(33)
「ま、魔獣です!」
エマが震える声で叫ぶ。それを聞いたルイスがすぐに「こわい」とイザベルの足にしがみついた。
(魔獣? 魔獣がいるってどういうこと? ここは管理された森だから魔獣はいないって──)
しかし、今そんなことを考えてもどうしようもない。現に魔獣らしき生き物が現れたのだから。
狼のような魔獣はゆっくりとこちらに近づいてくる。
(ルイスだけでも絶対に助けないと。熊は背中を見せちゃ駄目って聞いたことあるけど、魔獣も同じかしら? 木に登れば助かる? ううん、木なんてこの格好じゃ登れないわ)
生まれてからずっと安全な場所で過ごしてきたので、実際に魔獣を見るのは初めてだった。当然、どういう対処をすればいいのかなんてわからない。
イザベルは自分にしがみつくルイスを抱き上げると、魔獣と目を合わせたまま少しずつ後ずさる。
「エマ、荷物を投げ捨てて!」
「はい!」
エマは持っていたバスケットを遠くに投げる。食べ物が入っていた匂いが残っているのか、魔獣はそのバスケットのほうに駆け寄るとくんくんと匂いを嗅いだ。
「逃げるわよ!」
叫ぶのと同時に走り出したが、思うように走れない。まだ小さいとはいえ、ルイスの体重は十五キロくらいある。そのルイスを抱き上げて走るのは至難の業だった。
イザベル達が逃げ出したことに気付いた魔獣がグルルと唸り声を上げる。
「きゃっ」
「エマ!」
足をもつれさせたエマが転んで、イザベルは立ち止まる。すぐ間近に魔獣がいるのが視界の端に映った。
「おかーさま! くる! こわい!」
イザベルの首に回したルイスの腕にギューッと力が籠る。
(逃げられない。襲われる!)
ルイスをぎゅっと抱きしめたまま恐怖でぎゅっと目を瞑った次の瞬間、ドーンと音がして周囲に突風が吹いた。
すぐそこにいた魔獣は風で吹き飛ばされ、キャインと悲鳴が聞こえた。
(何これ……。もしかして、ルイスの魔力暴走?)
状況的にそれしか考えられなかった。
イザベルは咄嗟に周囲を見回す。
「エマ! 大丈夫?」
「はい」
エマはうつぶせに倒れたまま頷く。
幸いにして、エマは転んだせいで体勢が低いままでいたのでルイスの魔力暴走による怪我もせずに無事だった。
「ルイス、ありがとう。助かったわ!」
「ぼく?」
「ええ、そうよ。ルイスが魔法でやっつけてくれたから助かったの」
ルイスは自分が魔獣をやっつけた自覚がないようで、戸惑った顔をする。けれど、自分の力でイザベル達の窮地を脱したことを褒められ、嬉しそうに笑った。
(なんにせよ助かったわ。でも、これからどっちに行けば──)
やみくもに動き回っても入り口にはたどり着けないだろう。それに、いつまた恐ろしい魔獣に襲われるかもわからない。
「……さっきの湖に戻りましょう。そこからもう一度、道を辿るの」
「はい。かしこまりました」
エマは頷くと、立ち上がって服についた泥を落とした。
◇ ◇ ◇
魔法庁の執務室で仕事をしていると、ふいに部屋のドアを強く叩く音がした。
「何事だ?」
アレックスは突然の大きな音に、眉を顰める。
そこに現れたのは、魔法庁には普段いない警邏騎士の制服を着た青年がふたり、それにアンドレウ侯爵家で雇っている御者だった。
「アンドレウ卿、至急お耳に入れたいことが」
警邏騎士が突然、しかも職場にやってくるなどただ事ではなかった。
「本日、巡回で王都西方の森を付近を通りかかった際にアンドレウ侯爵家の馬車を発見いたしました」
「妻が息子を連れてメンタムの森にピクニックに行った。それがどうかしたのか?」
なんでわざわざそんな用でここまで来たのかと、訝しく思う。
メンタムの森は王都では人気のピクニックスポットだ。今日のように晴れた日はたくさんの馬車が停まっているだろう。
(馬車同士の接触事故でも起こしたのか?)
おどおどした御者の様子を見てそんな想像をする。しかし、次の警邏騎士の言葉で一気に霧散した。
「いいえ。メンタムの森ではありません。隣接するグメークの森です」
「グメークの森だと?」
アレックスは警邏騎士に聞き返す。
メンタムの森とグメークの森は隣接しているが、しっかりと整備されて安全が確保されているメンタムの森に対して、グメークの森はあまり整備が行き届いていない。
それどころか、元々メンタムの森に住んでいた魔獣たちをグメークの森に移動させたので危険性が高いとすら言える。
「この者によると、奥方ご令息様、それに侍女が戻らないと」
警邏騎士は御者のほうをちらりと視線で指す。
御者は真っ青になったまま頷いた。
(……戻らない?)
サーッと血の気が引く。
「なぜグメークの森になど連れて行った!」
「私も知らなかったんです。奥様に道が通行止めだからこっちに行けと言われたとおりに進んだらその森に──」
御者は震えながら答える。
「今どういう状況なんだ!?」
「警邏騎士隊を複数名派遣してご子息達の行方を探しておりますが、今のところはまだ──」
警邏騎士のひとりが首を左右に振る。
(すぐに捜さなければ)
アレックスは執務室を飛び出す。
最悪の事態が脳裏を過った。