❖ アレックスの結婚(バルバラ視点)
バルバラがアンドレウ侯爵家に嫁いできたのは、二十二歳時だった。
子爵令嬢であったバルバラの嫁入りを、身分差を理由に当時のアンドレウ侯爵夫妻は反対した。それを、『彼女と結婚できないなら私は家を出る』と言って猛反発して粘り強く説得したのは、当時恋人であった夫だ。
結婚後、バルバラは『やっぱりあの子を迎え入れたのは失敗だった』と言われないように、必死で勉強した。
息子の結婚を機に前アンドレウ侯爵夫妻は隠居生活に入ってしまったので、屋敷のことは全て手探り状態。本や資料を読み、知人に教えを乞い、ときには使用人に頭を下げて教わったこともある。
その甲斐あって、嫁いで五年もする頃には彼女は周囲の信頼を勝ち取っていた。
夫が若くして亡くなりアレックスが当主になってからも、バルバラは実質的な当主として屋敷を回して息子を支えた。
そんなバルバラに嬉しい知らせが来たのは、アレックスが二十二歳の時だ。
『結婚しようと思います』
ある日、アレックスがバルバラにそう告げたのだ。
相手は夜会であった子爵令嬢で、彼女からの熱烈なアプローチらしい。
結婚に反対される辛さは痛いほど知っている。だから、バルバラは息子の判断を信じてその結婚を祝福した。
一年もすると、ルイスが生まれ、アレックスは魔法庁の副長官になった。
将来の跡取りの誕生と息子の昇格に、バルバラはとても喜んだ。
しかし、アレックスの結婚生活に暗雲が立ち込め始めたのはこの頃からだった。妻であるアンドレウ侯爵夫人が、頻繁に出歩いて浮名を流すようになったのだ。
もちろん、バルバラは彼女を注意したし、アレックスにも彼女の行為を止めさせるように進言した。
ある日、アレックス達が口論していると聞いて止めに入ろうとしたときのこと。
『あなたのお母様、こうしたらいい、ああしたらいいって、いちいち煩いのよ! 好きにやりたいのに、本当に煩わしいったらありゃしないわ。隠居したなら隠居した人らしく、別邸に籠ってなさいよ!』
金切り声で叫ぶその言葉を聞いて、衝撃を受けた。
バルバラは義母から何も屋敷のことを教えてもらえなくて、苦労した。よかれと思ってしたことが、逆に迷惑になっていたなんて思いもしなかった。
やがて彼女はどこの馬の骨ともわからない男と駆け落ちし、帰らぬ人になった。
女主人がいないと屋敷は回らない。
バルバラは再び、アンドレウ侯爵家の女主人として切り盛りを始めた。だが、年齢と共に体力は確実に衰えており、ルイスが当主になるのを二十年以上待つことは無理だ。
まだ二十代半ばのアレックスの再婚話が持ち上がった最中、バレステロス公爵家の家紋入りの信書が屋敷に届いた衝撃は、今でもよく覚えている。
『アレックスにバレステロス公爵令嬢を嫁がせたいですって?』
内容を見て、頭が痛くなる。
イザベルの悪評は、社交パーティーへの参加回数が減っているバルバラすらたびたび耳にしていた。
文面は「娘を是非」という申し出だが、実質的にこれは決定事項と同義だった。
なぜなら、相手は大きな権力を持つバレステロス公爵家であり、こちらから断ることなどできないのだから。
もし断りなどすれば、どんな報復措置を受けるかわからない。
周囲の貴族達もより高位であるバレステロス公爵家側に同調するだろう。
手紙の文面を暫し眺めていたアレックスは顔を上げ、バルバラを見る。
『彼女の悪評は私も聞いたことがありますが……きっと、誇張されているのでしょう。ただ、とても気が強いのは確かなようですので、気を遣いそうですね。なんにせよ、公爵家からご指名いただけるとは名誉なことです』
アレックスはバルバラを安心させるかのように、ハハッと笑う。
断れないことをわかった上で、この暗い空気を明るくしようとしていることがわかり胸が苦しくなる。
(アレックスとイザベルさんの関係を悪化させないためにも、わたくしは別邸に留まっていた方がいいかもしれないわね)
良かれと思ってしたバルバラの行動は、結果としてアレックスと前妻の喧嘩の一因になった。今度は同じ間違いを犯さないように、バルバラはできるだけ屋敷に近づかないと決めた。
◇ ◇ ◇
アレックスが結婚して一カ月ほど経ったある日のこと。
届いた手紙を順番に眺めていたバルバラは、見慣れた家門の封蝋が押された封筒を見て手を止めた。
間違いなくアンドレウ侯爵家の家紋だが、綴られた文字はアレックスのそれとは違い女性的だ。
「イザベルさんから?」
イザベルとは結婚式以来会っていない。
ウエディングドレスを着たイザベルは同性でも目を瞠るような美人だったが、終始不機嫌そうにして黙り込んでいたのが印象的だった。
「一体何を──」
封を開き、内容に困惑する。そこには、ルイスのことで心配事があるので相談したいという旨が書かれていたのだ。それに、屋敷の運営に関わることができず困っているとも書かれていた。
(一度、様子を見に行ったほうがいいのかしら?)
バルバラは迷った。
できるだけ距離をとって干渉しないようにしてきたのだが、向こうが助けを求めているなら手を差し伸べない理由はない。
ただ、噂で聞くような短気で怒りっぽい性格ならば、下手に助言すると気分を害してしまい、前回の結婚のときの二の舞になってしまうかもしれない。
彼女が噂通りの性格なのか、噂は噂でしかなく実は穏やかな女性なのかを知りたかった。
(向こうから手紙を送ってきた以上、わたくしと会っても猫を被っている可能性はあるわ。何か、手っ取り早く本性を見極められるいい方法はないかしら?)
逡巡していると、ティーカップの中身が少なくなったことに気付いたメイドが紅茶を足してくれた。それを眺めているとき、閃いた。
(そうだわ! わざと紅茶を零して、彼女のドレスにかけることにしましょう)
人間、予期しないことが突然起こると、意図せず素が出てしまうものだ。
もし噂通りの女性ならば、ドレスを汚されたと激怒するに違いない。
「そうと決まれば、返事は早いほうがいいわね」
バルバラは早速ペンを手に取り、イザベルへの返事をしたためたのだった。