(29)
ジェシカはそれを聞くと暫く逡巡するように黙り込み、おずおずと口を開いた。
「実はわたくし、今日ここに来ることを屋敷を出る直前まで迷っていたの」
「え?」
「あなたがとんでもなく危険な方だと、噂で聞いたから」
ジェシカはバツが悪そうな顔をしてカミングアウトする。
「ちょっとしたことで揚げ足を取って相手を糾弾したり、気に入らないことがあるとすぐに激高したりするって」
ジェシカは視線を彷徨わせてから、イザベルを見る。
「でもさっき、ルイスが転んだでしょう? あのとき、イザベルさんがすぐにルイスを抱き上げて、叱っている様子を見てあの噂は嘘だって確信したわ。人の噂って当てにならないわね」
「まあ。ほほほ」
ジェシカはふわっと笑う。一方、イザベルは表情を引きつらせた。
(その噂、事実だわ……)
過去の自分のこととはいえ色々なところに悪評が広がっていて、本当にお恥ずかしい限りだ。
でも、こうして自分のことを『悪女ではない』と判断してくれる人が増えたのは純粋に嬉しかったし、自分の思っていることを率直に話してくれたジェシカに対してはかえって好感を覚えた。
「アンドレウ侯爵家は庭園が広くていいわね。羨ましいわ。マルチネス伯爵家は剣の練習場があるせいで庭が狭いの」
「剣の練習場。すごいですね」
自宅でも24時間365日訓練できる環境が整っているなんて、さすがは将来の天才騎士団長の実家だ。
「そうでもないわ。わたくしは美しい花を愛でられる優雅な庭園のほうがよかったのだけど。仕方がないから、たまにピクニックに連れて行ってあげているわ」
「ピクニック?」
イザベルは目を瞬かせる。ピクニックのことはもちろん知っているが、この世界でピクニックに行くという発想が全くなかった。
一方のジェシカは、少し向こうにある木の下でルイスと遊ぶレオンを見て微笑む。
イザベルも、レオンとルイスのほうを見る。ふたりは、葉っぱを集めているように見えた。
レオンが何かをルイスに話しかけると、ルイスは目をきらきらさせて嬉しそうに笑った。
(何の話をしているのかしら?)
ここまで会話の内容は聞こえないが、きっと楽しい話をしているのだろう。
あんな風に楽しげなルイスを見ると、こっちまで嬉しくなる。
それと同時に、複雑な気持ちになる。
(レオンがグラファンのレオン・マルチネスだとすると、将来的にふたりは恋のライバルになるわけだけど──)
ルイスはヒロインがルイスルートにならなかったとき、手に入らない相手に恋焦がれてヒロインを殺めようとする。もしも、レオンルートになった場合、ルイスはレオンに返り討ちにされて命を落とすのだ。
そんな救いようのない未来を知っていながら彼らが仲良くなるのを見過ごしていいのかと、迷いが生じる。
(でも、ルイスがヤンデレ男になるのを阻止できれば、ヒロインを殺そうとしたりもしないのよね? なら、わたくしが頑張ればいいのよ)
できることなら、定期的にルイスにこの楽しい時間を提供してやりたい。
子を思う母は強いのだ。
「ジェシカ様、またいつでもここに遊びに来てください。わたくしも、お誘いさせていただきますね」
ジェシカはイザベルの誘いに目を瞬かせ、ついでふわりと微笑む。
「ええ、是非!」
◇ ◇ ◇
馬車を急いで走らせて屋敷に戻ったアレックスは、懐から銀の懐中時計を取り出した。
「予定より遅くなってしまったな」
今日の日中、アレックスの従姉妹であるジェシカが息子を連れてアンドレウ侯爵家を訪問しているはずだ。
実は数日前、アレックス宛にジェシカから手紙が来た。
──いつものように屋敷に帰ってから自分宛ての手紙を確認していたアレックスは、ふと手を止める。
『ジェシカから? 珍しいな』
彼女からの手紙など、何年ぶりだろう。懐かしく思いながら封を開くと、イザベルから屋敷に招待されたが行って大丈夫なのかと探りを入れる内容がしたためられていた。
イザベルは問題のある令嬢として社交界に名を轟かせていた。
年齢の近いジェシカは当然、その噂を耳にしたことがあるのだろう。
いくら伯母であるバルバラからの依頼であるとしても、大事な息子を連れてそんな悪評のある女の元に行くのは心配に違いない。
アレックスは暫し考える。
結婚初日のイザベルの態度は本当に酷いものだった。こんなにも自分勝手で傲慢な女が実在するということに、衝撃を受けたのをよく覚えている。
しかし、その後のイザベルは特に問題行動は起こしていないようだ。
時折サラから愚痴めいたことを言われることはあるが、使用人に確認するとサラが大袈裟に言っているだけに感じる。
(ルイスに同年代の友人を作ってあげたいと言っていたな)
同年代に気心の知れた友人がいることがルイスにとっていい影響を与えるという点については、アレックスも同意する。
少し迷ってから、アレックスは特に問題はないから是非来てもらいたい旨と、心配ないようアレックスもその日は早めに帰る旨を書きしたためた──。
馬車を降りて屋敷に入ると、なぜか廊下に花が散らばっており使用人が床を拭いていた。