(32)
「わあ、素敵な場所でございますね」
エマも歓声を上げる。
澄んだ大きな湖の湖畔には背の低い緑の草が生え、色とりどりの花が咲いていた。ルイスが生えていた花を一本摘む。
「おかあさま、どうぞ」
「あら、くれるの? ありがとう」
イザベルはルイスから花を受け取る。白い花びらの可愛らしい花だ。
「とっても綺麗ね」
「うん。でも、おかあさまのほうがきれいだよ」
にこっと微笑んでルイスが言ってのけた言葉に、イザベルは(ん?)となる。
(今、さらりと甘い言葉を言わなかったかしら? こんなの、思春期に天使なルイスが同級生の女の子に言ったりしたら、尊すぎてみんなこの子のこと好きになっちゃうわ!)
さすがは乙女ゲームの攻略対象キャラクター。正規ルートでなくても、女性を魅了する天性の才を持っているようだ。
(レオンも実はこんな感じなのかしら? アレックス様に爪の垢でも煎じて飲ませたいわね。全然気の利いたことを言えないのだもの)
まあ、アレックスの場合は言う必要もないということもあるが。
アレックスが小さな天使達に女性の喜ばせ方を指導してもらっている姿を想像し、なんだかおかしくなってくる。
「奥様。こちらに準備ができました」
ランチを摂るための場所をセットしていたエマがイザベルを呼ぶ。
声のほうを見ると、野原の上に大人四人くらいが座れるシートが敷かれ、その上に持参したお昼ご飯が広げられていた。
「ルイス。手を拭いてご飯にしましょう」
「うん」
ルイスは素直に濡れタオルを受け取ると手を拭き、シートの端っこにちょこんと座る。
(可愛い!)
天使のような男の子がピクニックのシートの端に座る図。この世で一番尊い構図のひとつなのではなかろうか。カメラがないのが口惜しい。
三人で仲良く食事を摂ったあとは、湖を眺めたり、花を摘んだり、小さな魚を探したりして穏やかな時間を過ごす。
「おかあさま。えをかいてもいい?」
「絵? もちろんよ」
おずおずとイザベルのスカートを引っ張りそう告げたルイスに、彼女は笑いかける。ルイスはパッと表情を明るくして、屋敷から持参したスケッチブックと、顔料と蝋を練って固めたクレヨンのような物を取り出す。
シートの端っこに座ると、そこで景色の絵を描き始めた。
(ふふっ。すごく熱中してる)
念のためにお絵かき道具を持ってきて大正解だった。ルイスの手元を見ると、青と白を重ねて湖の色を表現しようとしていた。
(教えてもいないのに……。もしかして、ルイスったら絵の天才!?)
世の中の親バカの気持ちが痛いほどわかる。
我が子、バンザイである。一挙手一投足の全てが可愛いし、ちょっとしたことが天才的に見えてしまうのだから不思議だ。
(今日、連れてきてよかった。素敵な場所を教えてくれたサラさんと、行っていいと許可してくださった旦那様にはお礼を言わないと。そうだわ、今度大奥様もお誘いしたら──)
そんなことを考えていると、どこからかワォォーと鳴き声が聞こえてきた。
イザベルはその鳴き声がしたほうを見るが、森が広がっているだけで鳴き声の主は見えない。
「今何かの鳴き声がしなかったかしら?」
「そうでございますか?」
エマは気付かなかったのか、きょとんとした顔でイザベルを見返す。
(気のせい? でも……)
なんとなく嫌な予感がする。
持参した懐中時計を見ると、馬車を降りてからちょうど二時間くらい経っていた。
「ルイス、そろそろ戻りましょう」
「ええー。まだあそぶ」
ルイスはイザベルを見上げ、頬を膨らませる。
「また連れてきてあげるわ」
「本当?」
「ええ、約束よ」
イザベルは小指をルイスに差し出す。すると、ルイスは自分の小指を絡めてきた。
「おとうさまはやくそくのちかいをしらなかったからおしえてあげたよ」
「約束の誓い?」
「うん。こゆびからめるの」
ルイスに言われて、この指切りは前世の慣習だと気付く。
アレックスはおかしな誓いの仕方だとさぞかし困惑しただろうと思うと、ふっと笑いが漏れる。
「さあ、戻りましょう」
「うん」
敷物を片付けて元来た道の方向へと歩き出す。
しかし、三十分ほど歩いておかしいと感じた。
「入り口ってこんなに遠かったかしら……?」
行きのときに入り口から湖まで何分かかったかを計っていたわけではないので正確な時間はわからないが、感覚的には十五分くらいで着いた気がする。
歩けども歩けども同じ景色が続いていて、馬車に近づいている気が全くしなかった。
「もしかして、道を間違えてしまいましたでしょうか?」
エマが後ろを振り返る。
「まいごなの?」
ルイスは大人ふたりの会話を聞いて不安そうな顔をした。
「大丈夫よ。ちょっと間違えただけだから」
イザベルは安心させるように、ルイスの頭を撫でる。
そのとき、また遠くから獣のような声がするのが聞こえた。
「なんかいるの?」
今度はイザベル以外のふたりにも聞こえたようで、ルイスは繋いでいるイザベルの手にぎゅっと力を込める。
「メンタムの森はきっちりと管理された森なので大丈夫です!」
エマは自分自身の不安も打ち消すように、両手に拳を握ってルイスを励ます。
ガサッと音がした。ハッとしたイザベルは背後を振り返り、ヒュッと息を呑む。
(嘘でしょう?)
そこには、体長二メートル以上はありそうな大きな狼のような獣がいた。