(30)
(まさか、私がいない間にイザベルが癇癪を起して?)
初日に見たイザベルの横暴ぶりが脳裏に蘇り、背筋が冷たくなる。
「一体どうした?」
アレックスは片づけをしている使用人に尋ねる。
「まあ、旦那様。こんな体勢で申し訳ありません」
使用人はアレックスに気付くと慌てて立ち上がる。
「お客様がいらして興奮したルイス様がぶつかってしまわれたのです。お怪我はないから大丈夫ですよ」
使用人の言葉に、ホッとする。
「ルイス達はどこに?」
「先ほどお庭に向かわれました」
「わかった。ありがとう」
アレックスはお礼を言うと、庭に向かった。
庭園を見回し、ルイス達を探す。木々の向こうから、子供の笑い声が聞こえた。
「あっちか」
声のするほうに向かうと、ルイスとイザベル、それにジェシカとその息子のレオンがいるのが見えた。
追いかけっこでもしているのだろうか。
ルイスとレオンは楽しげに走り回っていて、ガゼボの椅子に座ったイザベルとジェシカはそれを優しく見守っていた。ふたりは時々言葉を交わし、笑顔を見せる。
(万が一を考えて急いで帰ってきたが、杞憂だったようだな)
遠目で見る限り、ジェシカはリラックスして会話を楽しんでいるように見えた。
(とんでもない女が嫁いできたと思っていたが、わからないものだな)
考えうる限り最低最悪の女だと思っていたが、蓋を開けてみれば結婚後の周囲からの評判は悪くない。
(邪魔をするのも悪いか)
あそこにアレックスが行けば、多かれ少なかれ四人に緊張感を与えてしまうだろう。
アレックスはしばらく楽しげなルイス達を眺めてから、屋敷の中に戻ったのだった。
◇ ◇ ◇
結局、ジェシカとレオンは夕方近くまでアンドレウ侯爵家に滞在して楽しい時間を過ごした。
ふたりが乗った馬車を見送ってから、イザベルはルイスの手を引いて彼の部屋へと向かう。
「楽しかった?」
「うん! またあそぶの」
「そうね」
「レオンくんにおてがみかくから、ちゃんともじかけるようになるよ」
「まあ、頼もしいわ」
イザベルはにっこりと頷く。
少しすると、ルイスはうとうとし始めてそのまま眠ってしまった。イザベルはルイスを抱き上げてベッドに寝かせてやる。
(よっぽど楽しかったのね)
イザベルはルイスの寝顔を眺め、口元を緩める。
そのとき、部屋のドアが開く気配がした。
「あら? 奥様?」
「サラさん?」
そこに現れたのは、サラだった。日中はいなかったように思うから、夕方になってルイスの様子を見にきたのだろう。
「日中お客様が来ていて、疲れてしまったみたいなの。だから、今日はルイスの世話は大丈夫よ」
「お客様?」
サラは訝しげな顔をする。
「ええ。旦那様の従姉妹のジェシカ様と息子のレオンよ」
「アレックスはそのことをご存じなの?」
「もちろん」
イザベルは頷く。
アレックスにはジェシカに手紙を出す前にきちんと伝えたし、今日も庭で遊ばせていたらアレックスがふらりと現れて、『そろそろ冷える時間だから中に入ったらどうだ』と呼びに来た。
聞くと、珍しく仕事が早く終わったから早く帰れたそうだ。
部屋に戻ったあとはみんなでイザベルお手製の焼き菓子をおやつに食べたのだが、そのときもアレックスが同席してくれたのでルイスは大喜びだった。
「ふーん。ちっとも知らなかったわ。アレックスも教えてくれればいいのに」
サラは頬に手を当てて、困った人ね、とでも言いたげな口調で呟く。そして、イザベルを見つめてにこりと笑った。
「奥様とアレックス、ここ最近で随分と仲がよくなったのね。びっくりしちゃった」
「ええ、まあ……」
イザベルは曖昧に笑う。
イザベルとアレックスがお互いに歩み寄ったのはひとえにルイスへの影響を考慮してのことなので、実際に仲がよくなったのかといわれると疑問が残る。しかし、サラにそのことを話す必要はないだろう。
サラはベッドで眠るルイスをちらりと見る。
「お邪魔みたいだし、私はもう行くわ」
「邪魔だなんて──」
なんとなく言葉に棘があり、イザベルは困惑する。サラが部屋から出て行こうとするのを見て、ふと彼女に聞きたいことがあったのだと思い出す。
「あっ、そうだわ。サラさん」
「なんでしょう? 奥様」
サラは振り返ってにこりと微笑む。
「あの……この辺にいいピクニックスポットってあるかしら?」
今日ジェシカからレオンを連れて時々ピクニックに行くという話を聞いて、イザベルもルイスを連れて行ってみようと思った。
しかし、イザベルは記憶を失う前もあともピクニックなど全く縁がない生活をしていたので、いい場所がわからない。この辺りに長く住んでいるサラなら、いい場所を知っているかもしれないと思った。
「ピクニックスポット?」
「ええ。ルイスと行こうと思って」
サラは少し考えるように視線を宙に漂わせ、「そうだわ」と手を叩く。
「ここから街道を真っすぐ西に行って橋を渡ったら道が二手に分かれるの。そこを右側に進んだ向こうにある森の奥に湖があって、その周囲はとてもいいピクニックスポットみたいよ。馬車なら一時間もかからず行けるんじゃないかしら」
「西の橋を渡った向こうを右側ね? ありがとう!」
「いえ。お構いなく」
お礼を言うイザベルにサラはにこりと笑いかける。
(来週あたり、ルイスを連れて行ってあげましょう!)
イザベルは初めてのルイスとのピクニックに向けて胸をわくわくさせる。
自分を見つめるサラの瞳が冷たいことには、気が付かなかった。




