてだ。イザベルは笑顔で頷く。
リビングルームに戻ったふたりは、ソファーセットに向き合って座った。
「ルイスのことなんだが──」
果実酒を注ぎながら、アレックスが口を開く。
「きみが来てから、とてもよく笑うようになった。父親として礼を言おう」
「どういたしまして。多分、大好きなお父様がきちんと時間を取ってくれるようになったことも大きいと思いますよ。母親として礼を言います。ありがとうございます」
イザベルが言葉を返すと、アレックスは口元に笑みを浮かべる。
「きみは不思議な女性だな」
「そうですか?」
「ああ。初めは正直、とんでもない女が嫁いできたと思った」
「返す言葉もございません。本当に申し訳ございませんでした」
イザベルはこめかみを手で押さえる。
結婚式の日、イザベルは初夜を迎えて寝室にやってきたアレックスに散々な罵詈雑言を浴びせていた。記憶が戻る前のこととはいえ、申し訳なさからいたたまれない。
「いや、それはもういいんだ。私もきみのことを誤解し続けて、ひどい態度を取った」
アレックスは首を横に振る。
「それに、今のきみはむしろ──」
アレックスの手が伸びてきて、イザベルの下ろされた髪に触れる。
まっすぐに見つめられ、胸がドキッとした。
「そ、そう言えば、ルイスがポー君をとっても気に入ってくれたので他にも作ろうと思うんです!」
急激な気恥ずかしさを感じたイザベルは咄嗟に話題を変える。
「ああ、あのテディベア。ずいぶんと気に入っているな」
「はい、そうなんです」
イザベルはへらっと笑いながら、お酒飲んでてよかったと思う。
変わり始めそうなアレックスとの関係に赤らむ顔を、隠してくれるから。




